01 見習い少女の朝①
ランドロール大陸の最北東端。
その街は、極寒の地域として広く名を知られる、サハリナ地方の一角に古くから存在していた。
人口1000人からなる小規模な街である。
ウィンザー辺境伯有する所領の中でも、とりわけ僻地に存在するその街は、
国防の上で極めて重要度の高いサハリナという辺境の地において、ひっそりとその歴史を積み重ねてきたのだった。
荒ぶる近海より取れる豊富な海産物の水揚げや加工。さらには南部の港湾都市への流通などを生業としたその街は、大陸の三分の一という広大な領土を支配する、アルディナ王国の人間たちから“ラウラレン”と呼ばれている。
──ラウラレンと呼ばれる街は、一年のほぼ大半というとても長きに渡る時間を、見渡す限りの雪と供に過ごす……。
寒い冬の季節ともなれば街周辺の陸路の一切が白銀の帳に閉ざされ、周辺の村や町との往来さえ困難になってしまう程の大雪に埋もれてしまう程だ。
そんな日には人々は家の中に閉じ篭り、暖炉に火を焼べて酒を飲み明かすのが、この街の古くから続く日常風景なのであった。
長い冬の季節が終わりを告げ、短い春の季節が春風と共に去っていった時節。
一足遅れでようやくラウラレンにも、暖かな日差しが射し込む穏やかな季節が訪れたのであった。
◇ ◇ ◇
「えっほ、えっほ」
とある日の早朝。
そんな子気味の良い掛け声と共に、未だ誰にも踏みしめられていない銀雪の上を、大きなバスケットを抱えた一人の少女が小走りに急いでいた。
辺り一面の美しき銀世界とは対照的な、全身を不気味で真っ黒な装いに凝らした一人の少女……。
ひときわ目を引く少女の装いは、雪の街であるラウラレンにはおよそ相応しくないものであった。
凍りついた地面を力強く踏みしめるための物であろうか──可愛らしい黒い厚手のロングブーツには、転倒防止用のチェーンが何重にも巻かれており、華奢な少女には似つかわしくない程に無骨である。
また少女の華奢な肢体を包みこむのは一般的な防寒用のコートではなく、見ている方まで寒くなってしまいそうな、黒と紫色を基調とした貧相な薄手のローブであった。
動きやすいよう膝の上で調整された丈の短いスカートは、寒さも比較的に穏やかな季節になったとはいえ、寒冷地であるサハリナ地方で生活を送るには、およそ心もとないとしか表現できない装備であると言えよう。
……そして少女の明るい栗色の頭髪を暖めるのは、防寒用の長耳帽ではなく、少女の魔法の師にあたる人物がくれた、真っ黒で大きなツバが特徴的な立派な三角帽子であった。
──その装いを見たおおよその人間は、少女をいわゆる魔女と評するであろう。
事実、少女は“魔女族”と類される人ならざる種族の生まれである。
なんら普通の人間と変わらぬその愛くるしい容姿とは裏腹に、魔法と呼ばれる不可思議な力を操る事に長けた特別な存在なのであった。
魔女──ただしその言葉の後ろにはもれなく、見習いという言葉が付随してしかるべき程度の実力ではあったのだが……。
「よいしょ……っと」
そんな魔女見習いの少女こと“ジュジュ”は、まるで気合を入れるように声をハリ上げると、胸元に抱えた重たげなバスケットを力強く抱えなおし、道に足を取られる事もなく器用に雪の上を、小走りに進んで行くのであった。
──道を右に曲がり左に曲がり、さらにはまた右へと曲がっては中央の大通りから大きくそれた路地裏へと歩を進めて行く……。
スイスイと勢い良く歩を進めるその確かな足取りは、ラウラレンの人間から見れば、さながら雪原を進撃するトナカイのようにも見えたであろう。
「ふんふーん、ふんふーん」
早朝でもあったためか日の当たらぬ、薄暗い路地裏に辿り着いたジュジュではあったが、その歩調に澱みはなく、至ってこなれたものである。
