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知らないふたり  作者: 性癖が終わってる
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上話です。


私の妻はいい女性だった。

飯も美味く、家事や育児も完璧で、それでいて私に嫌な顔一つせず、三歩後ろを歩いてくれた。こんな言い方は良くないが、いわゆる『よく出来た女性』であったと思う。

かたや私は、駄目な夫であったと感じる。

妻を守ろうと必死になったが、私は飯も家事も育児もままならないような男だった。

私はずっと、妻に頼りっぱなしで生きてきていた。それでも妻は私に対して愚痴を漏らす事なく、常に淡々と家の事をしてくれていた。


ゆっくりと、少し潤った瞼を開ける。

夢を見た。久しぶりの夢だ。

私が仕事から帰ると、玄関先に君がいる夢だった。

いつも迎えなくていいと言っても、『妻の役目ですから』と言って聞かなかったが、君が玄関先にいるという事実は、私の心を何度も助けてくれた。やらなくていいと言っていたその反面、私はずっと嬉しかった。

布団から上半身を起こし、障子から寝室へと溢れる光に顔を顰め、筒袖で目元を拭う。

「……そうか」

まだ肌寒い早春の気温を我慢し、布団の外に出る。布団から出るという行為一つをするにも、私は随分と歳を取ったのだと感じる。

這い出るように体を動かし、足に力を入れ立ち上がる。


——彼の部屋にある小さな机の上には、黒い塗装が剥げ木肌が少し見える古い算盤と、疲れたようにくたっとしながらも状態の良い昔ながらの冊子、そして一つの写真立てが置かれている。その写真立てには、男女二人の人物が映っていた。

家屋のような建物の前で、両者とも照れたような緊張が伺える硬い表情で距離も若干開いている二人が映っていた。


そのまま寝室の右隣の部屋に移動し、仏壇の前に腰を下ろす。老体ゆえ不恰好な座り方をしてしまったことを申し訳なく思いながら、蝋燭に火を付ける。

木箱の線香を一本手に取り、赤い火を灯す蝋燭に線香の先端を近づけた。穂先が一瞬だけ赤く光ったが、すぐに焦げ煙をすうっと出した。

灰が詰まった香炉にその線香を立て、静かに己の乾いた手を合わせる。

黒字に鶴の絵が描かれた少し高価な着物に、小さな丸髷に整った美しい顔。その瞳には優しげな光を湛えている。そして静かに微笑んだ時の皺の細かさが、その優しさをより際立たせているように感じた。

「君が居なくなって、もう四十九日か」

仏壇に飾られた君の素敵な写真に、私は静かに話し掛ける。


私——「錦織悠一郎」の妻である「錦織さよ」は良い女性であった。

知り合ったのは両親からの紹介であり、私は家業の後継ぎのために結婚しろと親に言われ、お見合いで親が懇意にしていた自社のとある社員の方の娘さんであった彼女と対面した。

決められた結婚。彼女からしても望むものではなかっただろうに、それを知った上でさよは私の下に来てくれた。

夫婦生活は40年近く続き、2人の子宝にも恵まれた。年が暮れ老年になった拍子で、私の長男である眞一郎に家業を託したある時である。それなりの財産と共に静かな片田舎に引っ越したいとさよに相談すると、さよは二つ返事で快諾してくれた。

そんな事もあり、夫婦の二人暮らしが始まった。

5年程度の二人暮らしだったが、私はとても楽しく過ごせたと感じる。

そう、『私は』である。

一抹の不安はそこであった。

何故かというと——。

さよが私の事を、あまり好ましく思っていないように感じていたからに他ならない。


私がさよと初めて会ったのは、私が22歳、さよが15歳の時である。

さよは綺麗な黒髪とお淑やかな風貌を兼ね備えた、可愛らしい顔立ちの少女であった。彼女の姿は、女性と話した事ない私にとって非常に魅力的に映った。

この人と結婚出来るのか、と心が躍った事を50年近く経った今でも覚えている。

私は喜びのあまり、見合いの後の2年間のお付き合いで、ずっと彼女の側に居た。彼女の隣に座り、彼女の隣を歩き、彼女の隣で何かを話していた。

楽しかった。彼女は私と話す時、ずっとにこやかな表情を崩さなかった。私がしつこく彼女に話し掛けても、彼女はその朗らかで優しい笑顔を崩す事なく必ず私の話を聞いてくれていた。


