プロローグ:逃亡
私のこの命は、取るに足りないものだとわかっている。
私のこの心は、詰まらないものだとわかっている。
私のこの体は、無意義で無価値なものだとわかっている。
私の存在自体、この世界という濁流の中では、折れて呑まれた細い枝先のようなものだ。深い海に漂う細かな生き物と変わらないのだ。
されど、だからこそ、私は届かない星に手を伸ばすのだ。深い穴の底を覗き込むのだ。
あぁ、私はただ、世界を平和にしたいだけ。この腕の中に眠る小さな命が、ただ幸せに生きる世界を作りたかっただけだった。
私は罪深い。もはや私は狂ってしまった。それが自覚できてしまう。守る為になどと言いながら、守るべきものを犠牲にすることを厭わなかった。
私は罪深い。許してくれ。赦してくれ。愚かな私を赦してくれ。
―――
「止まれ!」
「逃がすな! 捕まえろ!」
波のような、大勢が走る音が近づいてくる。怒鳴り声が聞こえてくる。されど、少女はそちらを見ることは出来なかった。彼の、痩けて骨ばった顔が見たことないほど必死の形相だったからだ。丸い眼鏡はずれてしまっている。
「いいか……いいか! エニアス、よく聞け! 逃げろ、逃げるんだ! まだお前は奴等に捕まるわけにはいかない。お前は行け! 希望はお前に託された!」
それを遮るように怒鳴り声がかけられた。
「ザドーム=エルムリク! 速やかに投降せよ! 即刻その者を引き渡せ!」
彼は怒りと悲しみに顔を歪めた。怒鳴り声には振り返らず少女を小型艇の操縦席に押し込み、自動操縦を起動させた。そして発進する前に彼は船から飛び降り、向かってくる兵士の大群に相対した。手には何もない。少女は彼を呼び止めようとしたが、その時船が勢い良く飛び出した。つんのめり、船の縁に掴まりながら叫ぶ。
「……っ! お父さん!」
激しい水とエンジンの音で、自らの声すら聞こえない。だが何度も叫ぶ。何度も何度も。兵士の群れに取り押さえられ、水しぶきにまみれてあっという間に小さくなる彼の背中に叫ぶ。もはやそうするしかなかった。泣いて叫ぶしかできなかった。
白い港が霞んで、蜃気楼のように遠い景色になるまで、少女は泣き続け、泣くことすら疲れて出来なくなってしまった。空はどんよりと曇っていて、少女の代わりに涙を流しそうであった。波を掻き分け進む小型艇は無情に彼女を何処か遠い場所に連れていくのだった。
力無く硬い床に座り込んだ。喉が渇いて、少女は背負った袋から水筒を取り出した。と、それにつられて何が落ちた。見るとそれはペンダントであった。円盤の中央に不思議な、赤とも青とも思える輝きを放つ石がはめられてあった。そして、吸い込まれるような底知れない不気味な感覚がした。
「これ、綺麗……」
言うが早いか、吸い込まれるように手が伸びて、それを指先で触れた。
その途端、石から目が眩むほどの光が溢れ出し、同時に発現した力の奔流は、少女の体に一直線に向かった。咄嗟に両腕を身を守る為にかざしたが、それを貫いて光が少女全身に流れ込んだ。衝撃も痛みもない。また船の音も水の音も聞こえない。ただ、暖かく優しく、そして力強い光に包まれた。
光が全て少女に吸収されると、あとに残ったのは目を見開き身を固くしている少女と、輝きを失った灰色の石だけだった。あっという間の出来事に固まったまま動くことが出来なかった。
「な、何……これ?」
恐る恐るペンダントに手を伸ばして手に取る。すると、石はポロリと容易く落ちて、船の床に落ちると粉々に砕けてしまった。そして、さらさらと砂に変わり、たちまち風に飛ばされていった。少女は石のついていた所の奥に、何か小さな紙が細く丸めて納められていることに気づいた。取り出して慎重に開くとそこにはもう会うこともないだろう父親の文字があった。
『世界の神像を巡れ。私の願いを、どうか叶えてくれ。』
短い文が2つあるだけだったが、少女の枯れた涙腺を再び潤すことができた。だが、今度は腕で強く目を擦って歯を食い縛った。そして、暗い曇り空を見上げた。痛いほどペンダントを握り、そして涙を拭った。
もう、あの堅くて優しい腕はないのだ。
「わ、わたしは、私はどうすれば……なんで私が……! なんでお父さんがっ!」
なぜ、どうして、そんな問いに答えるものはなかった。今彼女にあるのは、小さなカバンと父親の遺言、そして彼女の幼い体だけだ。
しかし、彼女は行かなければならなかった。少なくとも彼女はそう確信した。そして、彼女の内にまるでもう一人の何かの意志のようなものが芽生えたのを感じた。それはまだ眠っているようなかそけきものであったが、確かに感じられた。
彼女の金の瞳に力が宿った。背筋は伸び、風に流された銀の髪は輝いた。さっきまでの弱い少女は居なくなった。確固たる決意を胸に抱いた。父の言葉通りに、彼の願いを叶えるのだ。
「いきます……いきますっ! 私、行きますっ!」
彼女が叫ぶと船が海の上で跳ねた。その姿は飛び魚のようで、にわかに速度が増しその後ろにはきらきらと光が付きまとった。彼女はそれに気づくことはなかった。彼女の心は決まったのだ。幼くか弱い体には、鋼よりも強い意志があった。
―――
暗闇は蠢いた。のっそりと、ゆっくりと、伸びて、縮んで、また伸びて。それは、いや、彼女は目を覚ました。形のない彼女が、光のない目を開いた。にたりと口を歪ませて笑う。
"んゥ……匂いがすル。あいつの匂イ、あいつらの匂いだァ。ヒヒッ、あア、ようやくダ。本当に長かっタ、永かったなァ。ケケっ!"
暗闇は蠢く。波のように、風のように。永い眠りから覚めた彼女は動き始める。這いずる闇は誰の目にも留まらない。蠢く音は誰にも聞こえない。
"ケヒヒヒッ! さぁテ、行くか行くカ。楽しみだ楽しみダ!ケケケケッ!!"