さようなら、毒花の国の監禁されたお姫様
シュシュリーナの世界は、自室である、この空間が全てだった。
赤いバラと、棘のある緑の蔦の模様で装飾された壁紙。カーペットやソファーやベッドのシーツ、照明に施されたガラス細工や、風呂場のタイル。全てが血のような濃い赤色のバラで彩られていた。
物心をついた頃から、約10年、部屋から外に出たことがない。
ピンと背筋を伸ばし、姿勢良く椅子に腰掛け、優雅な仕草でティーカップを口許に傾けながら紅茶を飲んでいたシュシュリーナの部屋のドアが、ノックもなく開いたのに気づき、慌てて淑女の礼をとる。
「シュシュ、そんなに畏まらなくてもいいって、いつも言ってるでしょ。頭なんか下げないで、その花の顏を見せてよ」
部屋に入ってきたのは、シュシュリーナと身長の変わらない、けれど彼女より少し幼さの残る少年だった。血のように赤い髪と緑の瞳。白磁のような肌。人ならざる者のような美しい姿の少年は、紛れもなくシュシュリーナの弟だった。
弟とは言え、彼は正妻の息子であり、シュシュリーナは側室の子。立場が違う。だからこそ己の立場を弁えて、義弟には臣下のように頭を垂れているのだが、彼はシュシュリーナがそのように距離をとると、哀しそうに眉尻を下げた。
1つ年下の義弟。名をユリエルと言う。彼は、年下でありながら、シュシュリーナは彼の庇護下にあった。
シュシュリーナの母は、 彼女が5歳の時に亡くなった。幼いシュシュリーナは父に捨て置かれた。このマグダローズ国は、強さこそが全て。弱い者に生きる価値はない。それでも生きていたいのならば、強者に服従し、守られるしかなかった。
彼女の母は弱かった。だから死んだ。それだけのことだった。
それでもシュシュリーナが死を免れたのは、ユリエルが彼女を気に入ったからだった。まるで彼のペットのように小屋(部屋)を与えられ、食事を貰い、着るものや装飾品を恵んで貰いながら、
彼の顔色をうかがいながら生きてきた。
「シュシュに会いたくて、飛んできちゃった」
無邪気な笑顔で両手を広げるユリエル。その彼の手や服は赤い血でベッタリと汚れている。
「……っ!」
黄泉の国から脱け出してきたような彼の姿に、言葉にならない声が漏れる。彼は血飛沫を浴びた顔で、無邪気に首を傾げる。
行かなければ。笑顔で、彼の胸に飛び込んで行って、私も会いたかったと微笑まなければ。
分かっているのに、怖くて、手足が震えて、歯がカタカタと鳴る。足が前にでない。
「どうして来ないの?」
ユリエルの声のトーンが下がる。彼の指先からバラの蔦か伸びて、その棘が、私の首に絡み付く。
蔦が絡み棘が刺さった首から、血がたらりと垂れる。生暖かい血の感触に、呼吸困難に陥りながらも、細い声で答える。
「わたくしも会いたかったです。ユリエル」
笑わなきゃ。強張る顔に力を込めて、唇を弧に描くと、蔦を消し、駆け寄ってきたユリエルがぎゅうきゅうを私を抱き締める。
「恥ずかしがり屋だなー、シュシュは。僕に抱きつきたいのに、照れてできなかったんだね。そうだよね。会いたかったよね、僕に。僕もだよ。」
ユリエルの血塗られた手が、シュシュリーナの頬に触れる。べちゃっとした感触に思わず目を瞑る。小刻みに震え、怯える私に気づいているだろうに、ユリエルは無邪気な声で言葉を続ける。
「一生逃がさないからね」
血塗られた王族、マグダローズ王国。かの国には、羽をもがれた金色の憐れな小鳥がいた。
波打つ金の髪に金の瞳のお姫様。美しく憐れなシュシュリーナは、朽ちるまでユリエルに玩ばれて、愛された。
その筈だったのに……
「シュシュリーナに生まれ変わってしまった!え?なんで?どうして?『毒花の国』の推しキャラ、ユリエルのお姉ちゃんに生まれ変わっちゃったよ!!」
どうする?どうすればいい?
