第四話 異世界で 桜 を胸に思う人
――これは僕の悪い癖だ。
あまりの衝撃を受けると、ついゲーム的な幻視をしてしまう。
さすがに、突然目の前に何の脈絡もなく本来はない景観が現れるなんて、いくらなんでも魔法を使いでもしない限りはない。
……あ、でもここが異世界なら魔法はあるのか?
正確には、それだけの幻視をしてしまう程に、獣耳大正メイドさんが最上級の笑顔で僕を見ていたのだ。
その、両手の指先を口元で合わせる仕草は可憐で、こちらに向けられた純粋な笑顔はとてつもなく眩しい。
思わず意識を幻想の彼方にぶん投げたくなるのも仕方がないと思う。
それにしても、トゥーチャ達と言い初対面の得体の知れないだろう相手に、何だかやけに好意的な振る舞いを見せる。
この世界の人は皆そう言う気質なのだろうか?
それとも知らずの内に、僕が何かこの世界の人を喜ばせる所作をしているとか?
異世界なのだから仕方がないとは思うけど、謎が謎を呼んで、最早僕の思考が謎でどうしようもなくなっている。
思考の深みに嵌ろうとしている僕の前に、控えめな靴音を立て、いつの間にか獣耳大正メイドさんが近付いていた。
「初めまして、異なる世界よりの来訪者さま。私は日本コミュニティ保護監督官、八城 桜 ファラウエアと申します。ようこそ、お越し下さいました」
姿勢を正し、両手を前に揃え、丁寧にお辞儀をする獣耳大正メイドさん。
……何て? 何だかやけに流暢な日本語で、彼女が口にした名前はとても馴染みのある和風なものに聞こえた。
頭を上げても、やはり変わらない微笑の獣耳大正メイドのヤツシロさん?
耳と尻尾と同じ色の、ショコラブラウンの緩くウェーブを描くロブヘアはしっとりとした光沢を放ち、大正メイド然とした瀟洒な佇まいは見惚れる程に美しい。
そして、その微笑を浮かべる顔立ちは優しく整っていて、僕を見る瞳には上衣と同じ桜色が淡く色付いている。
美人に見詰められると言うのは悪い気分ではないのだけど、どうしても目が泳いでしまう。
何が嬉しいのか尻尾も大きく揺れているので、歓迎されていると思っても良いのだろう。
僕が堪え切れなくなる前に次に行って欲しい所だけど、変わらず微笑のままに見詰め続けられる。
何だ? 何かを待っているのか?
僕の視線と同じ高さには、興味ありげな様子の獣耳がピンと立っている……あ、
「は、初めまして。僕の名前は久坂 灰人と言います。えーと……ヤツシロさん?」
ハイトでもハイジンでもない“カイト”だ。
「はい! カイトさん! 私の事は“サクラ”とお呼び下さい!」
僕の勘違いでもなく、本当に嬉しそうだ。満面の笑顔が眩しい。
「わかった、じゃ、じゃあサクラ、色々と聞きたい事があるのだけど……」
思わず素直に従って呼び捨てにしたのは良いけど微妙に照れくさい。美人だから、と言うのが影響しているのは間違いない。
まあ、日本語が通じるのであれば今まで聞けなかった事も聞けるのだろう。
それは何故か、と言うのも含めて説明が欲しい。
「はい、ここでは何なので、落ち着ける場所に移動してからお話しましょう。質問も、その時で構いませんか?」
「うん、わかった。ありがとう」
パァーッ! とまた花が咲く。
あわわわわ、この娘心臓に悪い。僕の一挙手一投足で本当に嬉しそうな反応を見せる。見てるこっちのドギマギがマッハで稼動限界突破しそう。そう言う戦術でもあるの?
どうなっているんだこの世界は……。
部屋から出て、先程見えた広い空間へと向かう。
そこはちょっとした広間のようになっていて、周囲では衛兵や冒険者と言った風体の者達が雑談や準備に忙しなく動き回っていた。
その様子に若干気後れしながらも、少し前を歩くサクラの後を付いて行く。
広間に入った途端、僕に向けられる視線。
喧騒は鳴りを潜め、気持ち悪いくらいの静寂に僕とサクラの靴音だけが響く。
これは、異世界なりの洗礼って奴が来るのか……と思っていたら、何故か拍手された。通りすがりに何事か話し掛けれられるけど、意味がわからない。
「ふふっ、皆さん、カイトさんの事を歓迎していますよ」
うん? どう言う事だろう?
