第14項:朧に潜む肉食獣
シグレの頭痛がようやく治まりかけてきた頃、クゥは今まで軽快に羽ばたかせて翼をゆっくりと減速させ大きく緩やかに動かした。
これまでとは違う下へと降りるゆっくりとした動きだった。
シグレは何事かと思って下を覗き込む。
「着いたよ、シグレ。あれがアタシ達の故郷、朧の里」
イグサの言葉に耳を傾けながらもシグレが見詰める先にあったのは王都には一軒たりとも見当たらない和風の家だった。
殆どの家が木でできており、遠目からでも見えるのは人が引き戸を開けていたり井戸から水を汲む様子だった。
(何故だ…なんか懐かしい…)
見覚えがあるはずはないのに何故か懐かしさを感じてしまった。
シグレの家は洋式でその周辺も洋式の住宅だったので懐かしさを感じるはずはなかった。
しかし、何故か見覚えがある。
実に不可解であった。
「イグサ、私は先に行っておば様に着いた事、報告しとくわ。それじゃ、また後でね、シグレ君」
「あ、はい」
シグレが返事をするのと同時にカグヤはクゥの背中から飛び降りる。
見てみれば先程まで着ていた服と違っており、今はまさに忍者というべき忍び装束を身に纏っていた。
「カグヤ姉さんはあれでも里で五指に入るほどの実力なの。だから心配は無用よ」
「………」
別にこの高さから飛び降りる事自体にはなにも心配してはいなかった。
実質、シグレの周りにはこういった事をよくしている者も多かったのでその点に関しての驚愕の耐性は既についていた。
「クゥ、アタシの家の前に」
キュゥゥゥ、と甲高いクゥの鳴き声が返ってくると、ゆっくりと翼を動かしながら里の一番奥の川を跨いで橋が架かった先にある少し大きな家の手前に降りた。
「ありがとね」とイグサがクゥの頭を優しく撫でるとクゥは少し声をあげて再び大空へと舞い上がっていった。
それを見送るとイグサはクルリとこちらへ向き直る。
「それじゃ、行こっか」
そう言うとイグサはシグレの背中をグイッと押した。バランスを崩さないように俺はすぐに脚に力を入れて踏みとどまる。
イグサは動いていないことに気づくと、一生懸命にありとあらゆる体勢で俺を動かそうとしてくる。
しかし、その努力は無駄に終わる事となった。
「ちょっと…なんで動かないのよ」
「何で俺を先に行かせようとする」
「そりゃぁ……お客様だから」
「普通は逆だと思うが…まぁ、いい。先に行ってやるよ」
今まで必死で背中を押していたイグサの力に逆らわずに前に進むとイグサは思わずつんのめってしまった。
イグサの少しだけ恨むような視線を背中で受けながらも古い和風の引き戸に手をかける。
しかし、シグレの手はそれ以上動く事がなかった。
「…………」
「ちょっと、早くして」
「いや、なんか嫌な感じがしてな。…多分こっちだ」
そう言うと、シグレは今まで手をかけていた引き戸から手を離し、家の横側の壁をコンッと叩くとギーッと壁が動き、何かにゴンと当たると「痛っ!!」と声がしてきた。
シグレとイグサは回転した壁の隙間から家の中に入ると、そこには後頭部を両手で押さえて少し涙ぐんでいるイグサより小さい少女が座り込んでいた。
「あ、大丈夫か? 一人で立てるよな?」
「むぅ〜」
膝に手を置いて子供を見下ろすようにすると、少女は小さな唸り声を上げて不満の目を向けてきた。
不満の目を向けながらも少女は着ていた着物の袖で目をグシグシと擦って涙をふき取る。
「おお、泣かなかったな。偉い偉い」
そう言って頭を撫でてやる。
「私、大人です」
「そうかそうか。お前は大人だ、泣かなかったしな」
さらに頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
それが少しだけ心地よかったのか、少女は嬉しそうな顔をしたが、すぐにイグサをキッと睨む。
「イグサちゃん! シグレ君に扉の事教えたでしょ!」
「…教えてないわよ。シグレが自分から回避しただけよ」
「嘘っ! 忍者の家の罠に気づくなんてありえないっ!」
「本当よ。それとシグレ」
「んっ?」
満面の笑みで振り返るシグレに少し焦ったが、すぐさま落ち着いて言い放つ。
「それ、アタシの母さん」
「………」
しばしの沈黙が続く。その間もシグレの手は動き続けており、少女は嬉しそうな顔をしたりイグサを睨んだりと忙しそうだった。
「はぁっ!?」
シグレの素っ頓狂な声が家の中に響いた。
***
「紹介するわ。私の母さんと父さん」
シグレが通されたのは床一面が畳で覆われた客室だった。部屋の真ん中には見た事もない木で作られた長方形のテーブル。
俺とイグサが座る向かい側にはさっき俺が頭を撫でていた少女…もとい女性とモテそうな顔の物静かな男性だった。
