第十五話 大侵攻 偽神の掌で人は踊る
夜、寝る前に言語の勉強をしていると、小さく扉をノックする音。
「はい」
扉を開けると、そこにはテュルケが居た。
リシィとテュルケの部屋は向かいだ。間違えたとかではなく、僕に用があるのか?
乳白色のワンピースのパジャマを着て、髪は下ろされている。頭には角が……んん?
頭の両端に角がある。今まで気が付かなかったけど、根本から弧を描いて伸び、先端で角度を変え上を向いた巻角。
ツインテールの根本を巻くようにしてあったので、ずっと髪飾りだと思っていた。
そう言えば“角竜種”ってリシィが言っていた。
しかも形が違うので、ひょっとしたら動く?
『あのあの……お話があります』
髪と同系色の紫の瞳は真剣に僕を見ている。
夜も更けているので気は咎めたけど、一先ず『ドウゾ』と部屋に招き入れた。
『ソレデ ドウスル マシタ?』
『えとえと……お嬢さまの事です』
テュルケを椅子に座らせて、僕は畳ベットに腰を下ろしている。
深刻……と言う程ではないけど、どこか不安そうに何かを慮っている様子。
『……その、お嬢さまは笑いません』
僕も面と向かって笑っている所は見ていない、常に無表情、常にポーカーフェイス。
『でもでも……昔はそんな事なかったんです。いつも良く笑ってて、私にも笑い掛けてくれて、私はそんなお嬢さまが大好きでした』
……そうか、初めて会った時に笑うリシィを見て驚いていたのは、久しぶりに笑顔を見たからと言う事だったのか。
『ハジメテ アッタ時』
『ぐすっ……二年……振りに笑っているのを見ました』
それは辛い。
笑わない、笑えない、と言うのは本人もそれを見ている周りも何一つ報われない。
僕は、涙を滲ませるテュルケの頭を撫でながら、ゆっくり話すように促した。
『ここに来てから……カイトさんとサクラさん、ヨエルくんにムイタちゃん、皆さんと過ごすようになってから……お嬢さまは凄く楽しそうにしているんです。表情に出したのはカイトさんに会ったあの夜だけでしたけど、今直ぐにでもまた笑ってくれるんじゃないかと思うくらい、楽しそうなんです』
『ナニガ アッタ?』
『……私の口からそれを言う事は出来ません。でもでも、それが私達の旅の目的です』
そう言って勢い良く立ち上がったテュルケは、深く深く頭を下げた。
『お願いします! お嬢さまをもっと楽しませてあげてください! もっと、笑わせてあげてください! カイトさんお願いします!』
『ワカッタ』
『……え?』
即決した僕に、テュルケは頭を下げたまま視線だけを上げる。
出来る事と出来ない事の差か……。
出来ない事は多いけど、それまでも“出来ない事”と決め付けてしまっては“出来る事”なんてきっと見付からない。
具体的な方策なんてないけど、美少女であるリシィの笑顔を見てみたい。これは動機としては十分だろう。
なればこそ、僕は頷いた。
呆けていたテュルケの表情が輝く。
『あのあの、ありがとう御座います! これで『ぽむぽむうさぎも雲の上で胡座をかく』ですね!』
またおまえか。
格言みたいに言われてるけど意味がわからないよ?
◆◆◆◆
テュルケとのやり取りがあった翌日、僕達は出掛ける支度を整えていた。
リシィは黒のワンピースの上に、仕立てが細やかで鮮やかな青色が目を引く革鎧を着ている。
ノースリーブの肩口から伸びる肌は透き通る程に白く、何か、光を反射して本当に眩しい。
腰には剣を下げているけど、リシィ曰く剣ではなく“枝”だそうだ。枝?
