落ちぶれ才女の黄昏
夕日がとてもきれいだ。
憎らしいほど美しい夕日を、セリアは恨みを込めて睨みつけた。
夕日なんて睨んでも仕方ないと分かっていても、何かに怒りをぶつけたくて仕方がなかった。
この城で夕日を見るのも、これが最後だ。
手に提げた鞄は、思いの外軽い。
この軽さが自分の価値をそのまま表しているかのように感じられて、セリアは泣きたくなった。
勝負の結果が発表されたあの後。
セリアはエルヴィスにより皆の前で、筆頭聖魔道士位の剥奪を言い渡された。
勝った方が筆頭になるという宣言は、側近たちの前でも行っていた。よって、エルヴィスとて撤回することはできなかったのだ。
そんなエルヴィスとは、それっきり話しすらできていない。なんとか彼の側近に手紙を託したものの、返事は「君とはこれ以降関係と持つことはできない」という残酷で短い一文だった。
セリアの凋落を知った叔父公爵は、いっそすがすがしささえ感じられるほどさっぱりとセリアを勘当した。「よくも公爵家の名に泥を塗ったな」と玄関先で吠える叔父に、冷たい目で見てくる使用人たち。いとこたちからは、「役立たず!」とののしられた。
セリアに勝利したミュリエルだが、今すぐに筆頭になるのは難しいとのことだ。どうやら聖奏師の元部下たちもまた勝負結果に疑問を感じていたらしく、エルヴィスに抗議しようとしていた。
だが、セリアがそんな彼女らを止めた。これ以上自分と関われば、彼女らの立場も怪しくなるからだ。これからは皆で協力するようにと言い残して部屋を去るセリアの背中に、元部下たちが自分を呼ぶ声が突き刺さってきた。
かく言うセリアも、結果に納得しきれずに抗議を申し出ていた。しかし結果開示は叶わず、最後には「これ以上抗うならば、陛下への反逆罪とする」と騎士たちに声高に宣言されたものだから、引き下がるしかできなかった。
ミュリエルはわざわざセリアの元まで来た。彼女はセリアに勝てたことが本当に嬉しいらしく、「私ってやっぱり、セリア様より優秀だったのですね!」「陛下からも、セリア様に代わってよく勤めよと言われました!」と何の裏もなく喜んでいた。さらには、「私の部下になるなら、聖奏師団にいてもいいですよ?」とのたまってきたので、断固拒否した。
ミュリエルのもとにつくなんて、御免だ。
それくらいなら、聖奏師を辞めると言った。
言ってしまった。
その日のうちに、セリアの聖弦は皆の前で燃やされた。
十年近くセリアと共に頑張ってくれた聖弦が炭になり、灰になり、ぼんやりとするセリアの目の前でさっさと埋め立てられる。一連の作業中、セリアは何も言えなかった。
筆頭の地位。
聖奏師としての立場。
公爵家令嬢の身分。
そして――エルヴィスの妃となる可能性。
全て、失ってしまった。
セリアの手元に残っているのは、軽い鞄ひとつのみ。
何も、何も残っていない。
何も、誇れるものがない。
「――リア!」
迎えの馬車が来るのをぼんやりとして待っていたセリアの背後に、青年の声が掛かった。
セリアは目を瞬かせた後、両手で思いっきり頬を揉んだ。
そうして顔のマッサージと笑顔の練習をした後、微笑の仮面を被って振り返る。
「……デニス」
「よかった、間に合った!」
全力で駆けてきたのだろう、デニスは長い金髪がぐしゃぐしゃになりながらセリアの前まで来た。
セリアは泣きたくなる気持ちを抑え、首を横に振った。
「……ごめんなさい、デニス。私、あなたの応援に応えられなかった」
「何を言っているんだ、セリア。あんなの絶対におかしい」
デニスははっきりと言い切り、驚くセリアの肩にそっと両手を乗せてきた。
彼の藍色の双眸には、かたい決意の炎が宿っている。
「一緒に抗議しに行こう。今ならまだ、試験結果がどこかに置いてあるはず。それを探して内容を確認するんだ」
「な、何を言っているの!?」
「僕はセリアがどんな子かよく知っている。だから自信をもって言える。あの勝負はフェアじゃない。きっと誰かが不正を――」
「デニス! やめて!」
たまらず大声を上げ、セリアはデニスの制服の胸元を掴んだ。
出会った頃はひょろひょろの少年だったデニスの胸は今、制服越しにでもよく分かるしっかりとした筋肉を備えていた。
「そんな滅多なことを言ってはだめよ! 私だけじゃなくて、あなたまで罪に問われてしまう――!」
「だからって、君が一人で去っていくのを指銜えて見守るなんて、僕は嫌だ」
「無関係のあなたまで巻き込んでしまうことの方が嫌よ! ……ねえ、デニス。あなた、夢があるって言ってたじゃない」
それは、今から五年ほど前のこと。
学校卒業間近だったセリアは、図書館で勉強中にデニスに聞いてみたのだ。
夢はあるか、と。
セリアの夢は、ランズベリー公爵家の名に恥じない立派な聖奏師になること。デニスはその夢を聞いて笑顔になり、「応援しているよ」と言ってくれたのだ。
だから、セリアも聞いてみたのだ。そういうデニスはどうなのか、と。
結果、デニスの答えは「ある」だった。