それにしても何だこの状況は。これはまるで……アレみたいじゃないか。
「どうも、私がイグサの母で子供のサクヤ=ハーミレイです」
さっきの事を根に持ってなのか子供の部分が強調された嫌味に聞こえた。
撫でた時は嬉しそうだったのにな。
「それで、私がイグサの父のカムイ=ハーミレイだ。初めまして、シグレ君」
「あ、どうも。一応イグサの友人のシグレ=アマガサキです」
優しそうな物言いのカムイにシグレも丁寧に挨拶をする。しかし、挨拶が終わると途端に緩やかな顔は凛とした真剣な顔つきになる。
思わず、自分も真剣な顔つきになってしまう。
「なんだ、あいつ…」
「イグサが連れてきたんだってさ。何でも里の未来に関わるとか何とか…」
「マジッ?」
「それが大マジらしいぞ」
「イグサいいなぁ…。あんな人と一緒だなんて…」
「ホントよね〜。この里の男なんて頭領以外しょぼいもんね〜」
「「ズーン…」」
その会話に思わず緊張が解けてしまった。そんなギャラリーはお構いなしにイグサの両親は話を始めた。
「シグレ君。判子持ってるかな?」
突然の意外な質問に少し戸惑ったが、すぐに返事を返す。
「いえ、持ってませんが…」
「じゃぁ、拇印でいいわね、カムイ」
「ああ」
一体彼らが何の話をしているか、シグレは分からなかった。判子や拇印の事だったのでサインかなんかだろうと思った。
「じゃぁ、シグレ君」
「はい」
返事をするとサクヤはスススッとシグレの方に寄ってきて、腕と親指を掴み、ゆっくりとカムイが持つ朱肉に親指を押し付けると、どこからか紙を取り出してバッと押し付けた!
当然の出来事にシグレは瞬間的に腕に力を入れて方向を逸らす。
シグレの親指は木のテーブルにゴキッと衝突した。
「な、なにするんですか!?」
「ちっ……」
「なんで舌打ち!?」
サクヤの腹黒さを垣間見たような気がしたシグレはたった今、カムイの手の中にある一枚の紙に目を向ける。
そして、その紙には驚愕の内容が書かれていた。
『婚姻届』と。
「………」
唖然としながらも他の部分に目を通すと、自分の名やイグサの名があった。
バッとイグサの方へと振り返ると少し顔を赤らめて耳を伏せていた。
「そ、それって…」
頭の中では婚姻届と分かっていても混乱していたのか言葉が出てしまっていた。
「そう、これはあなたとイグサの婚姻届♪」
「・・・(コクリ)」
とても嬉しそうにするサクヤの隣で静かにカムイが腕組みをしながら頷く。
マズイ状況だと一瞬でシグレは悟る。
「なんで…婚姻届なんですか?」
「知らないの? 結婚するためよ」
「忍者が市役所に持っていくんですか?」
「そう。これを市役所に出して初めて結婚が認められるの」
「忍者が市役所?」
「市役所に出さないと意味ないでしょ?」
駄目だ。やっぱりこの世界は非常識だった。
とは言っても、元の世界の常識がこの世界の常識ではないのだが。
それでも忍者がわざわざ市役所に婚姻届を出しに行くなんてかなり違和感を感じる。
「何で俺とイグサが?」
とにかく問題の核を突いてみた。
「より強い男性と子供を作ればより強い子孫が生まれるから。多分、この里の独身の男達よりはあなたのほうが強いから」
より強い子孫の繁栄。忍という職業柄のせいか、そういった事には拘るんだろう。
それに加えて、獣人という人に獣の能力があるからかもしれない。
獣もより強い子孫の繁栄を本能としているのだから。
「俺に拒否権は?」
「なし♪」
人差し指をピンと立て、笑いながら嬉しそうに俺を地獄に叩き落した。
「だって、跡継ぎがいないと困るわけだし…イグサを弱い奴に渡したくないし〜」
「情報によればシグレ君はゼルガドの兵士を殲滅したと言う話じゃないか。ならば里を引っ張ってゆく者としては十分欲しい人材だ」
一方的に話すサクヤとは別にカムイはボソッと呟く。
とどのつまり、俺に忍びの里の頭領になれというわけであって、イグサと結婚しろということであって…。
しばらく考えた末にもう一つの疑問が浮かび上がってきた。
キリッとした顔つきでサクヤとカムイに向かい合うと、二人ともシグレの顔つきに何かあると感じたのか真面目な顔になる。
「一つ質問いいですか?」
「何かな、シグレ君」
意外かな、サクヤさんではなくカムイさんが返答してきた。
とりあえず、それは置いておいて…。
「何故、俺なんですか」
「…どういう意味だい」
カムイさんの凛と張り詰めていた空気がさらに強く張り詰めてヒシヒシと伝わってくる。
つまりは、俺の質問はこの結婚の核心を突いているということだ。
カムイさんの威圧のような気にも気圧されずに俺は話を続ける。
「この里の男性より強い、という理由だけならわざわざ俺を選ぶ理由にはならない。いくらゼルガドの兵士を殲滅したからと言ってもそれは仲間とした事というのは知っているはずでしょう?」