およそ年頃の少女であるならば近寄りたくもないであろう、淫靡で怪しげなお店が立ち並ぶ通りを、小さな鼻歌を口ずさみながら進んでいた少女であったが、とある店を前にしてその歩みを止めるのであった。
“なんでも屋──Little Witch Sisters(閉店中。気が向いたら開店)”
軒先に掲げられた小さな看板には、まるでミミズが這ったかのような汚い文字で店名が記されている。
また店の看板の近くには、閉店を知らせる黒猫の形を模した、ドアプレートが合わせて吊り下げられているのであった。
……その店は日中の寒さすら凌げるのかどうかも怪しげな、何とも粗末な造りのあばら屋である。
立地の都合上、ラウラレンの街の土地や住居の価格は全体的に驚くほど安価であり、広く頑強そうな住居が至る所に軒を連ねている。また空き家の数も決して少なくは無い。
だがそれらの住居と比較しても、少女の目の前のあばら家は……正しく天と地ほどの差があった。
例えるならば両者には人が住む家とウサギ小屋ほどの明確な差があり、比べることすらおこがましく感じられる程である。
「よし」
だがそんな、屋根の上に積もった雪の重みで、今にも倒壊してしまいそうな危うげな景観の建物に反し、それを眺める少女の眼差しにはどこか誇らしげな熱が篭っていた。
「今日も一日がんばるぞ!」
少女はそんな言葉を漏らすや、自身を鼓舞するかのように小さく頷き、拳をギュッと握りしめる。
そして胸を張ると、再び静かに動きだすのであった。
ラウラレンに住む者ならばおおよその者が知っているであろう、ある意味では街一番に有名なお店──Little Witch Sisters。
そここそが魔女見習いジュジュの目的地であり、彼女が勤める職場でもあり、
また自身が尊敬してやまない魔女の棲家なのであった。
◇ ◇ ◇
「おはようございまーす」
屋根に積もった雪の重みの影響か、はたまた経年による劣化のためか──。
建付けの悪くなった玄関口を、半ば蹴り空ける形で開くと、元気一杯な挨拶と共に店の戸口を潜る。
……だが早朝という事もあってか、ジュジュの挨拶に返される言葉は無い。
さりとて返らぬ挨拶に気にした素振りも見せない少女は、胸元に抱えた大きなバスケットを重たげにカウンターの上に投げ出すと、ブーツに巻き付けていた転倒防止用のチェーンをカウンターの裏手にぞんざいに放り投げる。
バスケットの中からは色とりどりの野菜や小ぶりなホールチーズ、数本のワインボトルが顔を覗かせるのであった。
誇張でもなく、室内は目を凝らさねば一寸先すらも見えぬ程の深い暗闇に覆われていた。
いまだ日の昇りきらぬ屋外の方が明るいのではないか──とさえ錯覚してしまいそうな程の暗闇に加え、戸口にまで漏れ聞こえてくる、師のものと思しき不気味で大きなイビキの音が、闇夜に潜む獰猛な魔獣を彷彿とさせる。
……慣れぬ人間であれば、壁伝いに動くことすら躊躇してしまいそうな暗闇の中を、少女はスイスイと動き回るのであった。
「えいっ」
──無意識のうちに口から漏れた掛け声と共に、少女はカウンターの上に取り付けられた、二つの大きなランプに“指の先”から火を灯す。
暗闇の中にじんわりとした明かりと、劣化したオイルから漂う何とも形容しがたい臭気が、ジワジワと室内に広がっていくのであった。
壁にうち付けられた錆びだらけの無機質な鉄製のランプ。
窓辺に置かれた可愛いらしい黒ウサギを模した小さなランプ。
天井から吊りさげられた年代物のランプ。
一つ、二つ、また三つと、
順番に明かりを灯していくうちに、十分な明るさを伴った室内を、少女は癖のように瞳だけを動かし見回すのであった。
──Little Witch Sisters という店には、なんでも屋という看板が指し示すように、様々な商品がとり揃えられていた。
