第二話 死にゲーではない そう思っていた時期が僕にもありました
小路に入り、スマートフォンのライトを点ける。
幸いな事に普通に暗かっただけのようで、内部は何の変哲もない通路だった。
ダンジョンRPGで良くあるダークゾーンのトラップを連想して、どうやら少し神経質になっていたのかも知れない。
内部は狭く、人二人が何とか擦れ違う事の出来る幅と、天井は手が付く程に低い。石造りな事は変わらない。
変わった事と言えば、足元が路の中央に向かい傾斜している事くらいだ。路の中央には溝があり水路を思わせるけど、水は流れてはいない。
ライトが届く範囲以外は暗闇で、この路がどこまで続いているのかを確認する事は出来ない。
壁に触れると湿り気を帯びている事に気が付く。
奥からは冷たい空気と水の匂い。
「頼む、水だけで良いからあってくれ……もう喉がカラカラなんだ」
地下街には水気がなかった。大気も乾燥していたし、自宅に居た時から考えても、もう三、四時間は水分を取っていない。
ひりつくような喉の乾きは時間と共に増して行た。
僕は、ゲームで周回や縛りプレイをする時以外は万全を尽くしたいタイプだ。
それなのに“水の匂いがする”と言うだけで、確証もない水があるかも知れないと言う一縷の望みに向かってしまっている。
本来ならこれは警戒するべきだ、水飲み場と言うのは大抵“良い思い出がない”。
罠だよなあ……これ。宝箱の前に、トラップ設置しておくのは定石だよなあ。
◆◆◆◆
……長い。長い道のりを無言で歩き続ける。
ここまで一度も振り返る事はしていないし、したくはない。
どれだけ歩き続けたのか、背後を望めば恐らく入口はもう見えないだろう。
しかし振り返る事は出来ない。自分の妄想力が振り返る事を拒んでいるからだ。
進む先と同じく、背後もまた“闇”だ。
その中に何かが居る、そんな妄想が自分で自分自身のSAN値を削っている。
だた“暗い”と言う事が、こんなにも人の正気を失わせるものなのか。
今直ぐに戻りたい……帰りたい……。
……本当に長い。
暗闇を照らすライトは酷く細い命綱だ。
バッテリーが切れた瞬間に、この“闇”の中に取り残される事を考えると足が竦んでしまう。
『進むも地獄、退くも地獄』とはこう言う事か。
正解のわからない道程を、自分の選択のみを頼りに歩く不安定さ。
進みたくない。戻りたくない。もう歩きたくない。
見えない先が、何とも怖い。
反響する靴音は、反響した分だけ幾重にもなり耳朶を打つ。
それは自分が発したものなのか、別の誰かが発したものなのか。
そしてそれは、何者かに追い掛けられる錯覚に変わった。
走り出す。
壁を擦り、血が滲む事も厭わずに。
“深闇”の中を、ただ全力で
走った――
――途端、足場が失われた。
――踏み外した訳ではない。天地が失われ、石造りの世界そのものが消えた。
――音は遠ざかり、ライトの明かりはどこにも届かない。
――上下も左右もわからない、全ての感覚が遮断された、“黒”が支配する空間。
――黒いのに眩しい。
――そんな、意味のわからない感覚に、僕は目を閉じる事しか出来なかった。
……足裏に地面を感じる。
一瞬だったような、長い間眠っていたような、そんな朧気な意識の中で僕はゆっくりと目を開けた。
「はあ?」
目を開けて真っ先に感じた事は“広い”だ。
先程までの狭く暗い小路ではない。
戦車が通れる程に幅の広い廊下の真ん中に僕は居た。
理解が追い付かないけど、こちらの都合なんてお構いなしにまたどこか別の場所に飛ばされたのだろう。
……深呼吸をする。
いつの間にか、嬉しくない限界突破をしそうになっていた気持ちは落ち着いていた。
「……テレポーターでも踏んだのか? いしのなか、じゃなくて良かった」