「…………」
「…………」
カムイさんとサクヤさんの顔がずっとこちらを見詰めてきている。
それに臆してしまえば俺の負け。目を逸らしたり、イグサの方へ向いてしまえば負けになってしまう。
「それでも、俺より強い人はいくらでもいるはずだ。貴方達は忍者なのだから情報収集力でいえばトップクラスになるはず。探し出せないはずはない。それなのに俺を選ぶ理由は……」
「君がイグサと親しかったからよ?」
口元は笑ってはいるが目が全然笑っていないサクヤが低めの声で言う。
「いや、違うでしょう。俺とイグサが初めて会ってからそんなに時間は空いてない。一ヶ月も経っていないはずだ。つまり、親密な関係かどうかは関係ない」
何故自分がこんなにもスラスラと言葉を出せるのか不思議にさえ思ってしまった。
今まで、こんなに明確な意思表示をした覚えがない。
何に対しても軽く受け流す程度だったはずの俺が、次々と泉から湧き上がる清水のような言葉を繋げて発言するなどありえなかった。
この世界に来て俺は変わったんだろうか。
そんな事を考えながらさらに話を続ける。
「ならば、俺を選ぶ理由は強さと親しさを除いた何かになる。ということはだ……」
一拍置いてカムイさんとサクヤさんの目を見詰める。
カムイさんの黄色い目は野生の肉食獣を思わせ、サクヤの目はイグサの目を思い出させる。
そして、俺は言い切った。
「貴方達は、俺が知らない何かを知っている。俺だけにあって他にはない特別な、何かを」
子孫繁栄のための強さや親密さを除いて、そこまで結婚しようとする理由。
何か他に目的があるからだ。例えば、玉の輿とか…。
つまり、俺にはそういった何かがある。
ざわざわざわ…
シーンとする客室に聞こえてくるのは外にある木の枝の上でこちらを見ているギャラリーのざわめきだった。
ちらりと横目で見てみると先程より明らかに増えている。暇人か! あんた達忍者だろっ!
少しの間、またしても沈黙が続いたがシグレはこの間が異様に長く感じた。
沈黙を破ったのは、イグサの母、サクヤだった。
「頭の良い子供って時々、本当にイラッと来るのよね……」
サクヤの今までにない怒気を秘めた言葉にシグレは唖然としてしまった。
まるで、何もない草原の真っ只中で肉食獣と対峙した時のような恐怖感が襲ってきた。
今、思い返してみればこの二人も獣人のはず。だとすれば……。
「ほんっとにあいつそっくりで嫌になるの。その自分の意思表示の仕方とか、相手の隠し事を見破る目聡さとか…」
少しずつ声が低くなっていくサクヤの背中からは真っ黒で細い尻尾がユラユラと揺れていた。
目はイグサと似ていたものの、その尻尾と耳、そして自分の髪とはまた違う黒の長髪を見て俺は悟った。
サクヤは黒豹の獣人だと。
すぐさま視線をカムイに向けると、彼の尻尾もまた揺れていた。
サクヤより太い尻尾は黄色と黒の縞模様で、耳もまた同じ模様だ。
(カムイさんは…なんだろうか。髪は黒だしな…って…!?)
カムイの髪に視線を向けて、何の獣人だろうと考えていたもののカムイは草食動物の獣人ではないだろうかとシグレは淡い期待を抱いていた。
しかし、カムイの後ろのほうで揺れる髪を見てその期待は一瞬で砕かれてしまった。
カムイの後ろのほうで揺れていたのは、周りの髪と同じ長さだが金色の髪が結われた一房の髪だった。
カムイは全体が黒のショートだが、ちょうど前からは見えない部分が金色だったのだ。
そして、何故かそこだけ結われている。それは人それぞれなのだが。
(多分、カムイさんは…虎)
豹やライオンと並ぶ肉食獣の代表だった。
もはや絶望しか頭の中には生まれてこなかった。
「ねぇ、シグレ君」
「は、はいっ」
低い声のままで自分の名前を呼ばれ、少しばかり声が裏返ってしまった。
サクヤは獲物を狙う目でシグレを見つめながら話す。
「ウチのイグサはちょっと乱暴で短気なとこもあるけど……器量はそこらへんの娘より良いし、家事全般得意で母性本能溢れてるの。だから…結婚してくれないかな?」
「え、えっと……」
優しくサクヤは言ったつもりなのだろうが、声はさらに低くなっておりシグレは恐怖を募らせるばかりだった。
冷や汗が流れ、今にも襲われそうな緊張と恐怖の空気の中、脳をフル回転させ、解決策を必死で探していた。
「ねぇ、どうなの。シグレ君」
「………」
言葉と視線で攻めてくるサクヤさんと視線と覇気で攻めてくるカムイさんに俺はもはや抵抗する術が思い浮かばずにただ沈黙を通すことしか出来なかった。
キミレキ豆知識:シグレは案外子供好き。
注意)キミレキとは「君と創る歴史」と略したものです。
決して怪しげな言葉ではありません。