前世の記憶が甦り、自分が小説『毒花の国』のヒロインに横恋慕する悪役キャラ、ユリエルの異母姉に転生したことに気づいた私は、意味もなく室内を右往左往する。
いつも大人しいシュシュリーナが、突然、落ち着きなく歩き始めた為、驚いた侍女たちが、母を呼びに行った。
その様子に、はたと気付く。
お母様は生きている。それにこの部屋、白を基調として、カーテンやテーブルクロスには金の刺繍が施され、窓からは明るい光が差し込み、鳥のさえずりが聞こえる。
この部屋、ユリエルに監禁される前、シュシュリーナが5歳まで住んでた部屋だ。
そのことに気づき、ふと窓に映る自分の姿を確認すると、金髪に金の瞳の4~5歳くらいの女の子が映っていた。
呼吸を忘れるほどに美しい。間違いない。幼少期のシュシュリーナだ。
「はぁー、シュシュちゃん可愛い。流石は推しが狂愛したお姉ちゃん。美形だらけの登場人物の中でダントツ美しかったもんなー」
スベスベの頬に手を当てて、うっとりと自分の美しさに酔いしれてると、ドアが開いてお母様が入ってきた。
「シュシュリーナの様子がおかしいって聞いたけど、どうしたの?嫌なことでもあった?それとも体調が悪いのかしら?」
心配そうに私のおでこに触れたり、お腹をポンポン触ったり、顔を覗き込んで心配する。そんな母に、ふるふると顔を横に振った私は宣言する。
「お母様と私、2人で幸せになる方法を考えてたの!」
「幸せ……に?」
私と同じ色をした、金の瞳が揺れる。白く華奢な身体。結い上げた髪の後れ毛が、折れそうな程に白いうなじに掛かる。その髪の色も輝くばかりの金。
母は小国の姫だった。国土は小さいながらも、長い歴史のある、由緒正しき国のお姫様で。緑豊かな土地には稲穂が垂れるほどに麦が実り、温暖な気候からか、そこに住む人々は穏やかで優しい性格をしていた。
そんな母の国には秘密があった。それは王族の血を濃く受け継ぐ者の中に、時々、幻覚魔法が操れるものがいる。と言うこと。
たかが幻覚。と思うかもしれないが、彼らが扱うのはただの幻ではない。王族から幻覚魔法をかけられたものは、一生、その幻覚から抜け出せなかったり、幻覚の中の世界で己が死んだ際には、心臓発作で本体である身体も死んでしまう。
正に、心も身体も操ることができる、とても危険なものだった。
だからこそ、母の国は狙われ、滅ぼされた。唯一、この国で最も強い幻覚魔法を扱える、母を除いて。
そんな母も、私を生んだあと、全ての魔力が枯れてしまった。母の魔力が私に受け継がれたのか?と言うと、そうでもないらしい。どうやら私からは魔力が感じられないらしい。
子を生むことで、魔力が枯れた母。それでも、その神々しいまでの美しさから、父は母を手放さなかった。
母にとって父は、母国を、何よりも大切な家族や民の命を奪った憎い相手であるけれど、私を守るために、側室の座に君臨し続けた。
何よりも、小説を読んだ私は知っている。
母の魔力は枯れたわけではないと言うことを。
私に、魔力がない訳ではないと言うことを。
だから、侍女と言う名の、父からの監視役が聞こえないほどの小さな声でささやく。
「私にかけた魔法をといて、お母様。そして2人で幸せに暮らしましょう?」
母の目が大きく見開かれる。唇が微かに震えている。『どうして知っているの?』母のそんな声が聞こえる気がした。
私は口に人差し指を当てて、声を出さず、唇だけを動かす。
『ここから逃げましょう』
それからの母の行動は早かった。私の膨大な魔力を隠すためにかけていた幻覚魔法を解き、2人で力を合わせて、この城全体に幻覚魔法をかけた。
