代償
流血R15・胸糞注意
――体中が痛い。
「ディートリヒ様!?」
誰かが耳元で叫んでいる。
デニスはうめき、目を開いた。
「っ……僕は……?」
「なんと……お目覚めになりましたか、ディートリヒ様!」
デニスが目を覚ましたことで、その体を支えていた騎士が裏返った声を上げた。
デニスは彼の手を借りて体を起こし、自分の隣で倒れるセリアを見、さっと青ざめた。
「セリア!」
急いでその体を抱き起こす。
目立った外傷はなく、体は温かい。生きている。
彼女の脇には、愛用の聖弦が。光り輝く弦は全て消えており、ただの木枠となって横たわっていた。
「ディートリヒ様、痣が――」
騎士に指摘され、デニスはおそるおそる自分の左胸に手をやった。
十年間、彼の体を静かに蝕んでいた呪いの痕。触れるとじくじくと痛んだその肌は今、滑らかで傷ひとつ残っていない。
ゆっくりと視線を上に向けると、玉座の前にエルヴィスが横たわっていた。その体はびくとも動かず、死亡しているのが明らかだった。
エルヴィスは死んだ。
そして、デニスは生きている。
「セリア……君が、僕の呪いを解いたのか――?」
デニスは静かに眠るセリアを抱きしめ、その額に自分の額を押し当てた。
「セリア――!」
その名を呼び、ただただ愛する女性の体を抱きしめる。
騎士はそんなデニスたちをいたわしげに見ていたが、にわかに入り口の方が騒がしくなったためそちらを見やった。
奇妙な音色。
騎士たちの呻き声。
謁見の間の入り口に、一人の娘が立っていた。
可愛らしかった顔は鼻血を出したために真っ赤に染まっており、髪もドレスも無惨なことになっている。
そんな彼女は、フラフラと足取りも怪しく歩きながら聖弦を奏でていた。
誰も聞いたことのない、怪しげで聞いているとぞっとするような音色の曲。
「貴様――!」
デニスとセリアの時間を邪魔させてはならないと、騎士は剣を抜いて立ち上がる。
だが娘――ミュリエルは目の前に剣を突きつけられても平然としており、恐ろしいほどの無表情のまま、曲を奏で続けた。
彼女が奏でているのは、セリアが持っているものと同じ聖弦。
何度も聞いてきた楽器の音色のはずなのに、奏でる曲が違えばこれほどまで印象が変わるものなのだろうか。
ミュリエルに剣を向けていた騎士がおもむろにその場に膝を突き、苦しそうにあえぐ。デニスもまた、胸の奥を引っかき回されているかのような不快感と吐き気に顔をしかめ、自分の隣を通り過ぎていくミュリエルを睨んだ。
「ミュリエル、一体――」
「……そうする約束なの」
返事はないと思っていたのに、ミュリエルはそう応えた。
デニスに背を向けたまま、聖弦を奏でる手を止めず、彼女は滑らかに言う。
「もしものことがあれば、って約束したの」
「何のこと――」
言いかけて、デニスは息を呑んだ。
視界の端に映っていたエルヴィスの遺骸。
それが、びくっと動いたのだ。
「……嘘だろう」
舌がもつれそうになる。
体中の血液がドクドクと鳴り、セリアを抱きしめる手のひらに汗がにじむ。
エルヴィスがゆっくり立ち上がる。
胸から流れていた血はいつの間にか止まっており、彼は足元に転がっていた剣を拾い、ゆっくりと歩きだした。
そして、それまで無心に聖奏を行っていたミュリエルが最後の和音を奏でたとたん、彼女の体は糸の切れた操り人形のようにその場にばったりと倒れた。取り落とした聖弦が、乾いた音を立てて床に落ちる。
エルヴィスは緩慢な動作で玉座の間を見渡し、デニスを見、その腕の中で眠るセリアを見、最後に自分の足元で倒れ伏すミュリエルを見、血の香りのする息を吐き出した。
「……そうか、呪術を受けたのは王子ではなく、おまえだったのか、デニス。そして、能なしだとばかり思っていたセリアが呪いを解くとはな」
「エルヴィス、おまえは――」
――生き返ったのか。
未知の恐怖を前にして呆然とするデニス。
一方、ミュリエルは震えながら面を起こし、エルヴィスの姿を見てほっと安堵の息をついた。
「あ、ああ……エルヴィス、さま……どうぞ、ご無事で……」
「ああ、おまえが約束通り聖奏したからだな。感謝する」
