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緑の丘の元令嬢

 広大な領土を持つファリントン王国から東へ馬車を走らせると、やがてなだらかな丘がいくつも連なる丘陵地帯に差し掛かる。

 この辺りから土地名はファリントン王国から、ヴェステ地方へと移り変わる。


 ヴェステ地方は大昔はファリントン王国の一部だったが、長い時の中で独立し、どこの国にも所属しない地方として確立するに至った。


 どこの国に所属しない、というのはメリットもあるがデメリットも大きい。


 政権争いや国家間の紛争に巻き込まれない一方、何かあった際には自分の身を自分たちで守らなくてはならない。

 また日常生活においても、自由な商売ができる反面、飢饉などによって食料調達が難しくなっても、国からの補助や支援を得ることができない。

 まさに、自給自足の生活を送っているのだ。


 どこの国にも所属しないため、ヴェステ地方は各国の中継地点として利用されることが多い。

 訪れた者は全員客人。ヴェステ地方の者にとって、味方の国も敵の国も存在しない。平等に商売をし、戦争などにも荷担しない。

 各国もヴェステ含めた地方に対して共通の認識を持っているため、多数の国家の中で吸収されることなく地方都市が発達しているのであった。











 ヴェステ地方グリンヒル。

 一年を通して気候の変化に乏しく、真冬以外は青々とした草木の生い茂るこの地に、ある館が存在した。


「グリンヒルの館」と呼ばれるそこは、ギルドと孤児院と宿を兼ねたような役割を果たしている。

 そこに住んでいるのは、老若男女様々な百名程度の人々。孤児もいれば腕自慢の傭兵もいる。夫を失った寡婦がいれば、生まれてすぐに捨てられた子どももいる。


 身分も生まれも容姿も年齢も関係なく、この館に集まった者たちは協力し合いながら生活を送っていた。











「セリア。マザーが呼んでいるよ」


 背後から声を掛けられたセリアは、洗濯籠を抱えたまま振り返った。

 セリアに連絡をしたのは、そばかすだらけの顔が可愛らしい十歳程度の少年だった。


「はいはい。マザーが何って?」

「よく分からないけど、お金がどうのって言っていた」


 ということはおそらく、帳簿を付けてほしいというお願いだろう。

 セリアは笑顔で頷き、空になった洗濯籠を少年に差し出した。


「了解。それじゃあ代わりにこれを洗濯場まで持っていってくれるかな」

「うん、持っていく」


 素直に頷いた少年は、セリアのお願いを実行するべく急いで駆けていった。

 大人であるセリアならば籠を抱えても問題ないが、少年程度の身長だと前が見えるかも怪しいだろう。


「あっ、こら! そんなに急がなくてもいいからね! こけないのよ!」


 既にフラフラの足取りの少年にそう声を掛けてから、セリアは腰に手を当ててふうっと息をついた。

 空はよく晴れている。

 洗濯物もよく乾きそうだ。


「……行こう」


 呟いた後、セリアは洗濯のために肘までまくっていた袖を戻しつつ歩きだした。











 セリアが筆頭聖奏師の身分を剥奪され、追い出されるようにして王都を離れたのが、二年前。

 デニスのおかげで愛用の聖弦だけは手元に戻ったものの、目立つのを避けるためには聖奏師として活躍することはできない。かといって公爵家令嬢として育ったため、手に職があるわけでもない。そしてその公爵家からも勘当されたので、どこか頼る相手がいるわけでもなかった。


 そんなセリアは、聖奏師仲間から名前を聞くだけだったヴェステ地方グリンヒルに向かうことにした。

 何かアテがあったわけではない。

 とにかく、王都から離れたかった。

 ミュリエルの、そしてエルヴィスのいる場所から離れたかった。


 共にいる時間が短かったからか、ミュリエルのことは一年もすれば頭の中の記憶も風化し、「そういえば、そういうとんでもない子がいたっけ」と思う程度になっていた。


 だが、エルヴィスに関してはそうもいかない。

 結婚を夢見た相手だ。

 妃になる、というのは当時もいまいち想像できなかったが、彼の秘密の恋人であり、求婚もされていた。あのまま何ごとも起きなければ、今頃セリアは彼の妃になっていたのかもしれない。そう思うとやりきれない気持ちになった。