『はっはー! 大変だったな! 良く来たな歓迎するぜ!』
みたいな意味だろうか。
普通新参って言ったら、良くも悪くもちょっかいを掛けられるものだと思うのだけど。それが良い方向に振り切ってるって事かな?
先程から『どうなっているんだこの世界は……』しか言葉が出て来ない、本当に。
そんな想定外の歓待を抜けた広間の奥には、幅の広い階段があった。
……ただし、その長さが異常だ。階段の下で呆然とする僕。
見上げると尋常じゃない段数。数十メートルとかそう言うレベルではない、数百メートルだ。まじか。せめて千メートル以上はないと言う確約が欲しい。
脳内で雷おやじも真っ青なレベルで、勢い良くちゃぶ台を引っくり返して嘆く。
「大丈夫ですか? お疲れかと思いますが、ここを抜けてもらうより他にはないのです」
心配そうな表情を浮かべ、僕の背に手を回し寄り添ってくれるサクラ。
「大丈夫、行こうか」
大丈夫だ、問題ない。(キリッ)
背後から『そんな装備で――』と言う幻聴が聞こえて来るけど、僕は揺るぎない足取りで階段を上り始めた。
そう、確かに言った。『報いがあるなら頑張る』と。
――五分後、膝が笑う。
うわー! 一番良い装備を頼むー!
サクラが支えてくれるので、情けないとは思いつつもゆるゆると上り続ける。
会話があった方が気が紛れるので、直近で一番気になった事を質問してみる事にした。
「その、サクラはやけに流暢な日本語を話すけど、何でか聞いても良い? 名前も凄く馴染みがあるし」
「はい、何からお話しましょうか……既にお気付きかも知れませんが、この世界、いえ、この場所【重積層迷宮都市ラトレイア】には、異世界“地球”の人々が、“来訪者”として何百年もの昔から迷い込んで来られるのです」
なん……だと……!?
「つまり僕以外にも?」
トゥーチャ達との一連のやり取りで、その可能性には思い至っていた。やけにスムーズだったからね。
それに“重積層迷宮都市”か……しれっと魅惑ワードが出て来たな。
「はい、現在はカイトさんも含めると日本の方は九名いらっしゃいます。“地球人”となると、確認出来ているだけでも六十七名……あ、二ヶ月程前にも保護された方が居るので、現在は六十八名ですね」
はぁー? 予想していた以上に多かった。
『確認出来ているだけで』と言っているので、更に居ると言う事なのかも知れない。
要するに、僕と同じように迷宮内に転移して来るとなると……僕は自分が相当運が良かったのだと気付き、若干脚が震える。
「……と言う事は、サクラは日本人に言葉を習ったとかなのかな。名前も日本人に?」
「はい、そんな所ですが、私は祖父が日本人なのです」
……ここに来てからあまりに驚き過ぎる事ばかりなのでもう驚きません。いえ、驚きました。
どなたか存じ上げませぬが、サクラのお爺さまグッジョブです! 僕達が易々とは成し遂げられぬ偉業を何年、何十年も昔に成し遂げていらして小生感涙の極みであります!
