第十三話 龍血の姫 リシィティアレルナ ルン テレイーズ
『あのあの……大丈夫ですか?』
視線を上げると、先程のメイドさんが屈んでこちらを伺っていた。
『あ、ハイ ダイジョブ』
サクラに支えられて、まだ痛む腹を堪えながら立ち上がる。
傍に来たメイドさんはやはり小さい。トゥーチャよりは幾分かあるくらいで、腹痛で身体がくの字になっているにも関わらず見下ろせる程だ。
薄い紫の髪をツインテールにした、白と黒のエプロンドレスの少女。
小さな顎には倒された時に付いたものだろう、擦り傷が痛々しく血を滲ませ、エプロンも土で汚れてしまっていた。
結果オーライ、とは行かないのだろうけど、それ以上の傷がない事はせめてもの救いだ。
『キミ ハ ダイジョブ?』
『大丈夫です! 貴方のお陰で擦り傷で済みました! お礼させて下さい!』
元気だ。結局僕は何も出来なかったので、お礼を受け取る訳にはいかない。
『レイ ナイ アゴ イク チチリロ?』
勉強不足だ。ここに来てまだ半月程では限界もある。
『お礼はいらないから顎の治療をしよう』と言いたいのだけど、上手く言葉に出来ない。
メイドさんに不思議そうな視線を向けられている。隣ではサクラまで首を傾げている。
路地の奥から、遠目に僕達のやり取りを見守っていたフードの人物が歩み寄って来た。
直ぐにメイドさんが背後に控えた事から、主従の関係だとは伺える。
暗がりから月の下に現れ、礼をしようとした所でフードを被ったままだった事に気が付いたらしく、慌てながら何とも品の良い仕草でフードに手を掛けた。
――息が止まる。
脱いだ傍から風に舞う長い金糸の髪は一本一本が光を反射し、月光に融けてしまっているのではと思わせる程にその境界を曖昧にしている。
月の銀光をそのまま湛えていたとしても信じる真っ白な肌と、尖った耳の後ろから伸びる角は輝く月にも決して劣らない白金色だ。
ただ、どう言う訳か左の角が痛ましげに半ばから断ち折れていた。
そうして無遠慮に見惚れる僕の視線と、フードを脱ぎ髪を整えた彼女の視線が交差する。
彼女の瞳、凛としながらもどこか憂いを帯びた長い睫から覗くのは、その儚い印象からは真逆の赤と、黄と、二色が溶け合うオレンジ。鮮烈な夕陽色。
これは、この世の者ではない。
見た事を後悔してしまう程の美しい何か。
何事も過ぎれば毒となる、そんな類の美しさだ。
息をする事を忘れた僕の目の前で、改めて恭しくお辞儀をする美しい少女。
由緒正しき姫か令嬢かと言わんばかりの見目とは裏腹に、その作法は剣を抱き礼を尊ぶ騎士のそれだ。
己が主君に対する訳でもないのに、深い礼から顔を上げた彼女は揺らがない視線で僕を見る。
『私の名はリシィティアレルナ ルン テレイーズ。テレイーズの現当主にして神龍の名代。お礼を言うわ、異邦の人』
射抜く視線はどこまでも真摯に、崩す事のない表情はあくまで可憐に、月の下、僕はその少女に出会った。
隣でサクラが頭を下げた事で、腹の痛みも忘れていた僕はようやく我に返る。
あ……と、なんだっけ、あまりに美しい少女を見た事で、何か色々な事が頭の中からすっ飛んでしまっていた。
それよりも、名前を上手く聞き取れなかったのがまずい。
リティシレア……リシィイ……んん?
