#2:訳ありの彼女
初めまして!
「あぁ、今日も美味かった……」
ティルは空になった皿を前に、一杯になった腹を満足げに撫でた。女将と似たような低い背でぽっちゃり体型の青年が空のグラスに冷水を注いだ。
茶髪のもじゃもじゃの髪が印象的だ。彼は女将の5人の子供たちの長男のペドだ。今は彼一人で、がやがやと賑やかな潮騒亭に訪れる客の相手から調理、配膳まで行っていて、額からは玉の汗が溢れ出ていた。
「ペド、ありがとう。」
「はいはいどうも。それにしても女将はどこへ?おかげで大忙しですよ。いやいや、暇になるよりはずっといいんですけどね。限度ってもんがありますぜ!」
ペドは早口に文句を言いつつ、新しい注文を受けにすっ飛んでいった。
ティルは痛む手指を撫でた。既に包帯を巻いていて、血が黒く滲んでいた。薄い皮は切れてしまったが、骨には大事がなさそうだった。そのうち治ってしまうだろう。
ティルが部屋を後にしてだいたい半時ほどたって腹も満ち、そろそろ部屋に戻ろうとした時だった。窓からは綺麗な夕焼けが見えた。
外が何やら騒がしいことに気付いた。窓際の客たちが外の様子を窺っているのが見える。
その時突然潮騒亭の縦長の扉が、暴力的な音を立てて開かれた。ブーツの高い踵を鳴らしながら背の高い女が入ってきた。
肩までの黒い髪の毛先は紅く染まっている。若いシワのなどない目は切れ長で、艶やかな口元は魅惑的な笑みがあった。裾の長い黒いコートを着ていて、胸の部分に赤い龍の紋章がある。細いズボンは彼女のなまめかしい足のラインを際立たせていた。腰には細い剣を帯びていて、片手には杖があり、大きく湾曲した先には赤く輝く宝石がついていた。
彼女の後ろからぞろぞろと重鎧を着こんだ、まるで動く甲冑に魂が宿ったような兵士たちが4人入ってきた。皆、巨大な盾を右に持ち、左に抜き身の分厚い剣がある。そして、入り口を固めるように横に並び、その前で女が楽団の指揮者のように大げさに礼をした。
酒場に来るには異様な姿の彼女らを見て、ティルも含め客達は目を丸くした。
「はぁい、お食事中お楽しみ中失礼しますね。私達、ちょっと尋ねたいことがありまして。」
「なんだなんだぁ? おかしな格好したねぇちゃんよぉ。」
ふらふらと酔っ払いが立ち上がり、千鳥足のままに女に絡もうとする。その手が伸びて頬に触れようとしたが、その前に彼の目の前に突然に分厚い鋼の壁が現れて迫った。
酔っ払いは反応出来ずにそれにぶち当たり、派手に宙を舞って、料理の載った机に転がった。その壁は、女の後ろから割り込んできた兵士の大盾であった。哀れな酔っ払いはピクリとも動かなくなった。
「あら、うちの騎士達がごめんなさいね。」
女は彼女の騎士を指先を軽く降って下がらせた。その声色は全く悪いと思っていない、例えば飛んできた羽虫を叩き潰した時のような、興味の欠片もないものだった。
呆気にとられ、また驚いてなにも言えなくなった客達を前にして、突然何かを思い出したように手をポンと叩いた。
「おっと、申し訳ありません。名乗りがまだでしたね。私、グラウン帝国皇帝の忠実なる臣下が1人。名をイリス=グランデと申します。与えられた色は“赤”でございます。以後お見知りおきを。興味がなければ忘れても構いませんよ。さて……」
イリスは広い潮騒亭をぐるりと見渡した。その時、ティルに視線が注がれたのが彼にはわかった。その暗い洞穴のような瞳が、ティルの体を見透かして、考えていることまでを全て盗み見られたような気がして全身の毛が逆立った。
人々はすっかり酔いが覚めて、恐れ戦いていた。さっきのことが示威行為であったのならば、それは完璧に成功していた。また、かの帝国はヴィットリンデ大陸を支配する超大国であることも知られていて、さらに彼らは他国に強大な武力による侵略を始めたという話もあったからだ。
