邪炎
東門から王城へのルートは頭の中にしっかり叩き込まれている。
騎士団の連中は、地味な市街地警備の仕事を嫌っており、面倒だからとディートリヒに押しつけていた。
きっと皆は、ディートリヒは嫌な仕事でも受け付けてくれると楽観的に考えていただろう。
だが、ディートリヒとてそこまでお人好しではない。
市街地警備を重ねることで王城の造りを把握し、この道は軍馬が通れるか、退路に使えるか、曲がり角が多すぎないかと、来たる日のために準備を重ねてきたのだ。
「全軍、次の十字路を北へ曲がれ!」
ディートリヒの号令で、グロスハイム軍は大通りから一本はずれた道を疾走する。十字路の先で待ちかまえていたファリントン軍の驚き戸惑った様子がちらりと見えた。
一見、この大通りを真っ直ぐ西に進めば王城に到着すると考えられる。現に王城の姿はもう目の前にあるのだから。
だが、この大通りを西に行けば結果として大回りになってしまうことを、ディートリヒは知っていた。この先には年代を感じさせる教会があり、王城に行くには教会を迂回しなければならない。だが迂回路を進めばあっという間に王城から離れていってしまうという造りをしているのだ。
そのため、先ほどの十字路で北に迂回する。王城から遠ざかったと思われるのは一瞬のことで、先ほどよりは細い道ではあるが確実に王城までの距離は狭まっていくのだ。
――その時。
ボシュッ、と少し間の抜けた空気の音が辺りに響いた。直後。
突如、目の前の大通りに真っ赤な炎が立ち上った。
先頭を走っていたディートリヒはぎょっとして馬を止め、いきなり目の前で炎が炸裂したため驚き嘶く馬を必死でなだめた。
「ちっ……! なんだ、この炎は――!?」
「油の臭いもしなかったのに、これほどまで燃えるものですか……?」
「これも、ファリントン軍の仕業ですか!?」
同じように足を止めた騎士たちも、呆然として目の前に燃え広がる炎を見つめていた。
目の前の炎の壁は、馬上のディートリヒたちが見上げなければならないほどの高さまで燃え上がっていた。炎の色はやけに赤っぽくて、辺りの家屋を巻き込みながら炎上しているというのに煙すら立てない。それなのにここまで届いてくる熱は普通の炎以上で、地面には陽炎が揺らめいている。
――突如響いた甲高い悲鳴に、ディートリヒははっとして顔を上げた。真紅の炎の中で、動く者の気配がする。
「……人がいる!?」
「なりません、ディー――コンラート様!」
「……分かっている!」
ディートリヒは歯がみし、どんどん広がってゆく炎上網と、飲み込まれる家屋、そして巻き込まれた市民の悲鳴から逃れるように馬を後退させる。
(これは、普通の炎上網じゃない。さては――呪術か!?)
ディートリヒとて、呪術に精通しているわけではない。
だが、禁書を読むことができ、十年前に忌々しい呪いを施したエルヴィスならば――
(国民がどうなってもいいというのか!)
噛みしめた歯が軋んだ音を立て、ディートリヒは振り返る。
全力で疾駆してきたためファリントン兵を撒いたと思ったのだが、後方から迫ってくる姿が見えた。このままでは炎上網とファリントン軍に挟み撃ちにされる。
「いかがなさいますか、コンラート様!」
騎士に問われたディートリヒは、舌打ちして手綱を引き寄せる。
「……この炎は、おそらく呪術だ。邪神の炎を消す方法は、我々にはない。……衝突は回避したかったが、仕方ない。ファリントン軍を迎え討――」
その時。
炎に包まれる市街地に、不思議な音色が響き渡った。
甘く優しい旋律が空を震わせ、得体の知れぬ炎に戸惑っていたグロスハイム軍を困惑させ、近くまで迫って聞いていたファリントン軍を驚愕させる。
(この音は――)
グロスハイムの者たちは音の正体が分からず戸惑っているようだが、ディートリヒには分かった。
「……コンラート様! 炎が!」
「何……!」
騎士に促されて振り返ると、先ほどまですさまじい勢いで町を侵食していた炎が悶え、ぷすぷすと情けない音を立て、徐々に縮んでいっていた。
あっという間に炎は消え去り、真っ黒に焼け焦げた地面が露わになる。
そして、道の先にいるのは――
「……聖奏師!?」
「聖奏師が、炎を消したのか!?」
「まさか、聖奏師はファリントン軍所属だろう!?」
騎士たちがどよめく中、ディートリヒは素早く指示を飛ばした。
「……グロスハイム軍よ、ファリントン軍を掃討しつつ、王城へ! 聖奏師の女性たちを全員保護しろ!」
