【昭和60年(1985年)7月】
今から37年前の昭和60年7月……私は18歳、高校3年生になっていました。
私は甲府市内の県立高校に通っていました。当時の高校受験は「総合選抜」という方式で、甲府市の場合は4校(後に1校増えて5校)の県立高校が対象でした。競争倍率のバラツキがなくなるので受験は楽だった分、どの高校に振り分けられるかわからない……といったデメリットもあります。家から遠い高校なんかに振り分けられたらたまったものではありません。
幸い、家からまあまあ近い高校に通えることができた私は、部活動は友人に誘われ弓道部に入りました。私は運動が得意ではありませんでしたが、ハードなトレーニングを必要としなかったのでこれなら大丈夫かなと……。ただ、冬は寒くて大変だったのと正座がきつかったのを覚えています。
部活の帰り道には、友だちと「じゅんじゅん」でたこ焼きや、当時まだ珍しかったクレープを一緒に買い食いしていたのが楽しい思い出です。
そんな高校生活もあと1年を切りましたが……高校総体も終わり、部活動を引退していた私にある「難題」が迫っていました。
進路です。この日は進路希望を確認する三者面談が行われました。
「吉村さん、ちゃんとご両親ともう一度じっくり話し合ってくださいね」
「はい……失礼しました」
「……」
「……」
三者面談は母が同席しました。が、面談会場の教室を出て廊下を移動中ずっと私と母は無言のままでした。私は機嫌が悪い素振りを隠そうとはせず、母は明らかに困ったような顔をしていました。
「……何であんなこと言ったの?」
沈黙を破るように私は母に詰め寄りました。
「だってお父さんが……ねぇ文名お願い、お父さんの希望も少しは聞いてあげて」
「何で? 私には私の人生があるのよ! 私はあの人のロボットじゃないわよ!」
私は思わず母に辛く当たってしまいました。というのも両親……特に父が望む進路と、私が行きたい進路が完全に食い違っていたのです。
母は私に対して進路を強制する気はないようですが、父から強く言付けされた事を担任に伝えてしまったのです。それが私の希望する進路と完全に違っていたために三者面談は平行線のまま何の進展もなく終わってしまいました。
このとき私は反抗期でした。普通の人は中学生ぐらいで始まるようですが、私はかなり遅れていたようです。
母が私と父の間で板挟みになっていることはわかっていました。私は母に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいでしたが、このときの私は引き下がることをとても嫌っていました。
「お母さん! 私、友だちと帰るからお母さん1人で帰って!」
私は母にそう言うと、母の顔を見ずにさっさと自転車置き場へ向かいました。
※※※※※※※
「あーあ、総体も終わったし、部活引退したらなーんかヒマだねぇー」
私は同じ部活だった友だちと3人で、自転車を降りて歩きながら話をしていました。総体とは県の総合体育大会のことです。これが終わると3年生はインターハイに出場する生徒以外、実質的に引退です。
「どうせだったら小瀬でやってみたかったよねー」
「だよねー、でも弓道場ないみたいよ」
当時の山梨県は、翌年に行われる「かいじ国体」のため県内各地でスポーツ施設が相次いで新設されたり、甲府駅に駅ビル「エクラン」が建てられたりまさに建設ラッシュでした。
この年に国体のメイン会場として「小瀬スポーツ公園」が完成しましたが、弓道場を含む武道館ができるのはこれからずっと後、平成8年(1996年)のことです。
「この後どうする? 恭子の家でファミコンやる?」
「いいねー、この間Dポットでギャラガ買ったんだぁ」
「えっ、私パックマンやりたいんだけど……啓子は?」
「あ……私パス! 帰ったらすぐ塾行くから……」
「……」
そう、もう受験戦争は始まっていたのです。今は高3で予備校に行くのは普通でしょうが、私たちの時代は予備校=浪人生が通う場所だったので受験生は主に塾通いしていました。ちなみに「スーパーマリオブラザーズ」が発売されたのはこの話から2ヶ月後の9月です。