緊張がその空間を支配していた。濃い力の臭いが漂っていた。が、その時、注文の料理を運んできたペドが厨房から出てきた。そして、そのものものしい雰囲気にあっと声をあげた。
「おやおや! これは一体どういう騒ぎでしょうか!」
「あら、貴方がここの店主かしら、小さなお兄さん?」
蠱惑的な笑みを向けられてペドは思わずどぎまぎした。イリスは、沈黙する店を見渡しながら言葉を続ける。
「いえいえ、特に騒ぎというものはありませんよ。あったとしても今はもうないです。それに、私達は戦争を起こすために来たのではないのですよ。」
「せ、戦争? で、ではお客様で……?」
イリスは机の上の料理をちらりと見て、不快げに顔を歪めて首をふった。
「そんな粗末な……いえ、私は人を探していまして、どうやらそれらしき銀髪の女の子がこの店に担ぎ込まれたそうで。いえ、もしかしたら拐われたっていうのが正しい表現かもしれませんね。」
ペドの前にずいっと威圧するように進み出て、顔を覗き込んだ。ペドは恐れるように顔を伏せた。もじゃもじゃの茶色の髪が少し震えているように見えた。
「えぇ、銀髪で金色の眼が綺麗な、エニアスという名の女の子なんですが、何か心当たりありませんか? お答えいただかずとも構いませんよ、勝手に見ますから。」
そう言って、持った杖でとんと軽く床を叩いた。
その瞬間、空気が変わった。ティルはそう感じた。体が自分の物ではないように、濡れた死体が背中にあるようだった。空気には冷たい氷の刺が生えていて、吸い込み吐き出すごとに喉と肺をズタズタに切り裂いているようだ。
イリスの影は深く黒く大きくなり、そこから闇の軍団が出てくると言われても何も不思議はなかった。イリスはペドをその犯人であると疑っているらしく、その2つの暗い目はペドを串刺しにしていた。ペドが受けるその力は周りの人間の比ではないらしく、既に彼は床に突っ伏して小さくうずくまっていた。
「あ、あっしは何も……何も知りません!」
ペドは体の底から絞り出したような、調子外れの声で叫んだ。その声が高い天井にわんわんと響き、それがなくなった後の静寂が、その場の誰にとってもひどく苦痛であった。断頭台に首をはめられて、いずれ振り下ろされる斧を待つ気持ちであった。ペドはぎゅっと目を瞑り、少しでも恐怖を薄れさせようとしていた。
「ふふっ。」
唐突に、堪らず溢れたというような女の笑い声があがると、膨らんだ泡がパチリと弾けるように重圧は消え去った。空気は暖かさと柔らかさを取り戻し、ペドは恐る恐る顔をあげた。イリスは優しい笑顔であった。ペドはイリスに手をとられて立ち上がらせられたが、膝がぶるぶる震えてしっかと立つことが出来ない。
「えぇ、貴方ではないようですね。よく、わかりました。驚かせてしまって申し訳ありません。では次。」
口は謝っているが、その声色は全くそうではない。座り込んだペドはもはや彼女の興味の外であった。
イリスの黒い瞳がティルを見つけた。捕まってしまった。
ティルはイリスの言う出来事に心当たりがあり、そしてそれは確実なものだったのだ。本当は、うずくまったペドを背に、かの女に剣を突きつけるべきなのだろう。守るべきものを守らずして、何のための剣か。
されど、彼の意志に反して、ティルの手足は杭で縫い付けられたかのように動かず、また肩には鉄球が載せられたようだったのだ。
踵をならしてゆっくりと歩み寄ってくる。ティルの近くに座っていた客達は、いつの間にか立ち上がって何歩も後ろに下がっていた。彼女はちらりとティルの手を見た。
「貴方、何か心当たりはありませんか? えぇもちろん、答えて頂かなくて結構ですよ。」
