第十七話 ――灰を抱く者
リシィが倒れている。
目の前の血溜まりに、リシィが倒れている。
視線を巡らす。
何が起きたのか――血溜まりの少女と、路面に倒れている自分。
硬い石畳を穿つ鉄針が目に入る、撃たれたのだ。
砲兵に視線をやると、建物を破壊しながらその巨体を揺らし、長い脚を一歩こちらに向けて踏み込んでいた。
……逃げなくては。
身体を起こそうとする、途端全身を駆ける激痛に、上手く起こせなかった身体は再び石畳を打つ。
「痛っ――! 何だって……」
その時になって初めて、僕は痛みの正体に気が付いた――右脚の肉が抉られている事に。
「ああああああああああああっっぐっうううう……クッ……ソ!」
激痛は全身を駆け巡り、どこが痛いのか、と言う感覚さえも麻痺させる。
このままでは――
路面を這い、血の筋を残し、リシィの元へと辿り着く。
初めて出会った夜、月光と交じり融けてしまっているのではないかと錯覚した金糸の髪は、今は血に汚れ肌に張り付いていた。
全身を侵す痛みに堪えリシィを抱えようとするけど、力の入らない身体は彼女の軽い上体を上手く起こす事もままならない。
『逃げ……て……』
リシィが、視線の定まらない瞳で僕に言う。
僕は、わかっていなかった。
労働者に襲われた時ですら、どこかディスプレイの外で第三者としてコントローラーを握っている。そんな感覚だった。
今、本当の“死”と言う現実に陥れられて、ようやく僕は愚かにも気が付いた――
これはゲームではない。
涙が滲む。
僕は、ゲームの中の選ばれた勇者でも、未踏の地へ果敢に挑む冒険者でも、ましてや善を成し悪を滅する“正義の味方”でもなかったのだ。
なれないのが悔しい訳ではない。僕は、何もかもを覆せる力も何も持たないただの一般人で、
何も出来ない事が、酷く悔しい――
大気を薙ぎ払う衝撃が右半身の傍らを抜ける。
辛うじて両腕を付き姿勢を保とうとするも、足りない身体はリシィの上に覆い被さる形になってしまった。
揺さぶられた視線の先には、路面を転がる何者かの断ち切られた右腕。
「う、あ……ああああああああああああああああああああああああっっっっ!」
神経を灼き尽くす激痛と、怨嗟の心痛が無様な悲鳴を上げさせ、血溜まりが無常にも広がって行く。
ギゴンッ――と歪んだ足音が、一歩、そしてまた一歩、と近付いて来る。
ぐっ……う……こんな……所で、嫌だ……嫌だ……嫌だ……!
『カイ……ト……逃げ……』
――その時、こんな状態でも僕に逃げろと言うリシィと、
照準と姿勢制御を破壊された砲兵が直ぐ背後まで迫る。
――いつか見た、ただ見守る事しか出来なかった血に塗れた少女が重なる。
必殺の間合いにまで捉えられた僕達に逃げる事は出来ない。
――“正義の味方”に憧れた少女。“正義の味方”に憧れ、どこまでもそう在ろうとした少女。
砲兵が、緩慢な動きで砲を向ける。
――結局、僕は“正義の味方”に憧れる事さえ出来なかった。
……いや、違う。
僕が憧れたのは、そんな少女の在りように対してだったのかも知れない。
なら僕は、今の僕に出来る事は――
「力を――力をよこせ! この状況を覆せる力を! 僕に――!」
もう形振りは構っていられない。
今を覆せるのなら、何だって構わない――
僕のものなのか、リシィのものなのか、もしくは両方か、跪いていた血溜まりが蠢いた。
身体の中に何かが入って来る――“目に見えない力”なんてものではない。
明らかな質量を持った何か――“血”が僕の中に入って来る。
強張り自分の意思ではどうにもならない身体、ギチギチと肌の下を這い全身に伝わって行く感触。
強制的に仰ぎ見せられた青い空は、充血による視界の赤に染められて行く。
意識が、保てない。僕ではない僕が、急速に形作られて行く。
途切れ行く意識の片隅で、リシィの声が聞こえる――
『カイト……ダ……メ……』
――僕は自分の名前があまり好きではなかった。
何で“灰”なのかと、何度も両親に尋ねた。
その度に両親は笑って誤魔化して、教えてはくれなかった。
白でも良かった、黒でも良かった。
赤でも、青でも、黄でも、もっと綺麗な色は沢山あるじゃないか。
何で“灰”なのかと。
中途半端にどこへも行けない、濁ったこの色が――僕は好きではなかった――
――まず視界に入ったのは、上から覗き込むようにしている眼前の砲兵だ。
砲口は既に僕を捉えている。
けれど、小刻みに身体を震わすその様はまるで戸惑っているようで、今だに鉄針を撃ち出す気配はない。
だから殴った。
思い切り、人間相手だったら顎に、そのままノックアウトする勢いで、殴った。
ゴガンッ――!
