標本
「うふふ」
部屋の壁一面に飾ってある昆虫の標本を眺めていると、思わず口角が上がる。
アゲハ蝶、カブトムシ、コオロギ、ギンヤンマ、等々――。
昆虫のフォルムというのは、見れば見るほど美しい。
いくら眺めていても飽きないわ。
私はそれらの標本の中央にある、一つだけ中身が空のケースに右手を当て、感慨にふける。
――その時だった。
「お嬢様、そろそろ夜会のお時間です」
侍女のアレハンドラに声を掛けられ、すっと現実に戻された。
「ええ、今行くわ」
「……相変わらず、圧巻の光景ですね」
無機質な表情で標本を見つめながら、アレハンドラが呟く。
「うふふ、そうでしょ」
本心ではどう思っているかはさておき、そう言われるのは悪い気はしない。
さて、今日は大事な大事な夜会。
気を引き締めないとね――。
「フェリシア、ただ今をもって、君との婚約を破棄する!」
「……」
宴もたけなわとなった夜会の最中。
私の婚約者であり、侯爵家の次男でもあるカルロス様が、唐突にそう宣言した。
カルロス様には男爵令嬢のマルガリータさんが、庇護欲をそそる憂いを帯びた表情でしなだれかかっている。
会場中の貴族の視線が、一点に集まる。
「いったいどういうことでしょうかカルロス様? ご自身が何を仰っているか、ご理解なさっておいでですか?」
「ああ! ああ!! 十二分に理解はしているともッ! 僕はな、もう君みたいな何を考えているかわからない、不気味な女はウンザリなんだッ! 今この瞬間から僕は、マルガリータと真実の愛を築く!」
「嗚呼、カルロス様、嬉しい」
二人はその真実の愛とやらを確かめ合うように、熱い抱擁を交わした。
まるで三文芝居みたいなクサい遣り取りに、会場がシンと静まり返る。
だが、当の大根役者二人は自分の演技に酔っているのか、それらの冷たい視線に気付く素振りすらない。
「……今一度お考え直しくださいカルロス様。これは私たちだけの問題ではなく、家同士が決めた政略結婚なのですよ? このことは、カルロス様のお父様はご存知なのですか?」
「フン! 僕ももう成人している身だ! いちいち父上にお伺いなど立てずとも、自分の人生は自分で決めるさ!」
思春期特有の万能感がそうさせているのか、カルロス様は自信満々だ。
「左様でございますか。そういうことでしたら、私からはもう何も申し上げることはございません。本日はこれにて失礼させていただきます」
私はうやうやしくカーテシーを取る。
「フン、帰れ帰れ! もう君の顔など、二度と見たくもない!」
「……。行くわよ、アレハンドラ」
「……はい、お嬢様」
何か言いたげな顔のアレハンドラを従え、私は会場を後にした。
「……お嬢様、カルロス様がお一人でいらっしゃってます。何でもお嬢様に、大事なお話があるとか」
「あら、そう?」
そして夜会から一夜明けた朝。
私がいつも通り標本を眺めていると、アレハンドラから声を掛けられた。
うふふ、思ってたより早かったわね。
「今行くわ」
鼻歌交じりに玄関へと向かう。
「嗚呼、フェリシア!」
玄関に出向くと、そこには左頬を赤く腫らしたカルロス様が、涙目で立ち尽くしていた。
あらあら、せっかくの綺麗なお顔が台無しね。
「私に何か御用でしょうかカルロス様? 私たちはもう、他人になったはずでは?」
「そ、それは……! ――昨日は本当にすまなかったッ! この通りだッ!」
カルロス様は唐突にその場で土下座し、額を地面に擦りつけた。
あらあら。
「どういうことですか? どうか事情をご説明くださいませ」
私はカルロス様の肩に手を置き、優しく語り掛ける。
「じ、実は……、昨日帰ってから父上に君との婚約を破棄したことを話したら、普段は温厚な父上が、烈火の如く怒ってね……」