「そっか、もう(受験勉強)本腰入れないとね……文名はどうするの?」
「私? 私はねぇ……東京の私立に行く!」
「何そのテキトーな進路! えっあきらめたの? 投げたらアカン!」
「いや、そーじゃないんだけど……」
当時の私は「東京で生活したい」という願望と「女子大生になりたい」という願望の2つを両立したかったのです。
山梨という所は東京の隣であるにもかかわらず、その存在感を全く感じられないマイナー県です。当時「ダ埼玉」という言葉がありましたが、山梨はそんなネタにすらされないほど「東京の隣」というイメージがありません。
当時の私はそんな山梨が嫌いでした。すぐにでも東京に行きたかったのです。渋谷や原宿の街をDCブランドの服を着て歩くのが夢でした。
また当時はラジオで「ミスDJリクエストパレード」、テレビでは「オールナイトフジ」が放送されていて女子大生ブームが起こっていました(ミスDJ――はこのときすでに番組が終了していましたが……)。
私は『東京の女子大生』に憧れていたのです。ですが東京の国立大や有名私立大はどこもレベルが高そうだったので、地元では聞いたこともないような私立大学を希望していました。正直『東京の女子大生』になるのが目的なので、入ることができればどこでもよかったのです。
そう……その先のことは何も考えていませんでした。
浅はかすぎた高校時代の私です。
※※※※※※※
「ただいまー」
私は友だちと無駄話をしながらゆっくり帰ってきました。三者面談に同席した母は先に帰っているはずです。
(あれ? 居間に誰かいる……)
この時間、母は台所にいて夕食の支度をしているはずなのに誰が居間にいるんだろう……お客さんかな? と思いそーっと覗き込むと、そこには……
父がいました……何でこんな時間に?
父は小さな印刷会社を経営していましたが、ここ最近忙しいのか夜遅くまで仕事をしていました。この時間に帰ってくるのは珍しいことです。
「文名! ちっとここへ座れ」
「……」
父は私と目が合うなり、強い口調で私を呼び寄せました……これは確実に説教のパターンです。私は何で座らされるのか概ね想像がついていたので、早急に頭の中で反論の言葉を探しました。
「おまん、東京の私立に行きてぇって……どういうこんで?」
予想通りでした。
「どういうって……そういうことよ! 私、東京へ行きたいのよ」
「おまんなぁ……ウチは会社やってるって言ってもちっくい会社だ。私立大なんて一体いくらかかると思ってるで!? それに東京で生活なんつったらアパート代や生活費もいっぺぇ掛かるじゃんけ! だいたい東京に行って何がしてぇで?」
「そっそれは……アパレルの仕事がしたいのよ!」
私はウソをついてしまいました。正直東京に出られるのなら何学部でもよかったのです。適当に横文字を使えば、山梨の田舎でそんな小洒落た仕事はないだろうと思わせ……正々堂々と、そのまま東京で就職できると思ったからです。
「ダメだ! ウチは私立に、ましてや東京で生活させる金はねぇ! おまんは梨大(山梨大学)の教育学部以外は許さん! ほんねん東京行きたかったら家から都留文(都留文科大学)に通えばいいずら!」
「イヤよ、都留なんて甲府より田舎じゃん! それにあそこは東京じゃないわよ」
そうです、父は私に県内の国立大学……しかも教育学部へ進学してもらいたかったようです。そして私が中学校か高校の国語教師になり、仕事をしながら小説家を目指してほしい……というのが父の描いた青写真のようです。私の名前に小説家としての名声を意味する「文名」という字を使っていることからもわかるように、父は私を「小説家」にしようとしていました。
後で知りましたが、どうやら小説家というのは「父の夢」だったようです。
昭和11年に生まれた父は戦後まもなく、家計を助けるために新聞配達のアルバイトをしながら学校に通っていました。実家はそこそこ裕福な家庭だったそうですが昭和20年7月6日の甲府空襲で焼失してしまいました。家族とともに知り合いの新聞店に身を寄せた父はそこで働いているときに偶然「新聞小説」に出会い、小説家になろうと決意したそうです。