何にしても、あの暗闇から出られたのは助かった。
時刻を確認する。狙い定めたように正午だ。
「嘘……だろ? そんなに歩いていたか?」
都合六時間近くも小路を歩いていた事になる。
確かに長く歩き続けていたけど、そこまでの意識はなかった。
ひり付く喉は酷くなっているし、空腹はキリキリと胃を刺激する、確かに相応の時間は経っていそうだ。一先ずここで休憩しよう。少しだろうと体力を持たせなければならない。
腰を下ろし、座ったままに周囲を見回すけど、当然のように口に出来るものは見当たらない。
「はぁ……さっきまでの水の匂いの元はどこに行ったんだ」
今までの場所に比べ、比較的明るい事だけは安堵出来る。
自分の体力を考えたら、限界が近い事には変わりはないのだろうけど。
今居る場所は、その無骨さから砦を思わせる。
幅の広い廊下に、壁は切り揃えられた石材が交互に積み重なり、天井までは少なく見積もっても二十メートルはある。
少し高い位置に、大きな開口部が一定に配され光を差し入れていた。外……ではないな、青白く揺らめいているので、奥にはお馴染みの青白い炎があるのだろう。
廊下の先は見えない。暗いとかではなくカーブしているからだ。
この何だかわからない建造物はやはり円を描いているのかも知れない。
◆◆◆◆
「落ち着いたのは良いのだけど、やっぱり行きたくはないんだよなあ……」
実は初めから、この廊下に出た時からずっと音が響いているのだ。
人の出す音――だったのなら、喜び勇んで駆け出していたのかも知れない。
その音は何と言うか、硬質な打撃音と言うか、工業機械の作動音と言うか、機械的な一定の間隔を守り鳴り続けている。何にしても禄でもない予感しかしない。
勿論正しい判断をするのなら、“危険を感じたら近付かない”が普段の僕の現実世界での行動方針ではある。
だけど、ここに至る道程で何らかの意図を感じ取ってしまっているので、結局確認する事にはなるのだろうなと直感が訴えていた。ゲーマー的な。
落ち着かせた腰を上げ、音が聞こえる方へとよろよろ歩き出す。
廊下には絵画とか、柱とか、壁のちょっとした窪みとかないのは幸いだ。
僕のゲーム史上最大のトラウマの、絵画から飛び出して来たアイツだけは絶対に許さない。絶対にだ!
過去に遭遇した何かを思い出しながら、隠れるような場所もない廊下を進む。
所々に天井や壁が剥落した瓦礫があるくらいで、今の所は凄く歩き易い。精神的にも。
◆◆◆◆
音の正体はそう遠くはない所に居た。
少し影になった場所で、一心不乱に壁を殴っている。
既に壁には大きな穴が開いているけど、一体どんな執着がそれをさせているのか。いや、執着なんてものではないのかも知れない。
何故ならそれを、一言で説明するなら“重量逆関節二脚”だ。男の浪漫過ぎる。
それは、膝の部分の関節が逆に折れ曲がり、円筒形のずんぐりとした胴体を持つ工業機械を思わせるロボットだった。
大きさは三メートル弱、胴体下部には腕が左右に二本、胴体を大きく振りその勢いで壁を殴り付けている。
どこか妙な違和感を覚えつつも、ゲームの中でも散々憧れた浪漫を目の当たりに、いつの間にか僕は警戒する事を忘れてしまっていた。
目が合う。
目がどこか、と言うのは察するしかないけど、円筒形上部に青白く光る溝があり、突然壁を殴るのを止めて胴体ごと勢い良くこちらを向いたのだ。
目が合った、かどうかは別として、こちらに気付いたのは間違いない。
彼我の距離は三メートルもない。無意識に接近してしまっていた。
これは――愚行だ。
思わず後ずさる。
僕の動きに合わせて、ロボットは軋む音を立てながら一歩踏み込む。
後ずさる、踏み込む。
後ずさる、踏み込む。
やがて、影から出て来たそれは、光の中にその全貌を晒す。