『へえ、『馬子にも衣装』とはこう言う事を言うのね? サクラに教えてもらって少し日本語を学んだのよ』
『ふふん』と鼻を鳴らしてドヤ顔で笑うリシィ。勿論僕の心の中でだ。
現実ではポーカーフェイスなのは変わらない、残念。
『ナゼ ことわざ?』
『語感が気に入ったのよ。日本語って綺麗な韻を踏むわよね』
サクラよりは少し低い身長で僕を見上げるリシィは、相変わらずの無表情だけどそれでも可憐だ。
人とは恐ろしいもので、この美貌にも大分慣れて来てしまって居た。
そして僕、今は深い紺色のロングコートを着ている。
某シミュレーションゲームに出て来る軍師を狙ったのだけど、着せられている感が凄い。
『お待たせしました』
『お待たせしました!』
サクラとテュルケはいつものメイドさんだ。メイドさん……良いものです。
テュルケが僕を見てニッコリと笑う。とりあえず僕は何となくドヤ顔で返した。
今日からは、実際に【鉄棺種】の実寸大模型を使った核を突く訓練だ。
さすがに正騎士や巨兵の模型はないとの事だけど、現実的なサイズのものは全部あるそう。
対【鉄棺種】用の衛士の練兵所と探索者の教練所を兼ねた施設があるらしく、僕は少し楽しみにしていた。
『では、行きましょうか』
そう言って、宿処の扉に手を掛けたサクラの動きが止まった。
うん? どうしたんだろう?
サクラはゆるりと首を回し、虚空を望む。視線の先を見ても宿処の壁があるのみ。
遅れて同じ方向へとリシィとテュルケも顔を向けた。テュルケだけが驚いたような不安そうな表情をしている。
『皆 ドウシ――』
その瞬間けたたましいサイレンが鳴り響く。
この唐突な身を総毛立たせる感覚、覚えがある。
繰り返される内に馴染んでしまった、“緊急地震速報”と同じ感覚だ。
サイレンの音自体は、テレビ等で聞いた事のある大戦時の空襲警報。
『ウーウーー』とラトレイア全域に轟く大音響は、只事ではない様子だけを伝える。
これは、唯一察せられるとしたら……
『皆さん、待機してください。“大侵攻”の警報です。非常事態宣言が発令されますから、避難指示にしたがって移動が開始されるまでは、ここで待機していてください』
「サクラ?」
『【鉄棺種】が迷宮より現出しました』
程なくして、砲音が聞こえ始める。
外からは慌ただしく駆けて行く人々の足音や怒声、子供の鳴く声。
状況を知らせるものは鳴り続けるサイレンと、ここまで木霊して伝わる砲音のみ。
実際には何が起きているのか、それを知る術はない。
途端に足場が脆く感じられた僕は、よろめいて円卓に手を付いた。
その様子を見たサクラが僕に歩み寄って来る。
「カイトさん、大丈夫ですよ。探索者も、衛士隊も、皆さんお強いですから」
僕に寄り添い微笑むサクラ。
サクラに握られた自分の手を見ると震えていた。
……怖い……のか?
居住区のここは迷宮からは距離がある。
正騎士が出て来た時ですら、工房区までしか辿り着けなかったと言う。
なら、恐れる必要はないじゃないか。ここにはサクラも、リシィ達も居る。
多分、ラトレイアで一番安全だと思える場所――
――まただ、出所のわからない衝動が胸を突く。
僕に何をしろと言うのか、今はその衝動がはっきりとした声になって聞こえる。
――倒せ 倒せ 倒せ
――奴等を倒し 倒し 倒し 辿り着け 着け 着け
――望みの先はここに在る 在る 在る
――果ての世界はここに在る 在る 在る
――来たれ 来たれ 来たれ
――力を欲するならば ならば ならば
――因果を捻り 捻り 捻り
――与えてやろう やろう やろう
甘い花の香り、僕を包み込む優しい感触。
正体のわからない衝動に飲み込まれそうになっていた僕は、現実に意識を引き戻された。
「大丈夫、大丈夫ですから」
サクラが僕を抱き締めてくれていた。
離れてやれやれと言う表情のリシィとテュルケ。
「サクラ……大丈夫。ちょっと考え事をしていた」
気味が悪かった、その衝動は――言うなれば“三位一体の賛歌”。