 突如終わりを迎えた恋の痛みは、今でも時々胸をきつく締め付けてくる。

「もしも」ばかりが頭の中を駆けめぐり、辛くて惨めでベッドの中で一人泣いた夜も何度もある。


 だが、グリンヒルでの生活はそんなセリアのささくれ立った心を少しずつ癒してくれた。


「マザー。セリアが参りました」


 目的の部屋のドアをノックする。

 すぐに「どうぞ」と返事があり、セリアは軋んだ音を立ててドアを開けた。


 そこは日当たりのいい部屋で、窓際のロッキングチェアには中年の女性が座っていた。そこは彼女の指定席なので、ロッキングチェアに彼女が座っている姿を見るだけで「今日も平和だ」と感じられ、なんだかほっとしてくる。


 女性は顔をセリアの方へ向け、にっこりと笑った。


「よく来てくれました、セリア。今日も帳簿記入をお願いします」

「はい、お任せください!」


 やはり帳簿作業だった。

 セリアは自信たっぷりに答え、マザーの隣の椅子に座った。デスクには手書きの領収書や契約書が積まれている。日付も品目もばらばらだなので、まずは仕分け作業からするべきだろう。


 グリンヒルの館には、大きく分けて三つの役割がある。


 ひとつは、労働。若くて元気のある男性は傭兵として出稼ぎに行き、女性は館で作った工芸品などを市に売りに行って金を稼ぐ。これらが館の維持費や皆の食費に宛てられるのだ。

 ひとつは、生活。出稼ぎに行く者や行商に行く者の帰る場所となり、食事を作り、洗濯をし、寝床を整える。百人近い館の住人は、皆が仲間、家族なのだ。

 ひとつは、教育。グリンヒルの館で暮らす者の現在の最年少は、一歳。成人である十五歳に満たない子どもだと二十人近くいる。彼らに適切な教育を施すのも役目のひとつである。


 二年前にふらりと現れたセリアは、館の女主人であるベアトリクス――通称マザーに事情を話した。聖奏師であることは伏せ、元々貴族令嬢だが家を勘当されて行くあてがない、ここで住まわせてもらえないかと頼んだのだ。肉体労働は不可能だが、学問知識だけは頭に詰まっているという自信があった。


 それを聞いたマザーは、セリアを快く館の一員に加えてくれた。そんなに簡単に受け入れてくれるのかとセリアの方が驚いたが、マザーは笑って、「わたくしには、他の方には見えないものが見えるのですよ」と教えてくれたものだ。


 そう言うマザーは今、かたく両目を閉ざしている。彼女の瞼が開くことはない。生まれつき、目が見えないのだ。

 マザーは目が見えないことで相当苦労をしてきたようで、大人になってから、「どのような見た目、どのような生まれの人でも共に生活できる場所を作りたい」と活動を始めたという。やがて彼女の思想に賛同するものが増え、このグリンヒルの館ができたのである。


 マザーは女主人ではあるが、いつもこのロッキングチェアに揺られて穏やかに微笑んでいる。自分から物事に関わろうとすることは滅多になく、館の采配は実質別の者が担っている状態だ。

 それでもマザーは皆に慕われており、セリアもまたマザーの優しさと神秘的な雰囲気がすっかり好きになっていた。またマザーはセリアの知識の深さや計算能力を高く評価してくれており、こうして帳簿記入を任せてくれるようになったのも、セリアはまた嬉しかった。


(聖奏だけが取り柄だと思っていた私に、この館の皆はたくさんのことを教えてくれた)


 領収書や契約書を種類別に並べ替えつつ、セリアは思う。


 セリアにもできることがある。

 セリアが必要とされている。

 セリアが仲間の一員として認められている。


(何も持たない私を認め、受け止め、必要としてくれる人がいる)


 そのすばらしさ、嬉しさを皆が教えてくれた。

 ファリントンにいた頃のように、衣食住が完備しているわけではない。大雨の日には屋根が抜けて水浸しになることもあったし、傭兵たちがいない隙に盗賊が押し入ってきたこともある。思うように工芸品が売れず、子どもたちのために自分たちの食費を切り崩したことだって何度もあった。


 それでも、セリアはグリンヒルで過ごすこの日々を愛していた。

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