およそ人の拳が当たったとは思えない、鈍い金属音を立てて砲兵が仰け反る。
仰け反るどころではなく、引っくり返るまで行く。
そもそも、今反射的に打ち上げた右腕は切断された筈では……。
切断された筈の右腕を見ると、腕があった。
鈍い金属光沢の灰色の手甲。
ご丁寧に、切断された所から隙間もなくきっちりと手甲が生えていた。
『カイ……ト……』
見下ろすと、不安げに表情を歪ませた青い瞳のリシィが僕を見ていた。
『ごめんリシィ。直ぐに終わらせるから、もう少し我慢していて』
正直、意味がわからない。
わかっているとしたら、“どうにか出来る”と言う事だけだろう。
与えたのが“三位一体の偽神”だと言うのなら癇に障るけど、“覆せる力”を望んだのだから、これは正しく覆せる力の筈だ。
立ち上がると、先程までの痛みは嘘のようになく、抉られた右脚も同じ鈍い金属光沢の脚甲に覆われていた。
振り返ると、器用に八本脚を使って起き上がろうとしている砲兵。
だけど、どうすれば良いのだろうか……。
リシィみたいに呪文を唱えれば良いのか、サクラみたいに指を弾けば良いのか、“使用方法”のようなものが無自覚に刷り込まれていると言うような事もなかった。
だったら最初と同じく殴るしかない、と言うのはちょっと思っていたのとは違う。
そう考えている合間にも、砲兵は起き上がってしまっている。
だから、また殴った。
今度は、人間だったら脛に当たる部分。
鈍い金属の打撃音が街中に響く。たたらを踏む砲兵。
殴る。届く部分、と言っても脚しかないのだけど、ひたすらに殴る。
これは……地味だ。
自分でやってても吃驚するくらいに地味だ。
硬い装甲を殴る反動に、何ともない程になっている自分の身体にも吃驚するけど、それ以上もどうにも出来なくて若干焦りが出始める。
出血しているリシィを、いつまでもあのままにしてはおけない。
テュルケも心配だ。
決定打がない。
だけど――
屋根の上を疾駆する足音が近付いて来る。
誰かに頼る、と言うのは少し矜持を外れるけど、二度同じ轍を踏むと言う事の方がよほど反する。
僕は建物の壁を利用して、三角跳びの要領で高く跳躍する。
軸にした脚甲の右脚が異様な膂力を見せ、十メートルある砲兵の頭上を超えた事にかなり驚いたけど、今はそれは些末な事だ。
僕は力任せに、砲兵の既に半円になっている円盤部を叩き下ろし、路面に縫い止める。
「サクラーーーーーーーーっ!」
一際大きい踏み込みの音と共に、屋根の上から空に躍り出る人影。
大正メイド服の少女。
手には身の丈を有に超える、巨大な槌とも槍とも取れる武器を持っている。
空中で武器を振り重心を操り、急激に角度を変え砲兵へと舞い落ちる。
インパクト――吹き上がる豪炎。
炎が風を生み、逆巻く風が更に炎を煽り、やがてそれは空まで届く灼炎の旋風となって辺りを赤く染める。
殴った反動で離れた位置に着地した僕の肌を熱し、建物ごと、砲兵ごと、巻き込んだ全てを灰燼に変えて行く。
天さえ焦がすその巨大な炎の渦は、悲哀を湛えているように、僕には見えた。
――後にはもう、“何か”だったものしか残っていない。
一面の炭化した黒の中心で花開く桜色。
それも所々を焦がし、自分の発した炎と熱で酷い有り様になってしまっている。
ゆっくりとこちらに向かって歩いて来る様は、今にも倒れそうで酷く頼りなさげだ。
何でそこまで……そんなになってまで、どうして僕を助けに来てくれたのか。
力があるとは言っても女の子なんだから、もっと自分を大切にして欲しい。
自分の力で自分を傷付けるような事はしないで欲しい。
そんなんじゃ……違う、きっとそれは、彼女からも僕に向けられた感情と同じだ。
見ると、その煤けた顔は今にも泣き出しそうで、今にも怒り出しそうな、僕と僕の傍を離れてしまった自分を責める、そんな感情を表していた。
内に焔を宿し揺らめく鉄槌を、もう必要のないもののように路に捨て、僕の胸に飛び込んで来るサクラ。
何も言わない、噛み殺した嗚咽だけが僕の良心を咎める。自業自得だ。
「サクラ……サクラ、ありがとう」
僕には、謝る資格も何かをする資格もない。
それでも、何か一つ口にして良いと言うのなら、謝罪よりも感謝を伝えたい。
許されなくても、伝えられる事があるとしたら、それだけだから。
通りの向こうからは、テュルケが肩を押さえて小走りにやって来た。
こちらを一瞥し、リシィの元へと駆け寄って行く。
良かった、本当に無事で良かった。
あれだけ飛び交っていた砲音も、武器を打ち鳴らす戦闘音も既に聞こえなくなっていた。
驚く程静かに、目の前の大断崖の上に青空が広がっている。
そんな抜けるような青色の下では、今も凄惨な赤が街角を濡らしている。
いずれ、元通りになって行くのだろうとは思う、けれどこれは、これでは、あまりにもままならない。
【重積層迷宮都市ラトレイア】――迷宮に行こう。
今も僕の胸で嗚咽を漏らすサクラの事を考えたら、何一つ反省はしていない、と思われても仕方がないけれど。
“三位一体の偽神”、奴等をそのままにしておく訳にはいかない。
僕に力を与えた理由はわからないけど、何らかの意味がある事だけは確かだと思う。
ならば……殴りに行こう。
二度とこんな事をさせない為に、力尽くで奴等を止める。
……さすがに限界だ。血も流し過ぎた。
サクラの腕の中で、僕は意識を失った。