メインとなる大きな木製の商品棚の中には、魔法道具屋もかくやの、数多くの“魔法道具”が所狭しと並べられていた。
本当に販売する気があるのかと疑ってしまうほどの高額な値札が立てかけられた商品に、
桁一つ間違えて陳列しているのではないだろうかと疑ってしまう程の、安価な値札が立てかけられた掘り出し物の数々。
師曰く──そのどれもが拘りの置き方をしているらしく、また『わかる人間や魔女族であれば直ぐにその価値に気が付くよ。まぁ見てなって、どうせすぐに売れるからさ』と評する価値ある宝物たちには、薄くない埃の層が形成されていのであった。
……その埃の厚みが、ラウラレンの住民たちにとって、いかにそれらが価値の無い代物であるかを、静かに物語っている様でもあった。
入り口付近の壁に掛けられた巨大なシカの頭の置物は、持つ物も持たずフラリと豪雪の中へと飛び出した家主が仕留めてきた、大物のシカの頭部を切り離した一品である。
当初家主はその立派なシカの置物の角を、毎日のように雑巾で磨き嬉しそうに眺めては、丁寧に保存魔法を掛けていたのだが、今となってはそれにも同様に、厚めの埃が層を成し、“150万エルク”という何とも強気な価格の値札が頭の角からぶら下げられている始末である。
魔法の影響か、不思議と生気を感じさせる怪しげな輝きのシカと目が合った少女は、申し訳なさげに視線を逸らすのであった。
「あれ。あそこのランプだけ火が付いてない……」
少女は改めて周囲を見回して気付いたが、窓辺に置かれた黒ウサギのランプにだけ、どうやら着火を失敗してしまっていたようだ。
手馴れた日常の反復作業であるため、手早くランプに火を灯す事ができるようになっていたジュジュではあったが、簡易な魔法による着火方法により、今日のように失敗してしまう事が稀にだがあったのだった。
「うーん……」
ジュジュは素っ頓狂な声を上げると、ふてくされた様にカウンターに両肘を突いて顎を乗せる。
室内はたいした広さでは無いものの、少女は既にカウンターの裏側に設置された、店番用の木製の椅子に腰を落ち着かせてしまっている。
立ち上がりまた着火を試みれば良いだけの話なのだが、それでは何故か負けたような気がして面白くない──。
「……そうだ!」
少しの間なにやら思案するも、すぐに妙案を思いついた少女は、その顔にパッと笑顔の花を咲かせるのであった。
「よぉし、今回はやってやるぞ」
カウンターの上に上半身を投げ出し、まるで亀の様に這い蹲ると、右腕を窓の方へと向ける。
ご自慢の三角帽子を深く被り直すと少女は片目を瞑り、親指を立ててそれを照準に見立てるのであった。
人差し指で対象へと狙いを定める──少女は緊張して乾いた唇を無意識の内にぺろりと舐めてしまっていた。
それは極めて精細な技量が要求される、魔法による遠距離からの狙撃と呼ばれるものである。
以前同じ事をしようとした時には、魔力の加減を誤りそのまま後ろの窓を窓枠ごと、完全に吹き飛ばしてしまったのだった。
着火したランプも横倒しになりあわや大惨事──……と肝が冷えたものであったが、不思議な事に揺ら揺らと揺らめくランプの炎が他の物に燃え移る事も無く、轟音に飛び起きてきた師である魔女に、注意されるだけで事なきを得たのであった。
『──そう気を病む必要はないともジュジュちゃん! なにせこの家全体に火避けの結界魔法をはじめとした、様々な結界魔法が掛けられているからねっ! 私の本分ではないが、こう見えて結界魔法の類には一家言あるんだよ。でもジュジュちゃん……火を扱う魔法は、基本的にどれも危ない業ばかりだからね。今後はもう少しだけ気をつけようか』
家主であり、師でもある魔女から後に聞かされたその言葉に、反省するよりも先に随分と便利な魔法が存在するものだと驚いた少女なのであった。
