第十一話 異世界の暮らしの中で
夜――物音一つしない暗闇で僕は目を覚ました。
布団の中に誰か居る、心地の良い圧迫感とむず痒い感触にぼんやりと視線を巡らす。
それが異様に柔らかい事と暖かい事を認識すると、急速に意識は覚醒する。
ほあーっ!?
……ああ、やってしまった。
ソファーの衝撃が大き過ぎて、取り急ぎの問題を次元の彼方に忘れ去ってしまっていた。
どうしてそうなったのか、僕の顎の直ぐ下でサクラが穏やかな寝息を立てている。
彼女の獣耳が一呼吸の度に頬をくすぐり、こそばゆかったのだ。
多分これ、昨日もこの状況だったんだろうな。
ゼンジさんに複雑な心境を向ける。感謝半分、何て事してくれたんだ半分。
天国と地獄が同居する凶悪な柔らかさに半身が包み込まれていて、全く身動きが取れない。
「ん……おじ、いちゃ……」
どんな夢を見ているのか、閉じた瞼からは涙の筋が一つ。
ラトレイアの夜は寒く、あくまでサクラ本人はおもてなしの気持ちでやっているのだろうから、健全で紳士な日本男子を目指す僕としては安易に無下には出来ない。
さすがに起きたらしっかり誤解を解くとして、今は意識を逸らす事で煩悩を端に追いやる事にした。
まだ夜は深い、天井に視線を向け、出来るだけ考えないようにしていた意識の底で思案を巡らす。
そうだ……
この世界に来て、この世界の事を知って、その上で僕には絶対に聞いておかなければいけない事が一つあった。
そこまで思っていて、結局口にする事が出来なかった事。
先延ばしにしていればいつまでも結論を出さずに済む。
それはとても愚かな事だとは思う、でもやはり結論を出すのが怖いのだ。
今日のように、来訪者を紹介される機会と言うのはこれから多く訪れるのは間違いない。
つまり、遅かれ早かれ自分の意思とは無関係にいずれ知る事にはなる。
だったらせめて、どこかのタイミングで自分の意思で聞かなければならない。
……そう、前触れもなく、不可解な失踪を遂げた両親の事を。
これは、ひょっとして――
いつの間にか、そんな取り留めのない思考は、穏やかで心地の良いまどろみの中に消えて行った――
◆◆◆◆
この世界に来て早くも一週間が経過した。
この一週間、まず午前中はサクラ指導の元でこの世界の言語をみっちりと勉強。
と、主にゼンジさんがしでかした関連で、何かある度にその都度話して誤解を解いて行く事も忘れない。
……その度に顔を真っ赤にして慌てふためいたサクラを見る事になるのだけど、これはこれで……いえ、だから嗜虐心は駄目です!
そして午後は、親方に相談に行ったその日から早速職業体験をする事にした。
職業体験と言っても、言葉が話せない以上選択は限られるので、最初の三日間は親方の所での雑用から始まった。
さすがに日本コミュニティの傘下、ここの従業員はサクラ程ではないけど皆日本語が話せると言う事で、僕の言語の勉強もついでにとても良くしてもらえた。
何をしているのかは良くわからなかったけど、技術の解析から研究開発、【鉄棺種】を武器防具へ加工する等、色々手広くやっているみたいだ。
次の三日間は日本料理屋『鳳翔』でサクラと一緒に給仕。
ここでも店員だけではなく、例によってゼンジさんがはっはっはっと笑いながらお客さんに話を通してくれて、より本格的なやりとりとして勉強をさせてもらえた。
こんな至れり尽くせりで良いのだろうか。
ただ、事あるごとにゼンジさんがサクラに何かを耳打ちしてるのは、またやらかさないかと凄く心配だ。
まあ、その後はいつも顔を真っ赤にした彼女にぶっ飛ばされていたので、あれはあれで僕が来る前からのスキンシップの一環なのだろう。
そして一週間が経過した今日、宿処で昼食を食べながらサクラに質問する。
「ゼンジさん、親方、ユキコさん、トウヤ、これで僕入れて五人だけど、残りの人もラトレイアに居るの?」
ユキコさんとトウヤは、ゼンジさんの奥さんと子供だ。
身重なので毎日ではないけど、稀に店に出ていてその時に会う事が出来た。
ゼンジさんとユキコさんは一緒にラトレイアに転移、その後異世界で生まれたのがトウヤと言う事らしい。
そして二人目を身篭っているので、そう遠くない内に日本人が十人になる見通しだ。