父は高校を卒業後、上京して出版社に自作の小説を持ち込んでいましたが世の中そんなに甘くなく……全く相手にされなかったそうです。そんな中、当時仕事が無かった父は出版社の人から印刷所の仕事を紹介してもらい……そこで仕事を覚えた父は山梨に戻り、自ら会社を興したのでした。
ですが、それは父の夢であって私の夢ではありません。
私は、自分の夢を押し付けようとしている父に反発しました。私の反抗期は主として父に向けたものです。
「何よわからず屋! 父さんの夢を私に押し付けないでよ! 私には私の生き方ってものがあるのよ!!」
まぁ生き方はあっても未来図は何もありませんでしたが……。
「何だと! だいたいそんなお金がどこにあるっつーで!? おまんがバイトで全部払うっつーならいいけんどもなっ!」
「あぁやるわよ! バイトして学費も生活費も全部賄うわよ!」
もちろんバイトだけでは学費すら賄えないことは百も承知でしたが、売り言葉に買い言葉……父と私は逆上してその場に立ち上がり一触即発の状態です。母は台所から出てきてケンカを止めようとオロオロしていました。
興奮した父は私をキッと睨みつけると
「おまんみてーなおバカっちょは知らなー! どけぇでも行っちめぇ!」
「あっあなた……ご飯は?」
「いらん!! オレはもう寝る!」
〝ピシャンッ!〟
父は甲州弁でまくしたてると寝室に入り、ふすまを力任せに閉めました。
それ以来、私は父と口をきかないままでした。父は仕事が忙しく家に帰ることがほとんどなかったので元々口をきかなくても何の問題もなく……私からすればむしろ好都合でした。
私は東京の私立を目指しましたが、確かに学費や生活費は無視できません。父の協力が得られない上に、今の成績では奨学金を給付される可能性は限りなくゼロに近いです。かと言って貸与の奨学金はリスクが……なので一応、県内の国公立大も受験することにしました。
※※※※※※※
年が変わって昭和61年1月。私は「共通一次」の会場にいました。
今は大学入試センター試験、そして大学入学共通テストと名前を変えているようですが、私が受験した当時は「大学共通第1次学力試験」略して「共通一次」と呼ばれていました。
ここでの成績で改めて希望する大学の2次試験を受けることになりますが……断念しました。当時の2次試験は1校しか志願することができず、自己採点をした時点で志望大学はとても無理だと判断したからです。
マークシートなので、とりあえず埋めれば何とかな……りませんでした。
まぁこれで県内の国公立大受験を希望していた父に堂々と(?)言い訳ができます。実は三者面談のときも、私の偏差値では厳しい……と先生から言われていましたので何となくこの結果は予想通りでした。
私立の方は一発で合格しました。元々私の偏差値に合わせて志望校を決めていたので、よほどのアクシデントでも起きない限り、合格する自信はあったのです。
でも私は素直に喜べませんでした……そう、お金の問題があったからです。
※※※※※※※
合格通知が送られてきました。期日までに学費を納めなければなりません。私は半分……いえ、完全にあきらめていました。父の協力が得られない今、学費を全て納めることは不可能だったからです。就職希望の生徒がほぼ全員内定をもらっている現状では今から就職……というのも難しいです。ここは、来年に県内の国公立大受験を目指して浪人するしか手はない……と悟りました。
(東京で女子大生……結局夢物語だったなぁ)
ある日そんな絶望感に浸りながら帰宅すると、普段いるはずのない父が階段を下りてくる姿を見かけました。一瞬、私と目が合いましたがすぐに目を逸らしそそくさと居間に入っていきました。私も口をききたくなかったので父が無視したことにむしろ安心しました。でも……
――!?
この家の2階は2部屋……私の部屋と、きょうだいが生まれたときのため用意したもうひとつの子ども部屋……これは物置になっています。つまり父は、私の部屋に用があって侵入したに違いありません。
(えっ、何で私の部屋に? ウソでしょ!?)
