表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

私という人間

作者: 幸

私という人間は自分でも理解しがたい存在でした。

私は他者の意見を理解することはできても共感することはできませんでした。

そして私は「人間」であることをやめました。

「人間ではない何か」への道を一歩一歩歩み始めていたのです。

 私という人間は自分でも到底理解できないものでした。「自分のことは自分が一番知っている」そんな言葉、嘘っぱちとしか思えなかったのです。今これを書いている私自身さえ今から何を記したいのか全く見当もつかないので、何も考えず、ありのままを綴っていこうと思います。

 私はとても裕福な家庭に育ちました。お金にも寝る所にも食事にも困らることがない。寝れば安心して明日の太陽を拝むことができる。仲の良い両親、何でもできる秀才な姉。たくさんの友達。自分が不幸だと言うことが申し訳ないほどとても裕福な家庭で育ちました。

 私はある一つの罪を犯したのです。家の金を盗んだのです。もう何年も前のことなので理由を思い出すことができません。ただ何かの欲求を満たしたかったのでしょう。

 当時の私は精神がすり減っていました。私は役立たずでした。言われたことがすぐにできない。ダメだと言われたことを欲に負けてやってしまう。勉強もピアノの練習も「疲れた」と思うとすぐに放り出してしまう。母にサボったことがばれて「なぜサボったのか」と問われた。私は正直に「疲れたから」と答えました。すると、母は私の頬をひっぱたいたのです。

 サボったから叩かれたということは幼い私にも理解できました。

「サボったら叩かれる」

 頬に走った痛みを思い出しながら私はサボることをやめようとしました。できなかったのです。私は幼いころから欲に弱い女だったのです。欲に弱い私は「ばれなければいいのでは」と考えるようになりました。

 これが私の「理解できない存在」になる第一歩でした。

 私は「嘘つき」になりました。悪いことをするたびに嘘をつき続け、そのうち信用というものを完全に失っていきました。当然のことです。両親のあたりは強くなり、何もできない私とは違い、何でもできる姉は私のことを始終小馬鹿にしていました。息苦しかったのです。心が痛むのです。きっと痛んだ心の泥沼を足掻いているうちに私は道を踏み外したのでしょう。気づいたときには家から何万という金を盗んでいました。

 不思議なことに盗んだことに罪悪感はありませんでした。ただ盗んだお金を使って好きなものを買って喜んでいました。もちろん両親にばれて何度も叱られました。殴られ蹴られ罵られ。当然です。それくらいのことを私はしたのですから。そして父親は言いました。「あの子は人間じゃない」と。

 お金のこと以外でも私は一日のほとんど母親に叱られていました。学業がよろしくない。毎日のように寝坊する。スマホを隠れて触っている。親に黙ってゲームアプリを入れた。「なぜあなたは当たり前のことができないの?」いつも母親は私に言い聞かせました。くず、馬鹿、嘘つき野郎、恥晒し。幼少のころから脳へ刷り込むかのように。中学生に上がるころには、私は「私はくずである」と当たり前のように思っていました。

 私には人の気持ちが分かりませんでした。正確に言えば理解はできるが、共感することはできませんでした。人にやさしくすることは苦ではない。ただ、何故優しくするのかといわれると少し困ってしまいます。「人には優しくしなさい」と小さいころから言われていましたので、それに誰かが悲しむのはとても心苦しかったのです。かといって、私は助けてほしいと思うことはありませんでした。いや、もしかしたらあったのかもしれません。けれど、私はくずです。人間ではないのです。人の形をした人間ではない何かだったのです。そんな何かの悩みなど、人間様に聞かせるわけにもいかないだろう。それに私は変わり者ということは十分にわかっていました。家族との会話が合わないのです。感情を説明されても共感することができないので、いつも話は平行線。私自身が一般の人間の感情を理解できないのですから、私の考えを人間様が理解するなど不可能に等しいと考えていたのです。

 中学に上がって私の精神は削れてぎりぎりのラインまで来ていました。定期テストというもので成績が明らかになる。部活の人間関係、クラスメイトとの人付き合い、先輩への礼儀作法、疲れた後にかわす理解しあえない家族との会話。すべてにおいて腹が立っていたのです。

 リストカットというものを知りました。私の友達の腕にはいつも切り傷がありました。私は友達に聞きました。なぜ腕に傷があるのか。何で怪我すれば腕に多くの切り傷が残るのか。その時自傷行為というものに出会ったのです。私は試しにカッターナイフを手首の皮膚に押しつきました。勢いよく引くとプツっと皮膚が避けて赤い丸が浮かび上がりました。それを見て恐怖と安堵、安心感が芽生えました。それからも私は何度もカッターナイフで皮膚を裂き、気づいたころには自傷行為の虜になっていたのです。

 切った手首をネットに晒すわけでもなく、人に見せるわけでもなく。精神安定のために切り続けました。……それでは足りなかったのです。もっと、もっと嫌なことを忘れられるほどの刺激が欲しいと新たな刺激に求め続けました。ネットで自傷行為について調べ始めました。自分で自分を殴る。ネクタイで首を絞める。入水。飛び降り。壁に頭を打ち付けるなど。指を力いっぱい噛むなんてこともしました。心があまりにも取り乱しているときは面白いほど自傷行為が続きました。壁に何度も頭を打ち付け、力任せにカッターを手首に押し付け引くを繰り返し、目玉が飛び出そうな感覚になるまで首を絞めて、その場にあった金属の水筒で鳩尾を殴りつけました。ふと、我に返るのです。自殺行為ではなく自傷行為。私は死ぬ何歩か手前の生きたいという欲望が出る一歩前のスリルを楽しむことでストレスから逃げようと考えていたのです。

 しかし、長らく続けていると慣れてきてしまい、新しいストレス発散法が欲しくなるわけです。自傷行為ほど効くものが思いつかなかった私はインターネットで様々な方法を調べたがどれもしっくりこなかったのでした。次第にストレスは積もっていき、回復不可能なほどまでなりました。

(続く  更新は明日か、気が向いたらぼちぼち。)

私の妄想を詰め込んだお話でした。

きっと人間っていうのは自分自身をすべて理解することは不可能で人と完全に分かり合うことも不可能で。

理解するために悩んで苦しんで楽しんで生きることが人生なんだとふと思ったのですが、結局それも若さからの考えなのかな? とか思ったりもします。

結局「生きる」って何なんでしょうかね?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