「はい、そうですね……お二方はラトレイアに居ますが、行政府に勤められていてお忙しいので、なかなかお会い出来る機会はないかも知れません。残りの方は、お一方はエスクラディエ皇国に教師として招かれていて、もうお一方は……その、探索者として迷宮に入られています」
やはりサクラは迷宮が関わると歯切れが悪くなる気がする。
危険だから興味を持って欲しくないと言う事か。
それよりも、『教師』と言う何の変哲もない言葉に僕の心臓が跳ねる。
母親が教師をしていたからだ。
「教師として招かれたと言う人の名前を聞いても良い?」
「はい、お名前は三坂 咲夏さん。女性の方ですね」
吃驚した。“坂”被りの苗字とか本当吃驚した。
……でも、さすがにそんな上手い話でもないか。苗字が同じだったらサクラが気付くだろうし。
「ふーむ、誰か知り合いもこの世界に来てないかな、と思ったけど早々異世界転移なんてないよね。」
全力で誤魔化したけど、小首を傾げている。
別に隠していると言う訳ではなく、あまり心配を掛けたくはないし、両親の事は話さないで済むならそれで良いとも思っているから。
食べ終わり、片付けを済ませた僕達は本日からの職場に足を向ける。
今日からは直接のサポートはない。と言っても客商売ではなく郵便配達なので気は楽だ。
覚えた文字の復習と地理の把握がメインで、辞書片手になら何とかなると判断された。
大通りに面した郵便局……郵便屋? が見えて来る。
読める……! 読めるぞ! 目立つように大きく作られた看板には、異世界言語でこう書かれてあった。
『異世界郵便』
おいいっ! 心の中で激しく突っ込みを入れる。
この世界にとっての“異世界”って、僕の元居た地球の事だよね? “地球郵便”って事!?
……あ、あれか。来訪者の知識を持って作られた郵便システムが元になっているとか、そんな理由か。
僕にとってはこの世界こそが“異世界”なのだけど、この世界の人にとっては地球こそが“異世界”だ。
だから“異世界”と言う単語を使って話をしていると、どっちの事を言っているのか稀にややこしくなる。顔を見合わせて『ん?』となった事が、既に何回かある。
裏口から中に入って行く。
木の枠組みと石壁の室内では慌しく人々が行き交っていて、大きな鞄に郵便物を詰め終わった人が次々と建物を出て行く。
さすがに郵便物仕分けの機械はないようだけど、手作業のその光景は良く映画やアニメなんかで目にしていたのでどことなく懐かしい。
『良く来たなあ。私はここの長ルニィヒゲート アーヴァンク言います。ルニで良いわ』
『あ、えと、カイト クサカ イウ オネガイ マス ヨロシク』
そんな慌しい光景を横目に、ブルネットの髪が美しい、妙にはんなりとした雰囲気の女性が出迎えてくれた。
自己紹介は散々練習して来たのだけど、自分で言っていてもわかる程に酷いものになってしまった。
サクラもルニさんも生暖かい視線でニコニコと僕を見ている。
ああー! 何処かに隠れたい!
壁に貼られた大きな地図の傍に連れて行かれ、指差しで説明を受ける時に気が付いた。
ルニさんの腕には鱗がある。碧色に輝いてまるで宝石みたいだ、なんて迂闊に声に出して変なフラグが立ってもあれなので、そっと心に仕舞う。
『クサカさんには、ここからここまでの区画の配達を担当してもらいます。初めてでも三時間は掛からん程なんで、そんな肩の力入れないでのんびり行っておいでなあ』
『ハ、ハハハイ!』
ウブか! 良い歳して恥ずかしい。
中サイズの鞄と地図を受け取る。辞書を鞄のポケットに忍ばす事も忘れない。
それにしても、京都弁と言う訳ではないのだけど、翻訳器からはそれに近いイントネーションで聞こえて来る。ルニさんはこの世界の方言的なもので喋っていると言う事かな。
服装がノースリーブなだけでシルエットはほぼ着物なので、言葉遣いも相まって旅館の若女将にしか見えない。そりゃ思わずどもりもします。
『いってらっしゃいな~』
「カイトさん、何かあったら直ぐに駆け付けますから、頑張って下さいね」
『アリガト イク マス!』
今回はサクラは付いて来ない。
だけど、『直ぐに駆け付けます』とはどう言う事だろう。何処かで見てるの?
