落ちぶれ才女の幸福
「あ……」
「セリア?」
さすがにセリアの様子がおかしいと分かったのだろう。
デニスは座り直してセリアに向かい合い、冷や汗とショックで震えるセリアの右手をそっと握った。
「どうしたんだ、セリア」
「……私、弦が張れなくなったの」
「……え?」
セリアはデニスの方を見ることなく、震える唇をなんとか動かして言葉を紡ぐ。
「何も……何も感じられないの。今までは、精霊の力が伝わってきたのに……何も。だから、弦が張れない。聖奏が……できない」
「それって――」
デニスが声を上げたため、セリアは俯いてしまった。
彼も同じことに思い当たったのだろう。
デニスの呪いを解くためにセリアが受けた、「代償」。
それは、一年間の眠りに就くことではなかったのだ。
(そうだ。私はあの時、白い世界で問われたわ)
――その曲を奏でる覚悟はあるのか?
――全てを失ってでも、その男を生かしたいのか?
あれはきっと、精霊たちの声だったのだ。
全てを――セリアが聖奏師として生きる力を失ってでも、デニスを助けたいのか。
これから先聖奏ができなくなったとしても、デニスの呪いを解きたいのか。
セリアが代償として失ったのは、聖奏師としての力。
これまでの一年間の眠りはきっと、力を失ったことでセリアの体が弱ったから起きたことであり、眠りが代償そのものではなかったのだ。
そもそもデニスが受けた呪いは、普通の聖奏では治癒できないほど悪質で根性のねじ曲がったものだった。
それを治すことができ、セリアも聖奏師の力を失ったとはいえ五体満足で生きている。
それはきっと、奇跡に近いことなのだ。
二人とも死ぬ、もしくは相手を残して自分だけ死ぬ、ということにならず二人が生きているのだから。
おおよその予想が付いたらしいデニスの顔をそっと見上げ、セリアは力なく微笑んだ。
「……あなたの呪いを解いた代償は、私の力だったのね」
「セリア……僕は、君の力を――」
「やめて、滅多なことは言わないで」
セリアは聖弦を足下に置き、真っ青になったデニスの頬に両手を宛った。
「私は自分で選んだのよ。全てを捨ててでもあなたを助けたいと思った。だから――これは当然のこと、しかるべき代償なの」
「でも、君は聖奏師であることを誇りにしていた! 僕を助けなかったら、君は――」
「――ええ、きっと私は、あなたへの未練たっぷりのまま生きていたわ」
やや低い声で言ったセリアは、両手にぐっと力を込めた。
皮膚が引っ張られて困ったような顔になるデニスを、セリアは三白眼で睨みつけた。
「それに、あなたを見捨てることになっていた。あなたはきっと、私に未練を残さないためにあの夜、わざと私を突き放したのでしょう。でも、あなたが死んだことはいずれ私の耳に入る。その時に私が悲しまないとでも思ったの!?」
「い、いや、だって――」
「だっても何もないの! ……ねえ、デニス。もしあなたの命の代わりに私の力がなくなったことを悔やむのなら――私の願いを叶えて」
「セリア――」
「一緒にいて、デニス」
ぐにぐにとデニスの頬を引っ張ったり揉んだりしていた手を離し、セリアは真っ直ぐデニスの目を見つめた。
夜空をそのまま切り取ったかのような藍色の目。
セリアが大好きな色。
「私にはもう聖奏の力もないし、料理をすれば怪我するか調理器具を破壊するだけ」
「おまけに、紅茶を淹れれば激マズ」
「分かってるじゃないの」
「君のことならよく分かっているつもりだよ」
「……それもそうね。でもそんな私のことをよく分かっているあなただから、側にいてほしいのよ」
「何を今さら」
デニスの藍色の目が優しく、甘く、とろけるような光を孕んでセリアを見つめる。
「料理が得意じゃなくていい。聖奏だって、そもそもおまけみたいなものだ。僕は、君さえいてくれればいいんだ。聖奏師じゃなくてもいい、ただのセリアが――好きなんだ」
聖奏師じゃなくても。
女性らしいことができなくても。
身分も何もない、ただの「セリア」でもいい。
デニスは柔らかく微笑み、優しい手つきでセリアの腰を抱き寄せた。
セリアの体は抵抗することなく、デニスの腕の中に収まる。
彼の上着に頬擦りすると、石けんに混じって彼の匂いがした。
優しくて、胸がどきどきするような匂い。
セリアの大好きな匂い。
「……僕はいずれ、地獄に堕ちるだろう」
「……」
「だからそれまでの間、君を守らせて。僕のことは一生許さなくていいから、君が掬い上げてくれたこの命が尽きるまで、君を守りたいんだ」
「いやよ」
「えっ」
「私、あなたも言っていたようにじゃじゃ馬だから。どこまででもついていくわ」
してやったり、とばかりにセリアは微笑んでデニスを見上げる。
「一人で罪を負って一人で地獄に堕ちるなんて、許さない」
「……それで君は幸せなのかい?」
「私を好いてくれるあなたの側にいることが、私の幸福よ」
セリアはたくさんのものを失った。
だが、失ったからこそ手に入れられたものもある。
失ってでも手に入れたいと思ったものがある。
デニスは藍色の目に柔らかな炎をともしてセリアの顎の下に片手を添え、くいっと上向かせた。
「デニス――」
「さっきはチビたちに邪魔されてしまったから、ね?」
色気のある掠れた声で囁いたデニスの顔が、近づいてきた。
二人の唇が触れ、重なり合い、相手の熱が伝わってくる。
「僕を許さないで」
「うん、一生許さない」
口づけの合間に囁かれた台詞は、普通の恋人たちが囁く睦言とはだいぶ毛色が違う。
だが、二人にとってはかけがえのない愛の言葉であり、誓いであった。
『こんにちは。隣、いいかな?』
『平民が話しかけないでくださいまし』
あの日、全てが始まった。
セリアにとって鬱陶しいと思っていた少年はやがて友人になり、信頼できる人になり、敵になり、そして地の底まで同行したいと思える人になった。
デニスにとって復讐の対象だった少女はやがて友人になり、片想いの相手になり、敵になり、そして生涯かけて守りたいと思える人になった。
たくさんの曲がり道があり、山があり、すれ違い、ぶつかり合い、辿ってきた二本の道は、やっと寄り添うことができた。
道中失うものがあっても、行く先に大きな穴が空いていようと、手を取り合っていきたい。
(私はこれからただの人間として、デニスと一緒に生きていく)
この緑の丘で、皆と一緒に。
寄り添い夜空を見上げる恋人たちの隣で。
弦を張られていないただの木枠のはずの聖弦が、ピン、と微かな音を立てた気がした。
完結です
お付き合いくださりありがとうございました!