……取り乱しました。
「ですから、名前も、言葉も、祖父からですね。日本の事も祖父から沢山教わりました。祖父に教わって、お茶を入れるのも得意なんですよ。本物の日本茶を手に入れる事は出来ませんが……」
おや、嬉しそうに話す彼女からは、本当に祖父の事が大好きなのだと言う気持ちが伝わって来る。だけど、言葉尻になりその表情に少し憂いが混じるのを見逃さなかった。
これは、日本茶が手に入らないと言うよりも、ひょっとしたらだけどお爺さんはもう……さすがにこれ以上は無粋だ。
お茶を濁すと言う訳ではないけど、その瞳の色と名前を聞いた時から思い至っていた事を口にする。
「じゃあ、きっとお爺さんは、その桜色の瞳を見たから名付けたんだな、“桜”って」
「はい!」
一転、心の底から嬉しそうに返事をする。
何となく彼女と祖父の関係が目に見えるようだ。きっと理想的な祖父と孫だったのだろうと、微笑ましく思う。
「でも私、お爺ちゃ……祖父の話の中でしか桜を知らないんです。変ですよね、自分の名前なのに」
えへへ、と困ったように笑う彼女は、ここではないどこか遠くを望んでいる。
恐らく、祖父の話の中にしかない、日本に咲く桜を思い起こしているのだろう。
ふーむ……なるほどな。
彼女の反応から、自分の名前がとても大切なものだと言うのも良くわかった。
だけど、自分の名前の由来を言葉や話の中でしか感じられないと言うのは、どうしたって思う所が出て来てしまうのだろう。
それが、大切なものであればある程に。
何とかしてあげたいけど……そこまで考えて、ふと思い出す事があった。
僕は、おもむろに懐からスマートフォンを取り出すと、フォトライブラリを開き目的のものを探し始めた。
「それは……携帯電話、ですか?」
「うん? 似たようなものかな。携帯電話あるの?」
「この世界に、と言う意味でしたらありませんが、来訪者の方が持ち込んだものでしたら私もいくつか見た事があります。そのような大きな画面で、その、そんなに鮮やかな色彩のものは始めて見ました」
当たり前だけど、つまりある種のオーバーテクノロジーとなる訳か。見せても大丈夫なのだろうか。
興味津々と言う様子の彼女を見て、それでも今だけは、と覚悟を決める。
……あった。
サムネイルをタップし画面一杯に表示させると、それを彼女に向ける。
当惑する様子のサクラ。
一度、二度、と僕とスマートフォンの画面を二度見し、いや、三度見して最終的に僕の顔を見る。
「本物、と言う訳にはいかないけど、これが桜だよ」
それは、観光地や名所にある誰をも魅了する桜――そんなものではなく、ただ昔から在るがままに根付く道端の桜を、通りすがりに見上げて撮ったものだ。
一年前、当事既に仕事で疲弊し、覚束ない足取りで道を歩いていた僕には、その桜が酷く眩しいものに見えていた。
サクラは今一度、スマートフォンの画面に咲く桜に視線を落とす。
その瞳には大粒の涙。
あわわわわわわ、だよね、そうなるよね。
どう見ても“道端で女性を泣かせている男”の図式が成り立ち慌てて当たりを見回すも、長い階段の中程のここには今は人が居ない。
良かった、衛兵でも呼ばれたら堪ったものではない。あいつら下手したら不死属性が付いて……付いていないか。今は静かにしていよう。
ひとしきり食い入るように、桜を見ていた彼女が涙を拭おうとするのを見計らってハンカチを差し出す。
律儀に持って来ておいて良かった。別に気取りたい訳じゃないのだけど、キザ過ぎて自分でやっておいて恥ずかしい。
申し訳なさそうに、それでも素直に受け取ったサクラは涙を拭う。
「あの……ありがとう御座います。これが桜なんですね。胸がいっぱいで、何と言ったら良いのかわかりませんが、祖父が『桜を愛でる』と言っていた気持ちがようやくわかりました。その、本当に、ありがとう……御座……います」
うわー、また泣いちゃった。
「失礼しました」
気を取り直した彼女と共に再び階段を上っている。
問題ありませんよ。美しい女性の涙程うんたらかんたら……。
「うーん、プリントアウト出来れば良いのだけど、さすがにプリンター持ち込んでる地球人とかいないよね?」
「ぷり……?」
「あー、と、印刷機? ない?」
「活版印刷でしたら。それでは駄目ですよね?」
「駄目だろうなあ、充電器やケーブルもあるとは思えないし……」
「でしたら作りましょう!」
なっ!? こ、これは伝説の“ぞいポーズ”! 胸の前で拳を握り締め、己の強い意気を表情で表す。
この娘、簡単に言ってくれる……。そして近い。
鼻と鼻とがくっつきそうな程眼前に迫ったサクラを宥める。
最初の瀟洒な雰囲気はどこへやら、意外とお茶目さんなのかも知れない。
ここに来て何度目だろう、無作法に肌を撫でて行く冷たい空気の流れを感じる。今までよりも幾分か澄んだ新鮮さ。
足元とサクラの方ばかりを見ていたので気が付かなかった。
視線を上げると、今直ぐにも届きそうな、いや、届く距離に大きな開口部があった。
「外……なのか?」
「はい!」
サクラも嬉しそうに返事をする。
長かった。
ゲームをしていると、もっと長い時間があっと言う間に過ぎると言うのに。
ここ、何と言ったっけ……【重積層迷宮都市ラトレイア】、この中で過ごした時間は本当に長く感じられた。
外、だ。
涼やかな大気を感じられる。
僕は確かな足取りで、最後の階段を踏み締めた。




