15 師と弟子①
階段を駆け上がったジュジュの目に入ってきたのは、お互いを慰める様に寄り添い合う、三人の子どもたちの姿であった。
子どもたちは皆が一様に恐怖に顔を引き攣らせ、震えながら“結界”の前で、力なく座り込んでいる。
「ジュジュお姉ちゃんッ──!!」
子どもの内の一人である小さな女の子が、階段を駆け上ってきたジュジュの姿に気が付くと、泣き顔のままジュジュの胸元に勢いよく飛び込んでくるのであった。
「ナータちゃん!! あぁ……無事で本当に良かった! どこも怪我はしていない? オリガさんが心配していたよ」
ジュジュは衝撃で転びそうになるものの、少女をか細い両腕で力強く抱き止める。
そして胸元に飛び込んできたその小さな女の子を落ち着かせるように、片手でワシャワシャと頭を激しく何度も撫で付けると、もう片方の手で力強く背中を上下に摩ってあげるのだった。
少女が何度も鼻を啜り上げながら、嗚咽混じりに言葉を漏らす。
「お姉ちゃん……ひっく……怖いよぉ……」
齢10歳にも満たない小さな女の子は、先ほど店の外で遭遇したディミトリや、その妻であるオリガが目に入れても痛くないと公言し、愛してやまない一人娘のナスターシャであった。
「ナータちゃん。今日はどうしてこんな所へ来ちゃったの? 酒場へは来ちゃ駄目だってお母さんがいつも言っていたよね」
「お父さんが……美味しいジュース飲ませてくれるって……だから……」
──普段、ナスターシャが場違いな酒場に姿を見せる事はそうある事では無い。
だが漁の結果内容はともかく、今日もまた自身の父が無事に陸へと戻って来れた良き日である……。
父の言葉に誘われ、
渋る母の背を追い、
まるで甘い蜜に釣られた蜜蝶の様に酒場に来てしまった少女であったが、運悪く今回の魔獣暴走に巻き込まれてしまったようであった。
魔獣暴走が発生した混乱の最中、母であるオリガとは逸れてしまったそうだが、怪我も無く無事でいられたのは不幸中の幸いであろう。
「そうだったんだねナータちゃん。教えてくれてありがとう」
ナスターシャの友達であろう他の二人の子どもたちの名前は知らないが、ジュジュは目の前の少女とはちょっとした縁があり、ラウラレンへと越してきたその日より親交があるのだった。
またその親であるディミトリの目にも、自身の娘と掛け値なしに仲良くしてくれる、ナスターシャにとっては、言うなれば姉のような存在と言える魔女見習いは、大変好ましい人物として映し出されていた。
そのお陰かは定かではないが、妻のオリガだけではなくディミトリ本人も、何かに付けていつもジュジュを気に掛けてくれている様子である。
……当初はその恐ろしい相貌から一歩距離を置いていたジュジュであったが、今では街の中で顔を合わせれば、仲良く談笑する程度には心を許している存在なのであった。
──家主と借主という間柄だけではなく、今となっては師である魔女の次に大切な存在とも言うべき一家なのであった。
「……本当に怖かったねナータちゃん──」
ジュジュはナスターシャの背中を撫でながら、まるで呪文を唱えるかのようにナスターシャを慰め続ける。
「──でも大丈夫だよ、絶対に大丈夫。大丈夫だからね。ナータちゃんやみんなのお父さんたちが、街のために今必死になって戦ってくれてるからね。でも怖いよね……頑張ろうね」
恐怖のためかガクガクと震えが止まらず、浅い呼吸を繰り返していたナスターシャであったが、ローブの上から感じるほのかなジュジュの身体のぬくもりと慰めの言葉に安堵したのか、次第にその身体の震えを収めるのであった。
ナスターシャが瞳の縁に大きな粒の涙を浮かべ、縋るようにジュジュのローブを引っ張る。
そして表情を伺うように、下からジュジュの顔を見上げるのであった。
「……本当? お父さん……大丈夫かなぁ……?」
「大丈夫。だって、ナータちゃんのお父さんは世界で一番の力持ちなんだもん! それにね、聞いてナータちゃん。実は皆には内緒なんだけど……この街とは遠く離れた王都から、遊びに来てくれていた素敵な騎士様たちが、ディミトリさんたちに力を貸してくれているんだ!! だから……絶対に大丈夫だよ。お姉ちゃんを信じてね」
ジュジュの言葉にナスターシャは力無く、うんと頷くと涙で濡れた顔をローブに埋めるのであった。
ジュジュは胸元の小さな女の子の頭と背中を優しく撫でながら、もう二人の子どもの様子を心配そうにチラリと伺う。
「「…………」」
二人の子どもは今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、魔女見習いとナスターシャを遠巻きに眺めているのであった。
ジュジュが二人を見つめ、ナスターシャに引っ付かれたまま無言で両手を広げる。
ジュジュの意図をその瞳から察した二人の子どもは、まるで堰を切ったかのように顔をくしゃりと歪めると、まるで犬のように魔女見習いへと駆け寄り、その胸元へと飛びつくのであった。
◇ ◇ ◇
魔女見習いジュジュは、険しい表情で“結界”と対峙するのであった。
ベロベロに泥酔した魔女フレリアが、自身が寝床と定めた場所以外で、人目も憚らずに酔い覚ましの仮眠を取る際……──他人への迷惑など一切考慮せずに堂々と展開されるのが、その最高位の結界魔法なのである。
魔女曰くその魔法は、
『だって、寝てる間に男の人にエッチな悪戯されそうで怖いんだもん』という女性の貞操観念の点から鑑みるのならば、いたって真っ当な理由のもとで展開されている、ちょっとした男避けのための自衛策のつもりのようだ。