「うれ……しい……ねぇ、エルヴィスさま……わたしを、おきさきに……」
「今までご苦労。さらばだ」
エルヴィスはミュリエルを見下ろし、剣を振り上げた。
「えっ」と、ミュリエルの唇から小さな声が上がる。
そしてそれが、彼女のが発した最後の言葉となった。
鈍い音を立てて、分厚い剣がミュリエルの背中を貫いた。
床に倒れ伏した格好だったミュリエルの体は標本の蝶のように串刺しになり、ガフッと血の塊を吐くと、そのまま動かなくなった。
そんな一連の動作を前にしたデニスはほんの少しだけ眉根を寄せた後、吐き捨てるように言った。
「……それもまた、禁断の聖奏だったのか」
「そうだな。最初はセリアにさせるつもりだったが、ミュリエルでも十分だったな」
剣を引き抜いたエルヴィスがなんてことないように言い放つ。
とたん、かっとデニスの藍色の目が燃え上がった。
最初はセリアにさせるつもりだった。
つまり彼は、もしセリアが筆頭から退かなかったらいざとなったときに、セリアを犠牲にするつもりだったのだ。
筆頭聖奏師のみ奏でられる、禁断の聖奏。
もし自分が予期せぬ死を迎えたとき、蘇らせる役目。
彼にとってのセリアやミュリエルは、その程度だった。
彼女らは、自分が蘇るための手駒に過ぎなかったのだ。
「……だからおまえは、筆頭聖奏師に執着していたのか? もし僕たちがおまえを討つことがあっても、聖奏で蘇らせるために。セリアたちを恋人にしたのは、そのためだけだったのか!?」
「偉そうなことを言える立場か、グロスハイムの虫けら。おまえとて、セリアを犠牲にして生き延びたくせに」
馬鹿にしたように笑ってくるエルヴィスを、ディートリヒは正面から睨みつけた。
腕の中のセリアの温かさ。彼女が死んでいないという証であるぬくもりが、彼の心を奮い立たせる。
「……おまえと一緒にするな」
「同じだ。おまえも、セリアの愛情を犠牲にした。そのために彼女を愛するフリをしたんだろう?」
「違う。僕は――」
「違わない。私もおまえも、セリアを利用した」
心底楽しそうに笑い、エルヴィスは血にまみれた剣を軽く振るう。
「なかなか簡単だっただろう? セリアは、居場所を求めていた。愛情に飢え、自分を必要としてくれる存在を渇望していた。才女と呼ばれようと、所詮は二十歳にも満たない初心な小娘。ちょっと心を揺さぶればあっという間に落ちてくれただろう?」
ディートリヒの喉が鳴り、その藍色の目に静かな炎が灯った。
エルヴィスは、セリアの孤独な心につけいったのだ。
両親を喪っており、公爵家からは駒として扱われており、城の人間からは疎まれている彼女に、居場所を与える。「たったひとつの愛」を餌としてちらつかせ、十七歳の少女の心を釣り上げた。
全ては、己の目的のために。
いつか自分が討たれたとき、自らを犠牲にしてでもセリアがエルヴィスを生き返らせるために。
その犠牲となる女性は、誰でもよかった。
エルヴィスに絶対的な愛を捧げ、筆頭聖奏師として禁書の聖奏ができる者ならば、誰でもいい。
だからエルヴィスは二年前、セリアの敗北を知ってあっさりと彼女を棄てたのだ。
使えない女には、用がないから。
より優秀で従順な女――ミュリエルがいればいいから。
「……セリアをあっさり棄てたくせにミュリエルの時には恋人として公表したのは、国力が衰えて後に退けない状況になったからか。筆頭聖奏師を逃がさないために、妃の座を約束させたんだな」
図星なのだろう、エルヴィスが不快そうに眉根を寄せてデニスを睨みつけてくる。
デニスはセリアの体を床に横たえ、立ち上がった。
そうしてエルヴィスの血で濡れた剣を拾い、絨毯の上を歩きだす。
「……ほう? まだ戦うつもりか?」
エルヴィスの言葉に、ディートリヒは顔を上げた。
一度、捨てた命だった。
それを、セリアが決死の覚悟で拾い上げてくれた。
ならば、デニスがすべきことは。
「……忘れたのか。おまえは一度、僕に負けている」
剣を構えたデニスは、美しく、気高く笑った。
「敗者は大人しく地に伏せていろ。もう一度――おまえを、討ち取る」