進行ー2
「大野先生!」
瑠唯が身を乗り出して手を振る。
大野が右手を軽くあげてニマっと破顔した。そして後ろからついてくる背の高い人物に何やら耳打ちをしている。大野もそれなりの身長がある為、その身体に隠されて顔は見えないが、高級そうなスーツを涼しげに着こなした男性だ。大股で近づいてくる大野に、相変わらず、数週間ぶりの先生だと瑠唯は思った。彼が近づくにつれてそのわきに隠れていた男の顔が瑠唯の目にはっきりと映った。
「あれ?山川先生?」
孝太がそう呟くのと瑠唯が凍りついたのは同時だった。周りから音が消え…息も出来ない。直ぐ様この場から立ち去りたい衝動にかられる。立ち去りたいのに…全く足が動かない。まるでその場に縫い止められてしまっているようだ。
山川と呼ばれた男が瑠唯の姿を捉えて、真っ直ぐ視線を向けてくる。その視線から目が離せない…その時…彼女の視界がグラリと揺らいだ。顔面蒼白の瑠唯がその場にしゃがみ込む…
「おい!どうした!」
傍らにいた孝太が力強く瑠唯を抱えた。大野も異変に気付いたようで、直ぐ様駆け寄ってくる。後ろの男もそれに続いた。
「取り敢えずそこに座れ!」
孝太が体をを支えて側の椅子に座らせる。
「急にどうした?苦しいのか?」
下を向き、肩で息をしている瑠唯を心配そうにのぞき込む。
そこへ駆け寄ってきた大野が
「なんだ…熱烈な歓迎だな!」と、冗談めかすと
「先生!」と孝太が鋭い視線を向けた。
「ああ…悪い、悪い…だが、心配ない。過呼吸だ!」
「瑠唯!大きく息を吐け!ゆっくり息をしろ!」
それに従うと、少しずつ落ち着きを取り戻す。大野も多少は心配したのだろう…瑠唯を名前で呼ぶ時は、少しだけ余裕を無くした時だ。
「…すみません…急に目眩がして…もう平気です…」
異変に気付いた空港スタッフが駆け寄ってくる。周りの視線も一斉に瑠唯達に集中している。
「どうかなさいましたか?ご気分が悪いようでしたら医務室にご案内致しますが…」
「いや…大丈夫です。ちょっとした立ちくらみなので。お騒がせしました。それに…我々は医者なので…」
大野がそう言ってウィンクをして見せた。空港スタッフの頬がポワっと赤らむ。落ち着きを取り戻した瑠唯がその様子を見て、内心呆れ…そして安堵する。
ああ…大野先生だ…
五年前…瑠唯は都内の大学病院で研修医となった。卒業した大学の付属病院だ。そこで瑠唯の指導医となったのが、山川修司…当時三十一歳…若手のホープと言われていた消化器外科の医師だった。端正な顔立ちにさらりと横に流した黒髪、185センチの身長に均整の取れた身体、性格も穏やかで患者にも周りのスタッフにも誠実で実直…当然の事ながら絶大なる人気を得ていた。研修医に対しても、時には厳しく…しかし、丁寧で熱心な指導は誰からも評価されていた。特に熱心だったのが、内視鏡の指導だ。巧みにカメラを操り、痛みも少なく時間も短いと評判だった。その山川に瑠唯は一年間みっちり指導を受けた。元々勤勉で、努力家だった彼女の腕前はメキメキ上達していった。その日の検査が上手くいくと「はい、ご褒美。」と言って飴を渡される。綺麗な花がらの紙に包まれたミルク味の飴…この飴を貰うのが何よりも嬉しかった。一日のうち、院内での時間はほぼ全て一緒に過ごす程、瑠唯は山川に傾倒していった。そして年頃の孤独な娘がそんな完璧な指導医に恋に堕ちるのにそう長い時間はかからなかったのである。そんな中で…
『劇症型腸炎』と言う難病に遭遇したのだ。
「大野先生…始めまして。高山総合病院のERにおります、長谷川と申します。先生にお目にかかるの楽しみにしていました。今後、宜しくご指導下さい!」
「ああ!此方こそ宜しく!今日は車出して貰ってありがとう!助かったよ!何しろ道中長かったからなぁ〜ケツと腰がいてぇよ!」
そう大野が戯けて見せた。
「山川先生、お久しぶりです!ドイツどうでしたか?…でも、どうしてお二人が…?」
「長谷川先生、久しぶり。三ヶ月間、なかなか有意義だったよ!
大野先生のことを入国審査でお見掛けして、声を掛けさせてもらったんだ。」
…懐かしい…山川先生の声だ…瑠唯は目を綴る…
「ああ、偶然あって、話をしたらおんなじ所に帰るっつうから、迎えが来てるはずだから、よかったら一緒に行くかって誘ったんだ。ははは!まさか原田も一緒だとは思わなかったがなぁ」
瑠唯は、はぁーと息を吐き
「先生!メールしましたよねぇ?見てないんですか?長谷川先生、先生の顔よく知らないから一緒に行きますって!」と口を尖らす。
「そういやぁそんなメール見たかもな!お前もそんだけ喋れりゃぁもう大丈夫そうだな!じゃあ行くか?」
そう言って大野はズンズン歩き始める。
「あっ…待って下さいよーお荷物お持ちしますから!」
孝太が急いで後を追う。
まずい…と思った時には遅かった。山川は既に隣に居て…
「久しぶりだね。原田先生…」と瑠唯を優しく見下ろした。
瑠唯は顔を上げられず俯きながら
「ご無沙汰しております。」と、絞り出すように答えた。