侍女たちの悲鳴が聞こえる。彼女たちには、突然、目の前で私たち親子が胸から血を流して死んでしまったように見えただろう。
彼女たちが慌てたように部屋から出ていく。私たちは、そんな彼女たちの姿を確認すると、手を取り合って城から逃げた。自分達が平凡な侍女の姿に見える幻覚をかけて。
城の中を駆け抜けて、長い庭園を走り、城門の扉に手を掛けたとき、
「どこに行く?」
低い声がした。振り向くと、血のように赤い髪と緑の瞳の父王が立っていた。その後ろには、父と同じ色をした、まだ幼いユリエルもいた。
「シュシュ?そんな美しくない姿に変装して、どうしたの?鬼ごっこしてるの?僕も参加するから、死ぬ気で逃げてね?じゃないと、本気で殺しちゃうよ」
こくりと首を傾げて無邪気に笑うユリエル。父の表情は分からない。怒りも、苛立ちも、その顔には浮かんでいない。
「じゃあ、シュシュとお義母さんは逃げてね。僕が鬼だよ」
その言葉と共に城門が開かれる。私と母は同時に走り出す。けれどユリエルの手から伸びたバラの蔦が真っ直ぐに母の胸に突き刺さる。ずるりと、人形のようにその場に崩れ落ちる母。
「呆気ないな」
父はつまらなそうに、そう言うと、振り返ることもなく立ち去った。
そして、もう1つの蔦が私の首を締め上げる。首からたらたらと血が流れ、呼吸ができない苦しさで踠く。
「僕に囚われてくれたら、生かしてあげる。どうする?シュシュリーナお姉さま?」
クスリと笑うユリエル。あぁ、私は、今世でもまた囚われる。絶望が広がる。
今度こそ、自由になれると思ったのに……
頬からポタリと涙が落ちた。
「一生、放さないからね。愛しているよ、シュシュ」
満足そうに私を抱き締めて、頬に口づけるユリエル。ただ意思のない人形のように心を閉ざして、私は彼に囚われた。
10年後、
私はもうすぐ16歳になる。いま、どうしてるって?
母と2人で城下町で食堂を営んでいる。
あの日、城から逃げるところを父とユリエルに見つかったとき、私と母は幻覚魔法を使った。母は殺された振りをして、私は捕らえられた振りをして、2人で逃げた。
そして平民に紛れて、2人で食堂を営んでいる。茶色い髪と青い目の平凡な見た目の親子として、町に紛れている。国外に出ようか?とも思ったけど、国境を越える危険を冒すより、灯台下暗し。城下町で民に紛れていた方がバレないだろう。と言うことで、この国にとどまっている。
何よりも、城の近くにいることで、彼らに幻覚魔法をかけ続けられるから、こちらとしても都合が良い。
国王は、側室が死んだと思い込み。ユリエルはシュシュリーナが大人しく自分が作った籠の中に居ると思っている。その籠の中の鳥は、存在しない幻覚とは知らず。
「おかみさん相変わらず料理が上手いね!」
「シュリーちゃん、いつも元気だね!」
シュシュリーナと、その母は、小さな幸せの中にいた。母の祖国は、と言うと、
毒花の国に攻められ、崩壊寸前だったところ、先王の弟がどうにか建て直していたが、また他国に攻められてはたまらないと、国全体に幻覚魔法をかけて、滅びたふりをしていた。
先王の弟であり、母の兄は、シュシュリーナ達の存在を見つけ出し、国に戻れるように画策してくれたが、シュシュリーナ達はそれを断った。
王族として華々しい生活よりも、賑やかで素朴ないまの生活が幸せだから。と言うのが、彼女たちが国に戻らなかった理由だった。
シュシュリーナとその母は、今日も、その膨大な魔力を毒花の城に注いで幻覚を見せつつ、楽しく大衆食堂を切り盛りしていた。