私は自分の部屋が荒らされていないか心配で階段を駆け上がりました。そして部屋を開けるとすぐに違和感を覚えました。
(あっ、何を置いたの? あのオヤジ……マジで迷惑! やめて!)
学習机に何か置いてあったのです。私は、大嫌いな父が部屋に侵入したことに腹を立て、机の上にあった物を投げ捨てようとしました……ところが、
(えっ!? これって……)
置いてあったのは私の名前が書いてある預金通帳、それに印鑑とキャッシュカード……そしてメモでした。私は恐る恐る通帳を開いてみると……
――!?
そこには100万円以上の金額が記帳されていました。当時なら入学金と初年度授業料を支払うのに十分な金額です。ワケがわからず頭が混乱した私は、その場に呆然と立ち尽くしてしまいました。
(えぇっ、何でこんな大金が……?)
後に母から聞いた話ですが、このとき父が夜遅くまで仕事をしていたのはこのお金を工面するためだったそうです。普段取らないような仕事まで請け負って寝る間も惜しんで働いていたのです。
それを家に帰ってこないのが好都合とか……私は何て親不孝者なんでしょう。
私は通帳と一緒に置いてあったメモを広げてみました。そこには一言こう書いてありました。
『子供の夢をかなえるのが親の仕事』
机の上に、こらえきれなくなって溢れ出た涙が1滴、1滴と落ちていきました。
私はベッドに横たわると布団をかぶり……声を殺して大泣きしました。
※※※※※※※
昭和61年3月、私が東京に旅立つ日がやってきました。
幸いにも学生寮に入ることができたので生活費を抑えることができました。そうは言ってもアルバイトをしなければ生活することはできません。
「文名、いいの? お父さんに挨拶しておかなくて……」
「……」
その後も父とは和解することなく、たまに顔を見ても会話がない日々でした。この日も甲府駅までの見送りに母が付き添ってくれましたが、父は私の顔すら見ることなくいつも通りに仕事場へ向かっていきました。
母と歩いて甲府駅まで向かいました。途中、近所の商店街を通りかかったとき、
「あっお母さん、ちょっと待って」
私は、文具店の前にある丸いポストへ駆け寄りました。
「ポストさん……」
私はその丸いポストにそっと話しかけました。私はその「ポストさん」と話ができるのです。でも今日は近くに母がいるので小声で話しかけました。
〝おや文名さん、いよいよ今日ですか……寂しくなりますねぇ。たまにはこちらにも帰ってきてくださいね〟
「うん、夏休みと正月には帰るよ……それより、これお願いね」
私はポストさんに封筒を投函しました……手紙です。
〝承知しました。ではお気をつけていってらっしゃい!〟
「ありがと、いってきます」
私はポストさんにそう囁くと後ろを振り返りました。そしてポストさんの反対側にある建物を見つめました。
そこは父の経営する印刷所です。私はその建物に向かって会釈をしてから母と一緒に駅へと向かいました。
ポストさんに託した手紙……それは父宛ての手紙でした。
戦前生まれで頑固者の父……今さらお礼を言ったところで素直に認めないでしょう。実際この日も見送りどころか顔すら見せませんでした。
なのでこの日、手紙を投函することにしました。郵送されたこの手紙を父が読む頃、私は東京にいるのでお互い気まずくなることはありません。
手紙には今まで辛く当たったことに対する謝罪、私のわがままを聞いてくれたことやお金を工面してくれたことへの感謝、大学ではちゃんと勉強してまじめに頑張るという決意……などを書きました。直接言ったところでお互い意地を張ってしまいそうですが、手紙なら気持ちが伝わる気がします。
あっ、そうそう! 机の上にあったメモには他に、キャッシュカードの暗証番号が書いてありましたが……。
父が設定した番号は「0237」でした。さすがに私の名前を使うのはセキュリティが甘すぎると感じたので、私はすぐに銀行へ行き暗証番号を変更しました。
新しい暗証番号は……父の誕生日にしました。
このお話はまだ続きます。次は念願の女子大生になり帰省したときのお話です。