……だがジュジュの目の前で展開される黄昏色に輝く結界は、どこからどう見てもちょっとした男避けという代物では無い事が誰の目にも明らかであった。
「……うっ」
その結界の近くに寄ると、まるで聞く者に世界の終焉を予期させる、銅鑼を打ち鳴らしたかのような異音が、結界の内部から聞こえ始める。
軽い頭痛をも呼び起こし、肌を粟立たせ、腹の底を揺らす──まるで魂の奥底にまで響き渡ってしまいそうな異音。
本能的な恐怖心を煽り、生理的嫌悪感すら覚えさせる異音を発しながら、黄昏色に輝く結界は怪しく蠢き続けるのであった。
小さいながらも決して何人からの干渉も許容しない──犯されざる黄昏の絶対領域。
……あるいは干渉しようなどという愚かな考えさえ、その思考の範疇の外側に追いやってしまう、厳かな夜の霊廟を思わせる強大な結界が、物理的な障害となりジュジュとその師である魔女を分け隔てるのであった。
“魔杖・閉ざされし聖道門”。
闇滅の魔女フレリアが所有する十二の魔杖──その内の一本であり、結界魔法のエキスパートでもあった、高潔なる精神を持ち合わせた列聖の殉教者より、託された遺品の一つである。
その内に秘められた大いなる守護の祝福は、本人の切なる願いとは裏腹に、泥酔しきった社会不適合者を守るための、強大で陳腐な結界へと成り果てているのであった。
自己をも省みず、
他を率先して慈しみ導き、
恵まれぬ弱き者たちのためならば昼夜を問わず奔走する──。
……後の世で聖人の一人にまで認定された在りし日の魔女も、まさか友人でありウンコの擬人化のような女の貞操を守るため、自身の天啓の結晶である守護の魔法が使われているとは夢にも思わなかったであろう。
「起きてッ!! 下さいッ!! 朝ですよォォォッ!! お師匠ッ!! サッ!! マッ──!!」
──ジュジュが床に横倒しになった粗末な木製の椅子を両手で持ち、身体をねじる様にしてそれを結界へと向けて投擲する。
少女の非力な力の下に投げられた椅子ではあったが、遠心力という名の物理法則が味方をし、想像以上の勢いを伴って少女の手元から離れる。
ぐるぐると回転しながら放物線を描き、勢いよく結界へと激突した椅子は、だがしかし予想に反して何の衝撃音を店内に響かせる事も無く床の上へと落下するのであった……。
それは正しく不可思議な光景である──確かに結界へと衝突した木製の椅子は、弾き飛ばされる事もなく、まるで結界に上手に受け止められてしまった後に、ゆっくりとその身を床の上に下ろされたかの様にポトリと力なく落下したのであった。
「お師匠さまッ!! 早くッ!! お願いしますからッッ!!」
頭の中では無駄な行為だと理解しつつも更に二度椅子を放り投げる──。
……だが結果はジュジュの予想を裏切る事もなく、結界に衝突した椅子は、無常にもポトリと力なく床の上に落下するのであった。
そのあまりにも不甲斐ない結果と、結界の下に力なく横倒しとなっている木製の椅子に、情けない自分の姿を重ねてしまったジュジュは、思わず歯噛みし、まるで癇癪を起こしたかのように一度だけ右足の底で床を蹴り付けるのであった。
「……ジュジュお姉ちゃん」
結界とは対角線上に位置する二階席の隅……。
横倒しにしたテーブルや椅子などで作り上げられた簡易な防壁の後ろから、ナスターシャがジュジュへと顔を見せ、不安げな声を上げる。
傍にいた何も言わない子どもたち二人も同様に、不安や好奇心が入り混じった表情でジュジュの奇行を観察しているようであった。
「大丈夫だよナータちゃん。三人ともお願いだから、そのままそこで良い子にしていてね? フレリアお姉ちゃん……いいえ、だらしない居眠りオバサンが目を覚ましてくれたら、すぐにでも外にいる怖い魔獣さんたちをやっつけてくれるからね!」
こんな非常事態であっても、いつもと変わらぬ自身の師である魔女を揶揄するジュジュ。
仮に愛弟子であるジュジュの口から「オバサン」などと呼ばれた日には、流石の魔女フレリアであっても『オオ……オオオバ、オバオバ……オバオバオバサン──?!』と白目を剥き泡を吹いて倒れてしまう事であろう。
……そんな自身の師匠の姿を妄想し、溜飲を下げたジュジュはまるで自分自身に言い聞かせるように、子どもたちへと向けて再び「大丈夫だよ」と力なく告げるのであった。
──そして気合いを入れるかのように、着ているローブや三角帽子を綺麗に整えると、目の前の結界へと向け右手を突き出す。
魔獣には怯えてしまいただただ震える事しかできなかった癖に、心の底から愛する師に対してはその手を向けられる自分の内弁慶さ加減に、ジュジュは呆れた様に口から大きな嘆息を漏らすのであった。
「お師匠様、起きて下さい……。今、私たちの街の中が凄い事になってるんですよ」
そう言葉を漏らしながら、ゆっくりと魔力を練り上げる。
己の体内を流れる全ての血液を、
身体が許す限りの呼吸を、
そして魂が許容する限りの魔力を込めて──。
ただ一度きり。
今この瞬間、己の意思と意地と、為せる全てをその一撃へと込める。
「お師匠様──……今すぐに起きてくださらないのなら魔法。放ちますよ?」
ジュジュの頭の中で……心の中でイメージされた魔法は、かつてこの超える事は不可能かと思われる大いなる守護の魔法を、完膚なきまでに粉砕したというフレリアの姉弟子の一人が成した、魔法の到達点であった。