……これは、まずい。
緑色の塗装は所々が剥がれ落ちている。地の金属だろう部分は赤茶けた露出を見せ、長年手入れされていない事を思わせる。
巨体を揺する度に、錆びた鉄が擦る軋み音に混じり粘性の高い水音も聞こえる。
……これは、男の浪漫とかで興味を持って良い類のものではなかった。
装甲の隙間から“異形”が見える。
今まで影になって見えなかった部分には、“肉”を思わせる赤黒い有機的な物体が纏わり付いている。“肉”は装甲の隙間と言う隙間から溢れ、フレームを通じ腕や脚の先までを侵蝕し、血だか油だか判別出来ないどす黒い液体が全身を汚す。
『ゴボッ、ブヂュッジュシュー』
醜く濁り、詰まった排気音と共に得体の知れない黒液を垂らし、充満する異臭は涙を滲ませる程に鼻を突く。
「腐ってやがる……早過ぎたんだ」
大丈夫、大丈夫、まだ冗談が言えるなら大丈夫だ。
異形が、不気味なオブジェクトと化した歪な腕をこちらに伸ばして来る。
それは何かをしようとするにはあまりに緩慢で、軽くステップを踏むだけで避けられた。
伸ばす腕の先で、三本の太い指がギシャンギシャンと嫌な音を立てる。
捕まえようとしている……?
それは、正直簡便願いたい。
捕まった後の事まで考えて、僕は迅速な回れ右の後全力で走り出した。
“ゲームは体力も必要”は僕の持論だ。
入院するまでにくたびれた身体は、それからの半年間の入念な筋トレとストレッチでそれなりに回復はしている。
でもやはり、普段する事のない運動と言うのは、こう言う時にどうしようもなく身体を軋ませる。
何か走り出した早々に身体が痛い。それでも僕は走るのを止めない。
瓦礫はハードル飛びの要領で越え、着地に失敗しては転び、その勢いのままに前転して身体を起こし、再び走る。
決して止まれない、失速はそのまま“GAME END”を連想させるからだ。
背後からは、見掛け以上に回転の速い足音と、何かを振り撒く水音が決して離れようとはしない。
時折背を撫でる感触に、今は振り返る事すらも致命傷になるのだと、僕の擦り切れた思考は理解する。
異形は転がる瓦礫を物ともしない。邪魔なものは全て薙ぎ倒し、蹴り飛ばし、砕かれ、飛礫となって僕の肌を服の上から削ぐ。
もう余裕なんてなかった。
拳大の瓦礫が頭に当たっただけで僕は終わるのだ。
瓦礫に頭を砕かれるのが早いか、力尽きて異形に轢き殺されるのが早いか、結局理不尽に終わるだけじゃないか。
限界だった――
「訳もわからずにこんな所で終われるかああああああああっ!」
叫んだ。
「オオオオオオオオオオオオオオオオッッ!」
それに呼応する何者か。
前方から、廊下の先から駆けて来る何者かが目に入った。
先頭には、青銀に鈍く輝くフルプレートアーマーを纏った巨躯が、石床を踏み割りながらこちらに向かっている。前面に構える大盾は、その体躯と変わらない程に大きい。
その背後には、何事かを叫びながら大きく手招きをする青年が見える。
周囲の景色が酷くゆっくりと流れ始める。
転びそうになる身体を踏み込む事で支え、バランスを失い、失速した事で届きそうになる異形の腕を更に姿勢を低くして避ける。
見えている――限界を超えた思考は加速し、時間さえも圧縮する。
度重なる全力に痛む筋肉に最後の活を入れ、全身をバネにして強く地面を蹴る。
彼等が何者であれ、今は悪魔だろうと縋るより他に選択肢なんてない。
駆ける、がむしゃらに、肉が削がれようと辿り着かなければならない、でなければ――
そうだ、初めから選択肢なんて――
青銀の鎧を纏う騎士が、鋼弾の勢いで脇を抜ける。
吹き飛ばされそうな程の風圧が身体を薙ぎ、鋼弾は衰えぬ速度のまま異形を圧殺しようと肉薄する。
鉄塊が拉げる轟音が大気を震わせた。