イリスは舌なめずりをして、杖を持ち上げた。彼女は何らかの術で、その相手の記憶か何かを探るのだろう。そうなれば直ちに少女の居場所が見つけられてしまう。
ティルは、どうやら自分がとんでもないことに首を突っ込んでしまったことをようやく思い知った。声も出せず、体も動かず、漠然として巨大な何かに踏み潰されるのみだった。肌が粟立って、鼓動は壊れた玩具みたいに警鐘をならし続けた。空気がさっきと比にならぬほど冷たくなった。
と、その時、またもや潮騒亭の扉が開かれて誰かが入ってきた。イリスは手を止めそちらを見た。彼女の目が離れたその途端、空気に温かさが戻ってきた。
ティルには入ってきた姿は見えなかったが、騎士達の足を掻き分けて少年が入って来た。少年というには額の皺は深かった。ぶかぶかの黒い服にはポケットがたくさん付いていて、イリスの服にあるのと同じ龍の紋様があるのに加え、緑の宝石の首飾りがある。短い金髪の頭には黒い帽子を被っていた。
「おい、バカ女、時間切れだ。悠長にいちいち怪しい奴を確かめているからだ、このバカめ、王国軍に嗅ぎ付けれたぞ。」
「あー、緑のおチビさん? 親しい仲にも礼儀ありって言うでしょう? いくらなんでも言い過ぎです。ほら、間違えて殺すのもあれでしょう?」
「お前がそんな気遣いをするやつだとは初耳だ。ともかく戻れ。要らん喧嘩を売る必要も余裕もない。それにお前はカートランド侵攻の任についていただろうが。これ以上仕事を増やしても、非効率の極みのお前にはどうしようもないだろうが。僕と戻るんだ。」
「でもぉ、今のうちに何とかしておかないと大変なことになるかもしれませんよ? ほら、せっかくこんなとこまで来たんだし、王国の能無しもついでに吹き飛ばしましょうよ。ほら、後顧の憂いを……」
「黙れ爆発女。さっさと帰れ。さもないと、お前を船の先端に括り付けてやるぞ。」
「……はぁーい。可愛くないおチビさんですね。」
まるで、親に叱られた娘のように口を尖らせて潮騒亭の出口に向かい、騎士を引き連れて出ていった。後に残った少年は店内を見回して、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「食事中、失礼した。僕達のことは忘れてくれたまえ。それと……」
少年の濁った灰色の眼がティルを捉えた。頭の先から爪先までを、まるで市場で目利きが魚に値段をつけるような目で睨み付けた。
「僕には知ったことではないが、そこのお前! お前もなかなかバカなやつだ。」
そして、ティルが何かを言い返そうとするまえにくるりと踵を返し、小さな体ながら大股に出ていってしまった。
嵐が襲い屋内を暴れまわった後のようで、静寂が潮騒亭を支配していた。客らは顔を見合わせたり、おびえた顔でそそくさと帰っていくのだった。
我に返ったティルは、未だに座り込んだペドを助け起こしに行こうとした。しかし彼の足も砕けそうになったが、何とか踏ん張った。ペドの顔は、水死体のように蒼白く唇は紫であった。ぶるぶると可哀想なほど震えている。
「おい! ペド、しっかりしろ! もう大丈夫だ!」
呼び掛けて肩を揺さぶると、深い悪夢から覚めたように体をぶるりと震わせた。
「あ、ぁ、ティルさん……あっしは、あっしはあの人の中を見ました。見せられました。目を閉じようにも出来なかった……戦が、剣が矢が炎が肉が血が……あんなもの見たくなかったのに……」
「ペド、落ち着け、深呼吸をしろ。大丈夫、すぐにでも寝てしまえ、俺もそうする。」
背中を誘ってやると幾分か顔は赤みを取り戻した。肩を貸すとよろよろと立ち上がって近くの客席に座り込んだ。まだ辛そうではあるが、それでもいくらかましになったようだった。
「も、もう大丈夫です。けれど、もう今日は店じまいしようと思います。ティルさん、女将を探してくれませんか?」