今思えば、これも無理をさせていたのだろう。

私は人と話すのが苦手だった。

仲のいい女性は愚か、友達といえる人もそうおらず、いつも1人で過ごしていた。

親の家柄もあるのか、私が話し掛けても逃げられるか、そっけない対応をされる事が多かった為、いつしか私は人と話すことを諦めていたのだ。

それが起因したのか定かではないが、初めて逃げずに話を聞いてくれた人である彼女に、距離感が分からず1人で没頭するように話している様は、彼女からすれば滑稽で、はた迷惑なものだっただろう。しかし優しかった彼女は、常に耳を傾け、笑顔で私の話を聞いてくれていたのだ。

思い返すだけで「舞い上がるのもいい加減にしろ」と一発頬を引っ叩きたくなる。

本当に若い頃の私は図々しい男であったと感じる。

そんな反省の念と共に仏壇の前から去り、私は食材を買うために久しぶりに外へ出ようと考えた。寝巻きの筒袖を脱ぎ、外に出るための紺色の袂袖に着替え、玄関に向かい家を後にした。


数日振りかに外に出て、心地の良い陽の光に当たり思い出した事がある。

私の父の事である。父は、正に亭主関白な人であった。

私は仕事人としての彼は尊敬していたが、父としての彼は尊敬出来なかった。それ故に、私が結婚する時はそうならないよう気を付けていたのだが、結局私は彼女に何も出来なかったように感じる。

家事も育児も出来なかったものだから、彼女にやってあげられた事はごく少なかったはずだ。強いて言えば洗濯物を干す時に暇があれば手伝ったり、子供が出来た時彼女に言われた事を出来る限りこなすなどしていたが、言われた事も碌に出来なかったように感じる。

私はなりたくないはずの父の姿をいつの間にか見倣っていたのか、そう気付いた時は心が沈んだ事を覚えている。

そんな事を考えながらとぼとぼと町を歩いていたせいか何を買おうか忘れ掛けており、頭を抱えてなんとか思い出した。

「あぁ……そうだ……」

私が独り言を発すると、後ろから話しかけられた。

「あら、悠一郎さんじゃない。お買い物?」

突然名前を呼ばれた事に驚きつつ振り向くと、私の後ろには淡い梅色の着物を着た女性——隣の家の奥さんのハツさんがいらした。

「悠一郎さん、大きいからわかりやすいわね」

「そ、そうですね……」

大きいとはよく言われる。実際、さよよりずっと大きかったから、いつも見下ろすような形で過ごしていた。アレも、彼女からすれば威圧的に捉えられていたのだろうかと思い返す。

「……最近見ないものだから、心配してたのよ」

「あ……お気遣い、ありがとうございます」

私はハツさんの優しさを感じ、頭を下げる。

「いいのよ。……辛いわよね、私も主人を亡くしてるもの」

彼女のご主人さんは3年ほど前に亡くなっている。私よりも一回り上くらいでご主人は亡くなられ、ハツさんは悲しみで泣きつつも『大往生だった』と少し誇らしげだったのを思い出す。