『え、えーと……カイト クサカ イウ マス その、名前……リ、リシィティアリェリィいっ!? 痛っ――!?』
アーッ!? 上手く呂律が回らずにしこたま舌を噛んだ僕は、口を抑えたまま再び地面を這う。
「カイトさん!? カイトさん大丈夫ですか!?」
「ふごごふぐ……」
ごめんサクラ。笑いたければ笑っても良いんだよ。
痛みと色々な感情から若干涙目になって這いつくばる僕にも、サクラは優しく寄り添ってくれる。
これはさすがに弁解の余地もない。人様の名前を噛むとかあり得ないだろう。
恐る恐る視線を上げると、美しい少女は上体だけを勢いよく捻って後ろを向きプルプルと震えていた。
あー……笑われてる、笑われてるねこれ。
こちらからでは表情は伺えないけど、それはもう滑稽な僕の様を見れば笑われて仕様がない。
……どう言う訳か、後ろに控えていたメイドさんは、僕ではなく主を愕然とした表情で見ている。
傾国の美少女が表情を綻ばせて笑うと、そのくらい驚くものなのかな? 何だろう?
またしてもサクラに支えられてよろよろと立ち上がる。
視線を戻すと、リシィテ……なんとかさんは既にこちらを向いていた。
頬と耳が赤みを帯びて、目尻にも若干涙が滲んでいるのでやはり笑っていたのだろう。今はその様も想像出来ない程に、最初と同じポーカーフェイスだ。
はは……もう帰りたい。
『私の事はリシィで良いわ。こちらの言葉もまだ覚束ないんだもの、上手く発音出来ないのは仕方がないわ』
『あ、ああ……アリガトウ リシィ ヨブ ヨロシク』
どうやら、直ぐに来訪者だとわかって察してくれたようだ。
名前はそう言う問題ではないと思うのだけど、今は好意に甘えさせてもらう。
『あのあの、私はテュルケ ライェントリトと言います! よろしくお願いします!』
リシィの横にピョコンと飛び出て来て自己紹介するメイドさん。
先程の驚愕の表情がどこに行ったのか、凄く元気だ。
『テュルケ』、うん、大丈夫。さすがに、それを噛んだら何かが終わってしまう気がする。
この後サクラの自己紹介も束の間に、駆け付けた警士隊によって事情聴取が行われる事になった。
◆◆◆◆
……状況について、詳しく説明してもらいたい。
いや、状況も何も、今僕達は宿処で四人で食卓を囲んでいる。
警士隊の事情聴取は、『悪漢に絡まれていた』とのリシィ達の証言で時間は掛からず、瓦礫の下敷きになっていた男達はお縄となった。
警士隊とは警察の事で、衛士隊が軍、それもあくまで防衛戦力と言う自衛隊に似た立ち位置のようだ。
騎士団はあくまでお目付け役、と言うのは複雑な大人の事情か。
『美味しいわ。異世界の料理は初めて口にしたけれど、繊細なのにとても深い味わいね』
そして今の状況。
テーブルの対面に座ったリシィが、味噌汁をスプーンでマナー良く口に運んでいた。
今日ラトレイアに来たばかりだと言うリシィ達は、宿を探して住宅街に迷い込んでしまって、悪漢に絡まれた所に遭遇したのが僕、一悶着の後でサクラが『でしたら家に』と言うのが一連の流れ。
うん、特におかしくはない。少しだけ僕が落ち着かないだけだ。
「リシィ達も、ここへは迷宮目指して?」
今はサクラに翻訳してもらっている、さすがにまだ込み入った話は出来ないので。
和食に舌鼓を打っていたリシィが顔を上げる。
彼女が動く度に、黒地のワンピースに掛かる金糸の髪が極上の刺繍のように映える。
『違うわ。目的次第では入る事になるかも知れない、と言う程度ね。興味は在るわ』
『あのあの、ここにある迷宮は数ある【神代遺構】よりも危険と聞いたのです。私はお嬢さまに危険な所に行って欲しくないのですが、その辺はどうなのですか?』
僕の左隣に座って、箸と奮闘していたテュルケが話題に加わる。フォークとナイフは用意してあったけど、使ってみたいとの事。
ちなみに夕食はサックサクの天ぷらだ。
天つゆに各種薬味完備で、それを食べたリシィはポーカーフェイスで一口ごとに『美味しいわ』、テュルケは無言で目を輝かせてひたすら食べ続ける。そんな感じ。
……あれ、リシィの瞳の色が緑だ。深い緑から黄への鮮やかなグラデーション。
んー? 赤と黄だったと思うのだけど……見間違いかな?