担当するのは二キロ四方程の区画だ。
地図を頼りに、名前と住所をしっかり読むようにして指先確認で住宅街を歩いて行く。
一応元居た世界では配達のバイトもしていた事があるので、その辺のイロハは最初からわかっていた。
良く考えたら、ラトレイアに来てからは初めて一人で街を歩く。
少し不安に思いながらも、キビキビと人通りを抜けて行った。
……やはり目立つよなあ。
この世界での“来訪者”と言う存在は、特徴がない事が特徴だ。
言い得て妙だけど、人種を判別する外見的特長がないから“来訪者”と言う事だ。何ともややこしい。
だから、すっぽりマントでも被らない限り、通りすがりに『あ、来訪者だ』と言う目で一度は見られる。
その後は好意的に接して来る人意外はそのまま通り過ぎて行くので、特に何か起きたりはしない。
これは保護監督官の存在がかなり影響しているらしい。
親方曰く、担当来訪者が害されようものなら、深層探索者クラスの実力者である保護監督官が、それこそ迷宮深層まで追い掛けて来て狩られるのだと言う。
いや、本当に親方が『狩られる』と言う言い方をしたので、要するに一方的なのだろう。
サクラさんまじやばい。
最近では、街の情景を楽しむ余裕も出て来た。
ゲームがない事が最もな懸念材料ではあるけど、車が走っていない事が思いの他街の散策にゆったりとした楽しみを与えてくれる。
思えばオープンワールドゲームをプレイしていると、ただ街やフィールドをぶらぶら歩いてるだけで気付いたら朝! とかも良くあった。
この一週間ゲームがなくても特に禁断症状が出ないのは、その延長の感覚があるからなのかも知れない。
あまり良い認識とは言えないけど。
「これで最後と」
程なくして、足早に最後の郵便物を投函し終わった。
三時間も掛からなかったな、明日はもう少し増やしてもらおうか。
『兄ちゃん配達員だろ? うちに手紙ない?』
唐突に、目の前に立つ少年に声を掛けられた。少年の背後には隠れるように小さな少女も居る。
『あ、と……イマ 郵便 オワリ ナイ』
たどたどしく返事をすると、少年少女が目を丸くして僕を見る。
これでも一週間、午前中だけでなく夜も自主的に勉強して頑張ったんだ。
少年は僕の頭から足先まで視線を巡らすと、途端に表情を輝かせた。
『兄ちゃん来訪者か!? すっげえ始めて見た!』
『マエ キタ 言葉 シテル……勉強 シテル 中 名前 カイト イウ ヨロシク』
『おー、カイト兄ちゃんか。俺はヨエル。こっちは妹のムイタ。よろしくな!』
純粋な笑顔が眩しい、ヨエルの背後に隠れている少女ムイタも興味津々と言った表情だ。
困った時は単語で喋れば何とかなる。これ、豆知識、ならぬ逃げ知識。
『手紙 クル?』
『うん、とうちゃんからの手紙待ってんだ。月の初めにいつも送られて来るのに、今月はもう一週間も遅れてる』
『ソカ トウチャン ドコ? イル ドコ?』
『兄ちゃん何言って……ああ、『どこに居る』か! 迷宮に居るんだ。探索者なんだぜ!』
迷宮に入っていて、いつも送られて来る手紙が来ないか……まだ歳は十にも満たないだろうムイタは兎も角、ヨエルはその辺は分かっていて然るべき年頃だ。
父親がどうなったのかの想像は出来ても、やはり簡単に認められるものではない。
だから、彼等自身が確信を得るまでは、いつまでも手紙を待ち続けるのだろう。
ままならないな、本当に。
『ヨエル 手紙 クルト ヨイ』
一瞬不安そうな顔になったヨエルが、それでも精一杯の笑顔を作り返事をする。
『ああ!』
僕には、無責任に確信のない現実を告げる事も、在るかもわからない希望を与える事も出来ない。
無力は本当に、嫌だ。