「まあ、ひょっとしてそれでお父様に殴られてしまったのですか?」
「そうなんだよ……。あんなに怒った父上初めてで……、もう僕は、怖くて……」
顔を上げたカルロス様は、既に半泣きだ。
嗚呼――。
「だから言ったじゃありませんか、これは私たちだけの問題ではないと」
「うん、僕が間違っていたよ。もうマルガリータとはキッパリ別れる。これからは一生君だけを大切にすると誓う。――どうか僕と、もう一度だけやり直してほしい」
カルロス様の瞳は、まるで暗がりで母親を求める幼子のようだ。
うふふ。
「さて、どうしましょうか。これでも今回のことで私は、深く心が傷付いたのです。いつかまたカルロス様に裏切られるのかもしれないと思うと、不安で夜も眠れるか――」
「そんなッ! お願いだから僕を信じてくれフェリシアッ! もう僕には君しかいないんだ! 僕の残りの人生は、全て君だけに捧げると約束するよ! 僕が約束を破った時は、僕の手足をもぎ取ってくれても構わない! だからどうか……、どうか……」
カルロス様の端整な顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
……ふぅ。
「――わかりました。今回だけはあなた様のことを許しますわ、カルロス様」
「ほ、本当かいッ!」
途端にカルロス様の表情に、パアッと光が射す。
「ただし、今言ったことはくれぐれもお忘れなきよう。いいですね――次はありませんよ」
カルロス様の肩に置いている手に、ミシリと力を入れる。
「わ……わかった、よ……」
一転、カマキリに睨まれたキリギリスのような顔になるカルロス様。
うん、これでよし。
「さあ、アレハンドラ、カルロス様がお帰りになるわ。見送って差し上げて」
「……承知いたしました、お嬢様」
そそくさと私に背を向けるカルロス様を、私は微笑ましく見守った。
「うふふ」
部屋の壁一面に飾ってある昆虫の標本を眺めていると、思わず口角が上がる。
アゲハ蝶、カブトムシ、コオロギ、ギンヤンマ、等々――。
昆虫のフォルムというのは、見れば見るほど美しい。
いくら眺めていても飽きないわ。
「お嬢様、カルロス様をお見送りしてまいりました」
「そう、ご苦労様。カルロス様はどんな様子だった?」
「それはもう、心から安堵しておいででした」
「うふふ、それはそうでしょうね」
「……恐ろしい方です」
途端、アレハンドラの声のトーンが下がった。
「あら、何のことかしら」
「――今回のことは、全てお嬢様の手のひらの上だったのでしょう?」
「……」
アレハンドラの猛禽類のような瞳が、ギラリと光る。
「お嬢様はカルロス様に婚約を破棄されることをわかったうえで、敢えてマルガリータ嬢がカルロス様に近付くのを見過ごしていたのです」
「……何のために?」
「カルロス様をお嬢様だけに依存させるためです。現に今回のことでカルロス様は、一生お嬢様に頭が上がらなくなりました。カルロス様がお嬢様の手のひらから逃げ出すことは、二度と叶わないでしょう。――まるでこれらの標本のように」
アレハンドラは壁一面の標本を、憐れむように見つめた。
うふふ。
「さあ、どうなのかしらね」
「……失礼いたします」
折り目正しく一礼してから、アレハンドラは部屋から出て行った。
一人になった部屋で私は、標本の中央にある一つだけ中身が空のケースに右手を当て、感慨にふける。
――これでやっと、最後のピースが嵌まったわ。
私は改めて、壁一面の標本をぐるりと見回す。
アゲハ蝶、カブトムシ、コオロギ、ギンヤンマ、等々――。
それらの昆虫はどれも例外なく、翅と脚を全てもぎ取ってある。
――嗚呼、やはり昆虫は、この姿が一番美しいわ。