「……集中」
──少女がゴクリと生唾を飲み込む。
自身を雪原に茂る、枯れ草の中で息を潜める狩人なのだと言い聞かせる。
プルプルと中空で小刻みに揺れる右腕を、なんとか気合で押さえ込め、瞑想するかのように静かに息を潜めるのであった。
標的は一匹の黒ウサギ。
……今晩のメインディッシュはウサギのミートパイで決まりである。
「くらえっ」
気合い一発。
心中とは裏腹に、何とも気の抜けた掛け声が少女の口から漏れるが、それとは対照的に指先から勢い良く放たれた豆粒サイズの炎の弾丸は、驚くべきような速さで空を切るのであった。
──ビュっと言う風きり音が室内に鳴り、空気を揺らしたのはほんの一瞬。
その刹那、着弾した黒ウサギが鉄を指で弾いた様な甲高い音を上げ、仰け反る様にその身体を揺らしたのであった。
「──ッ?!」
ガバッと勢い良く上体を起こしたジュジュは、眉をひそめて神妙な面持ちで、食い入るように窓辺を見つめる。
衝撃に二度三度ぐわんぐわんと身体を揺らした黒ウサギではあったが、その揺れが落ち着くと、ランプには確かな明かりが灯されていたのであった。
「わぁ! や、やった! やった!! やったやったやったー!」
「……あら残念。でも中々に見事だったわ見習いちゃん、腕を上げたみたいね」
両の拳を力強く握りしめ胸元に掲げたジュジュが、喜びのあまり椅子の上で小躍りしかけた瞬間、背後から賛辞が投げかけられるのであった。
背筋がゾワリとし、鳥肌が立つ。
投げ掛けられたそれは、まるで蜂蜜や砂糖……あるいは甘い果物をジャムのように煮詰めたかのような、ネットリとした艶美な女性の声であった。
本来は声という目に見えぬ物体が、スライムのような粘性の実体を伴い、背筋を悪戯に愛撫されるかのような一瞬の錯覚。
……その声の主との付き合いもおよそ五年ほどとなるが、未だに不意打ちのように突然話しかけられるのは慣れない。思わずジュジュは頭の中で一人ごちるのであった。
「お、おはようございますミネットさん。すみません……朝早くからうるさくしちゃって。それよりも何です、残念って」
「ウフフフ、そう怒らないで。前みたいに窓の一つでも吹っ飛ばしてくれたら、奥の部屋の眠り姫も起きてくれるんじゃないかって思っただけよ。たまには可愛い弟子を見習って、早起きの一つでもして欲しいものよね」
ジュジュは声の主とそんな会話を挟みながら椅子から離れると、中腰の姿勢をとり声の主を出迎えるのであった。
少女の背後──カウンターの裏手の奥には、食事を採るための生活スペースや家主である魔女の私室、さらには台所へと繋がる薄暗い通路が存在している。
今なお鳴り止まぬ、魔獣のうなり声かと勘違いしてしまいそうな家主のイビキに紛れ、
ヒタヒタという軽い足音を伴いゆったりとした足取りで、その声の主が少女の前に姿を現すのであった。
「おはよう。朝から精が出るわね」
薄暗い通路から姿を現したのは真っ白な毛色が美しい、まるで貴婦人の様な佇まいをした二足歩行の大きな猫であった。
■用語紹介
サハリナ
【区分】地名
・そこはランドロール大陸の北部に位置する、一年を通して雪に閉ざされた不毛の地である。
極寒の大地としても広く名を知られており、サハリナ地方の大部分はアルディナ王国辺境伯であるウィンザー辺境伯の所領となっている。
最北に位置するクロムセレン帝国の領土とは地続きとなっており、近年では目立った争いは起きていないものの、国境付近には巨大な要塞と見紛うばかりの一大都市「ウィンザーグラード」が築かれており、在郷軍人を含めた数多くの人間が今もなおそこで生活している。
サハリナ地方全体を通した主産業は酪農であり、一部の海沿いの村や町などでは漁業も盛んである。