『はい、そうですね……迷宮には【鉄棺種】と呼ばれる魔物とは別の驚異が存在しますから、一筋縄では行かない事は確かです』
単語の勉強中“魔物”と言うのが出て来たから居るとは思っていたけど、やはり【鉄棺種】とは別なんだな。
『具体的な話を聞いても良い? ラトレイアに来た以上、迷宮に入る事は覚悟しておかないといけないわ』
……!?
途端にリシィの瞳が緑から赤に変わる。
見間違いでも光の加減でもない。明らかに目の色が変わった。
何だ? 迷宮に入る覚悟……いや、目的か。目的に対する感情、のようなもので目の色が変わった。そんな所か?
地球にも七色の虹彩を持つ人は極稀に居ると言う、仕組みは明らかに違うと思うけど、この世界なら“そう言う種族”でも説明出来る。
……うーん、今は気にしても仕方がないな。
サクラを見ると、視線を落として少し考え込んでいた。
『そうですね……迷宮に入るのなら、まずは探索許可証が必要になります。種類は“上層探索証” “下層探索証” “深層探索証”で、後述した方が上位の許可証ですね』
『出来るだけ早く迷宮に入れるようにはしておきたいわ。手続きや条件があるのなら、詳しく教えてもらえる? 杞憂……なら良いのだけれど、それなら恐らくこの地には来ていないだろうから』
彼女の言葉からは受動的である事がわかる。“目的”に対して後手になっている事も。
サクラが一度こちらに視線を向ける。一瞬の逡巡、その後覚悟を決めたのか話し始めた。
『テレイーズの龍血の姫君である貴女なら、戦闘能力と言う面においては迷宮に挑む資格は既に有していると、保護監督官である私が判断します』
“テレイーズの当主”が何を意味するのかわからなかったけど、やはり姫さまだったかあ……所作や佇まいが常人とは全然違うから、相当由緒正しい家柄なのは見て取れた。
“神龍の名代”と言うのも異様な泊だ。計り知れない存在感と良い、とんでもない人だと思える。
『それを踏まえた上で、【鉄棺種】に対する座学を最低でも一週間受けていただきます。座学を修めていただいた後は、“見習い”として現役探索者の監査の元に上層第一拠点ヴァイロンまで実際に探索を行っていただきます。この行程も大体一週間。ヴァイロンに辿り着き、問題ないと判断されれば晴れて“上層探索証”が発行されます』
『最短でも二週間、ね。無理矢理に入ろうとしたら……』
『はい、十二名の執行官が貴女を捕縛しに参る事になります』
『“焔獣の執行者”の名を持つ貴女に追い掛けられるのは嫌だわ。大人しく従います。テュルケ、明日で構わないから手続きお願いね』
『はい! お嬢さま!』
頭が付いて行かない。
具体的な探索証の発行についてはわかったけど、何か凄そうな姫さまに一目置かれているサクラって……。
『後もう一つ、迷宮に入るには同級の探索証を持った六人が必要になります』
『……困ったわ』
確かに困る、何とかの酒場とかはないのだろうか……あれ、でも、
「トゥーチャ達は五人だったけど、それは?」
「はい、トゥーチャさん達は例外ですね。あのパーティはトゥーチャさんが【神代遺物】持ち。後は“鎧竜種”と“森霊種”の高等種族も居ますし、“樹塔の英雄”と謳われる勇者が率いている事で、正騎士も単一パーティで倒すのではと言われていますね」
勇者! エルフ青年の事かな……?
そうかあ……確かサクラの種族も“高等”と付いていたよな。差が良くわからないけど、何となく“すんごいのだろう”と言う認識。
今日本語で行われた話の内容を、サクラがリシィに説明をしている。主に例外についてを。
それを聞いたリシィは顎に手を当てて少し考え込んだ後、妙案と言わんばかりに手を打ち鳴らし告げた。
『私は“テレイーズ高等龍血種”。サクラは“アグニール高等焔獣種”。テュルケもテレイーズの血脈に連なる“角竜種”。それに“第三種”のカイト。この四人で行けるんじゃない?』
……!?
僕も入っているの!? “第三種”って何!?
……この娘、サラッととんでもない事を言ってくれた。