踏み越えてゆくもの
ヴェロニカたちはグロスハイム軍に保護されているので、これからは本陣に留まって聖奏によって皆を助ける予定だという。
「セリア様、デニスさんをお願いします」
馬に乗ったセリアに、ヴェロニカが言った。
セリアは馬に乗れないので、この先は騎士の前に乗せてもらって王城に向かうのだ。
埃避けのフードを被ったセリアが振り返ると、ヴェロニカは真っ赤に泣きはらした目を真っ直ぐセリアに向けていた。
「私、何となく分かったのです。デニスさんはきっと、ここで死ぬつもりなんです」
「……ヴェロニカ」
「でも、そんなのおかしいです! セリア様、お願いします!」
「……ええ、任せて。ヴェロニカこそ、本陣のことは頼んだわ」
「はい!」
元気よく返事をしたヴェロニカに頷きかけ、セリアは前を向いた。それを合図に騎士は馬に鞭をくれ、立派な体躯を持つ軍馬が走りだす。
(急がないと。デニスがエルヴィスを討つ前に行かないと――!)
セリアを乗せた馬は、グロスハイム軍の駐屯地を颯爽と駆け抜けていく。
皆は馬のためにそそくさと道を空けてくれるので有り難い。
――だが。
「止まれ! おまえ、セリアだろう!」
何となく聞き覚えのある声。
「……何か聞こえたか?」
「いえ、気のせいです。どうぞ前に――」
進んでください、と言いかけたが、いきなり目の前に人影が踊り出たため、馬が驚いて高く嘶いた。
騎士が舌打ちし、左手でセリアを抱えて右手で手綱を引っ張る。がくんと体が揺すぶられたセリアはうぐっと呻き、聖弦だけは取り落とさないように両腕で抱え込んだ。
しばらくするとやっと馬は落ち着いてくれた。
騎士は馬をなだめつつ、進路に飛び出してきた人物を睨みつけて怒鳴り上げた。
「貴様、軍馬の前に出るとは愚かな!」
「黙れ! 悪辣なグロスハイムの狗が過ぎた口を利く!」
騎士のもっともな説教も何のその、相手の人物は唾を飛ばしつつ、言ってはならぬことを堂々と叫んだ。
その身なりや今の状況からして、どう考えても彼は今グロスハイムに保護されている国民だというのに。
怒りで身を震わせる騎士には目もくれず、その人物はつかつかと歩み寄ってセリアを睨み上げた。
「セリア! この薄情者! 貴様のせいで我々は全てを失った!」
「……」
「平民の小娘に敗北して惨めったらしく出ていくのみに留まらず、あらぬ噂も立てられおって! 貴様のせいでアーリンは筆頭に冷遇されて除名処分を受け、公爵家は没落したのだ!」
「……はあ」
セリアは嘆息し、足元でわめき立てる中年男を見下ろした。
中年男――セリアの叔父であるランズベリー公爵は、二年前よりも白髪も顔の皺も増えたようだ。
(不思議。二年前はこの人に嫌われることを恐れていたのに、今では何とも思わない)
叔父の姿を目にしても、聖奏師団に入ってミュリエルに虐められたとかいう従妹アーリンの名を聞いても、何も感じない。
中身のない相槌を打つセリアにまたしても腹が立ったようで、ランズベリー公爵はあろうことか、馬に跨っているセリアの左足を持っている杖で殴ってきた。
さしものセリアも無表情を貫ききれず、悲鳴を上げてしまう。
「痛っ!」
「大丈夫か、セリア!?」
「はっ、グロスハイムの男をたぶらかしたか!? この汚らしい娼婦め! どこまで公爵家の名に泥を塗れば――」
「……けて」
「何?」
「……邪魔だから、退けて」
一切のぬくもりの籠もらない言葉。
初めて、セリアは叔父に刃向かった。
これまで一度たりとも姪に逆らわれたことのない公爵は、唖然として杖を取り落とす。
その瞬間、騎士が馬の手綱を引き、軍馬が嘶きと共に前脚を振り上げた。
「ひ、ひぃっ!?」
軍馬は体格がいいだけでなく、背が高い。前脚で蹴り飛ばされたら最悪命はない。
公爵は真っ青になって後退し、その場に尻餅をついた。
馬はそのまま公爵の側を通り抜け、セリアは最後にさめた眼差しを叔父に送った。
あんなに恐れていたのに。
あんなに公爵家の名にしがみついていたのに。
あんなに、叔父に嫌われないように必死になっていたというのに。
(私だって、何もかもを失った。失ったけれど、今の私にはやるべきことがある)
それの邪魔をするなら、叔父にだって遠慮しない。どうでもよかった。
ランズベリー公爵は尻餅をついたまま唖然として、走り去っていった軍馬を見送る。
もわもわと砂埃が舞い、彼が着ていたローブを白く染めていく。
「……あ、あの、生意気な小娘め――!」
公爵はフラフラと立ち上がった。
そんな状況でも周りの者たちが彼を見る目は冷ややかで、誰一人として助け起こしに来る者はいない。
「小癪な、生意気な――」
「……あー、おっさん、邪魔邪魔ぁ!」
追いかけてやろうと杖を手に取った公爵だが、背後から元気いっぱいの少年の声が聞こえてきてはっと振り返った。
だが、軍馬は間近まで迫っている。
「ぎゃあっ!?」
「そんなところに突っ立ってるからだよー。じゃあね、おっさーん!」
正面衝突は避けられたものの、馬の横腹に吹っ飛ばされた公爵は悲鳴を上げて砂埃の中を転がっていった。
陽気な少年の声はすぐに遠ざかり、その場には静寂が訪れた。
「ぐっ……げほ、どいつも、こいつも――!」
血を吐きながら上体を起こした公爵だが、そのまま力なく倒れ込んだ。
彼は知らない。
グロスハイムのことを罵倒した自分はこれから先、グロスハイムからの保護を受けられないことを。
コンラート王子の最後の温情をもはねつけた結果、彼含むランズベリー公爵家の面々は王都から追放され、極貧の中息絶えることを。
何も、知らない。