第1章 ②
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圧倒的ロスタイム。
姉を引き剥がして、少し早めに家を出れたまではよかったが、まさかのエンカウントに、時間を食われてしまった。
スマホで地図を表示させながら、ショートカット出来ないか考える。少し賭けになってしまうが、出来れば入学早々から遅刻はしたくなかった。
調べたところ、ショートカット出来そうな裏路地があった。
前回そこは確認してないけれど、賭けなので今はそこの道を頼ろうと思った。
そして、その決断を僕は酷く後悔する事になった。
「にーちゃん。可愛いねえ? どう? 学校なんて行かないで俺らから何か学ばない?」
「兄貴。男を食う趣味なんてありやしたの?」
「バカヤロー。おめーは何にも分かってないんだよ。よく見てみろ。女より可愛いじゃねーか」
「た、確かに、可愛いっせ。兄貴」
「なあ、ここで俺らに会ったのも何かの運命ってことだよ」
ど、どどどどどうすればいいんだ。と恐怖感に気圧されている状況。
裏路地を通ったまでは良かったけど、そこにたばこを吹かしている不良が2人いた。
やばいと反射的に引き返そうとしたが、おい、と声をかけられて足が固まってしまった。
腕に手を回されて完全に蛇に襲われている状態に近い。
手下と思われる小太りな男は、息を荒げながら僕を見つめてくるし。
「なあ、お前本当に男か? 実は女なんじゃねえのか?」
僕はやれる範囲の全力で首をぶんぶん横に振った。
気持ちが萎んできた。泣きたい気持ちでいっぱいだった。
「そんな可愛い顔されちゃあ、学ラン来てても説得力無いなあ。なあ、本当は女なんだろ? 男装しているだけなんだろ?」
兄貴と慕われている方が、更に顔をこちらに近づけてきた。
結局こうなんだ。
誰も僕を男としてみてくれない。
男だと言っても信じてくれない。
神様。どうして僕は女として生まれてこなかったのですか?
現状を打破する考えよりも、現状を悔いるネガティブな感情しか浮かんでこない。
「まあ、いいさ。脱がしてみれば分かる話だからな」
辞めて、と叫びたいが、助けを求めたいが、喉に接着剤でもひっついているかのように、声がまったくでない。
かすれたような息しか漏れない。
家を出るとき抱いていた感情が、風船のようにどんどん萎んでいく。
ようやく涙を流すことができたが、もう遅い。
いや、まるでその感情さえ楽しむように兄貴の方はドエスな笑みを作った。
恐怖が更に僕を締め付ける。
蛇に睨まれた蛙のようになり、何もなすすべがない。
「兄貴。そういう事なら手伝いまっせ」
手下は下品な笑みを浮かべながら肉薄してくる。
嫌だ。
嫌だ。
助けて——。
目を瞑りながら、心の中で綿がはち切れんばかリの絶叫をあげた。
「へぶしっっ」
それは、その刹那の出来事だった。
手下の男が間抜けな声を上げながら前に倒れた。
「な、なんだよ。お前は!?」
僕は強く閉じていた瞼をゆっくりと開き、それを見た。
「・・・・・・・・・・・・」
目の前にいるセーラー服の彼女が、蛇を睨みつけるマングースのような出で立ちで、片足を上げていた。
どうやら渾身の一撃を後頭部にお見舞いしたようだ。
僕は、その彼女に気圧されながらも、驚愕に体が震えていた。
セーラー服を来ているから、女性であると判断したが、顔は別であった。
美少年、と形容に値する程の美貌を貼り付けており、イケメン男性がセーラー服を着ているようにしか映らない。
目にかからないほどの前髪の下の切れ長の双眸が、僕を押さえつけている兄貴に向けられている。
ほぼ同じ位置にいる僕も、その威圧感に血の気が引いていくのが分かる。
「な、なんだって聞いてんだよ。おらぁ」
やはり兄貴の方も同じように圧倒的な圧力に萎縮しており、声が震えている。
「・・・・・・せ」
「あ、あああ。なんだよ。聞こえねえよ」
兄貴の方は、声を荒げる事で恐怖心を少しでもごまかそうとしているが、対峙する少女の放つ威圧の前では蛇足でしかならない。
「その手を離せ」
あくまで厳かに、努めて静寂に溶け込ませるように、声を出した。
「あ、あああ。ふざけんなよ! お前には関係のない話だろう!」
「・・・・・・ああ」
「だ、だろう。こいつを蹴り倒した事は水に流してやるから・・・・・・はやくどっかいけよ」
まるでライオンを相手にしているかのようだった。
彼女の瞳は一点を見つめて、けして決意が揺らぐことのない確信を与えてくれる。
「放る理由にはならない」
イケメンって言葉はきっとこういう時に使うんだろうなぁ、と思った。
彼女はゆっくり、努めてゆっくり、兄貴の方との距離を縮めていく。
「く、来るんじゃねえよ!」
彼女の放つ迫力が圧倒的すぎて、ネズミがライオンから逃げているようにしか見えない。
兄貴の方の言葉など最初から聞いておらず、刃物のように鋭い双眸を向けたまま、一歩、また一歩と肉薄する。
恐怖感に耐えられなかった兄貴の方は、
「お、覚えてやがれ!!」
と捨て台詞を吐きながら、僕に巻き付けた腕を離し、子分を置いてそそくさと退散した。
現状の打破を確認すると、彼女はスカートを翻しながら踵を返して歩き出した。
「あ、あの・・・・・・」
僕はまだ回復していない喉を無理矢理酷使して、蚊のなくような声を絞り出した。
地面に置いていた鞄を拾って肩に担ぐなり、彼女は首を巡らせてきた。
「あ、ありがとう・・・・・・ございました・・・・・・。」
「・・・・・・おう」
男らしい台詞を残して、彼女はこの場を去ってしまった。
仰向けで倒れている子分と自分だけが、静寂に包まれる。
僕は、ズボンのポケットに手を入れてスマホを取る。自然と気持ちは穏やかだった。
「遅刻確定かあ・・・・・・」
ポケットにスマホを戻して、僕は高校に向かって歩を進めた。