何が彼の夢なのかまでは教えてくれなかったが、どうしても叶えたい夢、目標があると言っていた。
「それがどういう夢なのかは分からないけれど……あなたには、夢を叶えてほしいから。ほら、私の夢は……もう、叶わなく……っ……!」
「セリア」
目の前で燃やされた聖弦の有り様が脳裏に蘇り、今になって目尻が熱くなる。
突貫工事で作った仮面が剥がれ落ち、素顔が露わになってしまう。
デニスはハンカチで目元を拭うセリアを悲しそうな目で見た後、大きく息をついた。
「……セリア、君に渡したいものがある」
「え?」
「こっちに来て」
デニスはそう言ってセリアの手を引っ張った。彼に誘われるまま付いていったセリアは、城の通用口脇に置かれた大きな布の塊を目にして首を捻る。
この通用口は先ほどセリアも通ったのだが、こんな荷物は置いていなかったはずだ。
デニスは荷物の前まで来るとセリアの手を離し、荷物の口を縛っていた紐を解いた。
そこから姿を見せたのは――
「……! そ、それ……」
「すり替えがうまくいってよかったよ」
デニスは微笑み、袋から中身を半分ほど引っ張り上げてケースの留め金を外した。
革のケースから姿を見せる、妙な形の木枠。
そのボディに彫られているのは、セリアの名前。
「僕たちにとっては、聖弦とそうじゃない偽物の区別なんて付かないからね。急いで偽物をこしらえたんだ。灰になって埋められたのは、僕が準備した偽物だよ」
「……あ、ああ……!」
無事だった。
燃やされたとばかり思っていた長年の相棒が、無事だった。
思わずその場にへたり込んだセリアの肩を、デニスが優しく撫でてくれた。
「これは君が持っていくべきだよ」
「……あ、ありがとう、デニス」
「どういたしまして。それより……これから、どこかに行くんだろう。どこ?」
「……グリンヒル」
デニスに尋ねられたセリアは、小さな声で答えた。
グリンヒル。
具体的にどのような場所なのかは、よく分からない。
ただ、グリンヒルの存在するヴェステ地方出身の聖奏師からは、「緑がいっぱいで気持ちのいい場所」と聞いていた。だから、何もかもを忘れて心穏やかに過ごしたくて、グリンヒル行きを選んだのだ。
グリンヒルの名を聞いたデニスは、「なるほど」と頷く。
「あそこならセリアも落ち着いて暮らせるかもね。王都からは結構離れているけれど……君にとってはそっちの方がいいだろう」
「……うん」
「でも、ここから離れていても年頃の聖奏師ってのは目立つからね。聖弦は返すけれど、これから先は聖奏師であることは隠して生きた方がいい」
デニスの言うとおりだ。
愛用の聖弦は手元に帰ってきたが、これを弾くとどうしても目立ってしまう。それに普通の竪琴と違って弦が眩しく輝くので、一発で聖奏師だとばれてしまう。
これから先は、元筆頭聖奏師とは全く違う人生を歩みたい。
できるなら、王都から遠く遠く離れた場所で。
聖弦のケースを袋ごと抱きしめ、セリアはこっくり頷いた。
「……うん。デニス、何から何まで本当にありがとう」
「いいんだよ、僕が好きでやったことだ」
「でも、私、あなたに何も返せないわ」
恥ずかしいことに、公爵家から追放されたセリアにはあまり金がない。筆頭聖奏師として稼いだ金も、ややもすれば底を尽きるだろう。
「その、少しならお金もあるから、それでよかったら――」
「何言ってるんだ。僕はお金とか見返りを求めているわけじゃ――あ」
「えっ」
「それじゃあさ、お金はいらないから――最後に、抱きしめさせてもらってもいい?」
「――えっ」
ぽかんとするセリア。
デニスは夕日を横顔に浴びつつ照れたように笑い、両腕を広げてみせた。
「……あのさ、僕何となく分かっていたんだ。君、この城に好きな人がいるんだろう?」
「っ……!」
「その人に操を立てたいのなら、断ってくれていいよ。代わりに、ボディブローでもくれれば十分だか――」
「デニス」
セリアは迷わなかった。
聖弦の入った袋を足下に置き、前に踏み出す。
思いっきり飛び込んだつもりなのに、デニスの体はびくともしなかった。少しぐらいぐらつくかもしれないと思ったので、なんだかおもしろくない。
デニスは自分で誘ったくせに、いざセリアが飛び込んでくると狼狽えたように「え? うわ、まじ? てか柔らかっ」と動揺していたが、すぐに腕を回して優しくセリアの体を抱きしめてくれた。
エルヴィスとは全く違う、男性の腕の中。
(……もう、忘れないといけないのね)
もう、エルヴィスと話をすることもできないのだ。
だから、捨てなければならない。
生理的に溢れてきた涙を、デニスの制服の胸元に顔をこすりつけることで誤魔化す。デニスの右手の指先がセリアの赤金髪を優しくくしけずり、もう片方の手があやすようにぽんぽんと背中を叩いてくれる。
「……行ってらっしゃい、セリア。君の無事を願っているよ」
「……うん。行ってきます、デニス」
セリアの足元に転がっている聖弦。
弦を張られていないのに。誰も触れていないのに。
ピン、と微かな音が響いた気がした。