「あぁ、わかった。少し待っていてくれ。」
そうしてティルは階段を駆け上がって自分の部屋に急いだ。ドアノブに手をかけ、勢い良く開くと、彼を迎えたのは分厚い本の表紙だった。鈍い音を立てティルは鼻を押さえた。
「あれあれ、ティルだったわ! ごめんなさいね、少し妙な雰囲気だったから用心していたの!」
「いたた……いや、大丈夫ですよ。それが正解でしたから。」
部屋の中を見ると、あの少女がベッドに座っていた。落ち着いているように見えるが、金色の瞳にはまだ怯えがあった。
「大丈夫かい? どこか痛むか?」
少女は僅かに首を横に振るだけだった。代わりに女将が返事をする。
「軽い傷はあったけど、大事に至るものはないよ。それに、もうしっかり洗ったし、消毒もしたし包帯も巻いたから大丈夫だよ。」
見ると確かに汚れていた肌も拭かれていて、腕に軽く包帯が巻かれていた。また、銀髪にもしっかり櫛を入れられていて、また、緩く編まれている。服も今まで着ていた汚れていた白いワンピースではなく、華やかにフリルの付いた少女用のドレスだった。
「それで、下では何があったんだい? 降りようと思ったけど、とっても嫌な予感がしたから。」
女将の疑問に、ティルは事情を説明した。帝国の兵士達と皇帝の臣下を名乗るイリスという女。そして彼女らは、何の目的かはわからないが、銀髪の少女を探しているということを早口に説明すると、女将はベッドに座る少女をちらりと見た。
「……ティル、何でも屋さんよ。あんた、とんでもないことに首を突っ込んでしまったようだね。」
「それは自分でもそう思いますよ、女将さん。」
ティルと女将は2人してため息をついた。ティルは女将にペドの様子を話すと、女将は飛ぶように走っていった。部屋は沈黙に包まれた。ティルは近くの椅子に座って少女の様子を見た。もう逃げる素振りはせず、服の裾をしっかり掴んで足下を見ていた。ティルは声をかけようとして、今更ながら彼女の名前を聞いていないことに気づいた。
「なぁ、君、名前は何ていうのかい? 俺はティルっていうんだ。ティル=セスタだよ。」
少女はびくりと体を跳ねさせて、恐る恐るティルの顔を見た。そして、ぽつりと小さな声で言った。
「エニアス……です。その、助けてくれてありがとうございます……あとさっきは、その、ごめんなさい。」
あぁ、やっぱり、とティルは心の中で呟いた。エニアスを連れ去ろうとしていた兵士たちは帝国の手先であり、イリスと名乗る魔術師の口から得た情報と合わせ、彼らが捜しているのは、この少女であることは確実になった。
「そんな特別なことはしてないよ。酷い目にあっている人がいたら、助けずにはいられない性分でね。」
「……ありがとうございます。」
ティルはこれからのことを考えた。今日、彼らが退いたのは、時と運が良かっただけのように思えた。
明日か、それとも数時間もすればまたやって来るのではないか。ならば彼女を連れて逃げるべきか。いや、彼女をつき出してしまえば、またいつもの日々が戻るはずだ。そうすれば、ペドも女将も、そして自分も大変な目に遭うことはないはずだ。
(何を考えているんだ! そんな事出来るはずがないだろう!)
ティルは歯を食い縛った。エニアスがいなければ自分の顔を殴っていたことだろう。ティルは、自分に誰かを犠牲にしてまでも自分が助かりたい、という気持ちがあったことに驚き、そして自己嫌悪に陥った。少女の声によって、ティルは現実に引き戻された。
「あの、ティル……さん、お願いがあるんです。」
ティルが見たエニアスの金色の目は、固い決意に染まっていた。服を握り締める手は、さっき以上に固くなり震えている。そして、意を決したように目をいからせ、声を張りあげた。
「私を、私を神像へ連れていってください!」