自らを神に見立て、聖三祝文を謳わせようとする偽神。
これは、駄目だ。
『因果を捻る』なんて力があるのなら、救うべき所を救うべきだ。
人に寄り添わない存在。そんなものに誘われる訳にはいかない。
この衝動に、耳を傾けては駄目だ。
『行くわ。テュルケ』
『はい! お嬢さま!』
見ると、リシィが宿処から出て行こうとしていた。
『リシィさん!? 今は――』
止めようとするサクラ、リシィが剣を、いや“枝”を抜く。
剣を掲げるように持たれたその先は大断崖を――今、正に砲火が交わる地を指す。
黒壇の黒鮮やかな長杖。掘られた溝が金光を湛え、世界の全てをその光で満たさんと輝く。
瞳の色はその光の中でさえ尚も煌めく月光――
『私の命脈の祖、神龍テレイーズはいかなる時も人を愛し、人を護り、人と共に在り続けたと言うわ。ならば私も民を愛し、民を護り、民と共に在りたい。龍血の姫たる矜持、今ここで、ラトレイアの民の為に使うわ』
僕達を射抜いた銀の瞳、誇り高きその少女を止められる者は居ない。
僕も、サクラも、何も言えなかった。
◆◆◆◆
砲火が飛び交う場所で、今、力を欲する者達が居る。
そして、力を持つ者がここに居る。
リシィ達が出て行ってから、既に半刻が過ぎようとしていた。
その間も砲音は止まず、僕達は報が来るのをただ無言で待っている。
サクラを見ると、隣に座ったままじっと何かを堪えるようにしている。
彼女は、こんな所に居てはいけない。女性を戦地に送ると言うのはどうかと思うけど、恐らく覆せるだけの力を持つのが彼女だからだ。
そんな事を考えていると、図ったかのように宿処の扉が勢い良く開いた。
慌ただしく息を切らせた青年が入って来る。
急いで走って来たのだろう、髪もスーツにも見える礼服も、乱れ土が付き酷い有り様になっていた。
『はぁっはぁっはぁっ……サク、サ……サク……はぁー……サクラ ファラウエア執行官、第一級非常事態宣言が発令されました。緊急時非常召集令に基づき、即応可能な人員、全隊に召集が掛かりました。【鉄棺種】討滅にご協力をお願いします』
姿勢を正し、尚も息を切らす彼はそう告げた。
二度、三度、と何かを口にしようとして、それでも飲み込んだサクラが返事をする。
『はい、わかりました』
振り返り、僕の顔を見る。
「ごめんなさい、カイトさん。行かなければいけなくなりました」
弱々しく笑うサクラ。
僕の存在が足を引っ張っている。戦いの場に、憂いは禁物だ。
お互いに気持ち良く送り出せなければ、それはどこまでも足を引っ張るのだから。
「サクラ、気を付けて。僕は安全な場所に隠れているから、大丈夫だよ」
精一杯笑った。
笑えた……と思う。
サクラが出て行った後も、サイレンは止まない。
ラトレイアは広い、馬車を飛ばしても第一壁までかなり掛かる。
室内で唯一聞こえる時計の秒針の音が、自分の心音よりも遅く焦れったく感じられる。
待つ事しか出来ない状況、誰も居ない宿処、先程まで慌ただしかった路地からは今はもう人が通る気配はない。
今なら、あの衝動に身を委ねても構わない――そんな事すら思えてしまえる。
――ガチャ
心臓が跳ねる、宿処の扉が開いただけだ。
焦った面持ちで入って来たのは女性、ヨエルとムイタの母親のケイナさんだ。
『ドウシマシタ?』
円卓から立ち上がり、近付きながら尋ねた。
『あの、ヨエルとムイタは……来ていませんか?』
『ヨエル ムイタ 今日 来テイナイ』
『そんな……』
『ヨエル ムイタ イナイ?』
『……お昼過ぎから』
今、僕はしてはいけない最悪の想定をした。
『ヨエル ムイタ 行クトコロ オボエ ナイ?』
『ここ数日、父親を探すと言っていて……も、もしかしたら……』
その場に崩れ落ちるケイナさん。
恐らく、僕と同じ、最悪の想定をしてしまった。
ならば、構うものか。
衝動に身を委ね、『与えてやろう』と言うのなら受け取ってやる。
“覆せる力”――本当にあるのなら与えてみせろ。
僕は宿処を飛び出し、走り出した。