「いえ……今日で四十九日ですし……」

ハツさんはふふっと笑い、『無理しなくていいのよ』と慰めてくれた。

「でも私、さよさんも心配なの」

「……? 妻が何か?」

私は彼女の発言の意図が分からず、思わず聞き返してしまった。ハツさんは私の方を見る事なくそのまま続けた。

「さよさん、貴方のこと本当大好きだったみたいでね〜、ずっとあなたの自慢話ばかりしてたのよ?」

「……え?」

私は訳がわからず、ハツさんの言葉に対し聞き返すような疑問符の言葉しか発せなかった。そんな私を驚いたような表情で見つめた。

「あら、ご存知ないの?」


家に帰り、店で買った緑茶を淹れるため、湯を沸かす。急須に茶葉と沸いた湯を入れ待ち、緑茶を湯呑みに注ぐ。

私はそれを持って家の縁側に座り込み、左隣に湯呑みを置いた。一つの溜息と共に、洗濯物を干す為に使われた庭をじっと眺める。

懐かしかった。私はここで、洗濯物を干す彼女の姿を見るのも好きだった。何が好きだったのかは分からない。けれど、彼女のその姿が好きだった。

庭をぼんやりと見ていると、竹で出来た塀に大きな黒猫が登っていた。私はその黒猫の姿を見て、懐かしさから思わず声を出した。

「おぉ、黒吉。来たのか」

黒吉と呼ばれた黒猫は、しょうがないというような表情で塀を降りるとこちらに向かってきてくれた。

「おや、来てくれるかい」

雄猫らしい、あまり綺麗とは言えないが味のある低い声で彼は鳴いた。

黒吉はこのあたりで有名な野良猫であり、他の猫達のお頭のような存在であった。目付きの悪さに対し妙に人懐っこい性格から、皆「黒吉」と呼んでいた為、私もそのように呼んでいる。

「黒吉、今日はどうしたんだ?」

鋭い目付きで私を見た後、唸るような声で縁側の上に軽く飛び乗ると、私の右膝の隣に身体を倒した。

また懐かしい記憶が蘇る。

さよは動物に好かれる人であった。それは猫も例外ではなく、彼女が街を歩くと野良猫が必ずと言っていいほど寄ってきて、彼女に挨拶していたのを思い出す。

だがしかし、この黒吉だけはさよの事を好いておらず、代わりに私にずっと構ってくれていた。そんな黒吉を、さよは少し悲しそうな顔で見ていたのを思い出す。

「……黒吉は覚えているかな。いつもいたあの子が亡くなって、今日で二ヶ月だそうだ。君は、あんまり好きじゃなかったのかな」

黒吉は珍しく私の撫でる手にすりすりと頭を寄せ、私の膝の上にのしのしと乗ってきた。答えが返ってくるはずもない彼に対し、意味のない質問を私は続けていた。

「……今日知った事なんだがね、どうやらさよは、私の事を好きでいてくれたらしい。……嬉しいね」

ハツさんから話を聞いた。さよは私の事を高く評価していて、私の愚痴を外ですら一度も溢した事がなく、ずっといい旦那だと褒めてくれていたと聞いた。

誰もが主人の愚痴を漏らす事の多い井戸端会議でさえ、さよは参加せずにずっと私の惚気を言っていたらしい。

「さよさん、あなたの事本当に愛してたのよ」

先程ハツさんにそう言われ、私の中からどうしようもない感情が湧き上がった。

「……私は彼女に何か、出来ていたのかな。彼女が辛い気持ちでなかったかな。……僕は、夫らしい事、出来てたのかな」

不意に一人称が昔のものに戻る。

下に落とした視線が、じんわりと歪む。黒吉の身体に、三粒の涙が落ちた。普段水に濡れる事をひどく嫌う黒吉は、こちらを向きもせずじっと私の膝の上でただ座っているだけだった。

「……あぁ、会いたいな」

何をする訳でもない。

ただ謝りたかった。

何も出来なかったのに愛してくれた君に、ごめんという一言を投げたかった。

せめて、生きている間にそれを言えていればよかった。てっきり僕が先に死ぬものだと感じていたから。

黒吉は僕の膝から離れる気配はなく、彼なりに慰めようとしてくれたのか、喉をずっと鳴らしていた。止まらぬ涙を押さえるように、僕は目元に手を当て、俯きながら泣き続けた。


ごめんね、さよ。

僕の後悔は、たったそれだけなんだよ。

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