惑っていたグロスハイム軍だが、ディートリヒの指示を受けて素早く動いた。
まず、三分の一の部隊がその場に止まってファリントン軍に向き直る。ファリントン軍も、聖奏師立ちが裏切ったことに気づいたようだ。「裏切り者め!」「聖奏師も殺せ!」と怒鳴っている。
そして残りの者たちはディートリヒに続いて、焦土と化した道を駆ける。途中、焼け焦げた家屋だけでなく犠牲になった者たちの遺骸も見え、ディートリヒは唇を噛みしめた。
道の先には、聖弦を抱えた女性たちが四人。彼女らは迫ってくるグロスハイム軍を見て腰を抜かしてしまったようで、互いに抱き合って震えている。かわいそうに、彼女らもまた十代半ばとおぼしき少女たちばかりだった。
背後でグロスハイム軍とファリントン軍が衝突している音を耳にしつつ、ディートリヒは聖奏師たちの前で馬を止めた。
「あなたたちは、聖奏師団の者だな」
「ひぃっ!」
「お、お助けを!」
「命だけは、お願いします!」
少女たちは高みから男たちに見下ろされ、泣きじゃくっていた。一人は既に失神しているらしく、仲間に抱えられて白目を剥いていた。
ディートリヒは数秒だけ躊躇った後、兜を脱いだ。
「……邪神の炎を打ち消してくれたのはあなたたちだな。助けてくれて、ありがとう」
「え?」
「……デニスさん?」
ぽかんとしていた少女たちの中から、ディートリヒの名を呼ぶ者がいた。どうやら、ディートリヒ――デニスの顔に見覚えがあったのだろう。
ディートリヒは微笑んで頷き、王城の方を手で示す。
「……あなたたちは国を裏切ったことになる。このままここにいては、ファリントン軍に始末されるだけだ。決して手荒なことはしないと約束するので、我々に同行してほしい」
「そんな……」
聖奏師たちは迷っているようだ。だがこうしている間にも、ファリントン軍を迎え撃っている自軍の消耗は激しくなる。
(彼女らは、セリアが大切に思っていた者たちだ)
彼女らを見殺しにはしたくない。
ディートリヒは兜を被り直し、思い切って言った。
「セリアが、あなたたちのことを懐かしがっていた」
「えっ!?」
「セリア様!? セリア様はご無事なんですか!?」
「ああ。元気にしている。……あなたたちが死んだら、セリアが悲しむ。だから、生きるのだ。共に来てくれ」
二年前に王都を去った元筆頭聖奏師セリア。
その名前を出すのはディートリヒにとってはある意味賭だったが、どうやら聖奏師たちの中で決定打となったようだ。
彼女らは立ち上がり、騎士たちの手を取った。一人、また一人と聖奏師たちは馬上に引き上げられ、気絶していた少女も助け起こされ馬に乗せられた。
「セリアは、あなたたちのことをしきりに懐かしがっていた。聖奏師団は今、どうなった?」
ディートリヒは自分の隣を併走する騎士に抱えられる聖奏師に尋ねた。
彼女は騎士に捕まりながらディートリヒを見、おずおず答える。
「……デニスさんが騎士団を辞める前よりも、酷くなっています。ペネロペは、国境の戦いに連れて行かれました。ルイーザとソニアも一緒です。私たちはなんとか城を脱出しましたが、何人もの仲間が途中で捕まりました」
「……そうか」
「あの、デニスさん! ペネロペたちは、グロスハイム軍との戦いに連れて行かれたんです。グロスハイムがここにいるってことは、あの子たちは――」
その問いに、ディートリヒは何も答えることができなかった。
途中で拾い上げた聖奏師たちはお荷物になるかと思いきや、そんなことはなかった。
「なぜデニスさんがグロスハイム軍にいるのかは、分かりません。でも、私たちが何をすべきなのかは分かります」
彼女らはそう言って、足元が不安定な馬上だというのに聖奏を行ったのだ。
優しい音色がグロスハイム軍を包み、騎士だけでなく馬たちまで活力を取り戻し、速度を上げる。
「すごい……!」
「これが聖奏か!」
聖奏になじみのないグロスハイムの騎士たちは興奮気味だ。
ディートリヒも、彼女らの演奏に素直に賞賛を送った。
「素晴らしい演奏だ。体の疲れが吹っ飛んだ」
「私たちなんて、まだまだです」
演奏して疲れたのか、聖奏師の少女はそう言って騎士にもたれかかりつつ微笑んだ。
「セリア様は……もっとすごかったのです。厳しいけれど優しくて、一生懸命なお方でした。……私たち、セリア様がミュリエル様に負けたことが未だに信じられないのです」
「……。……ミュリエルは、今もあんな感じなのか」
「ええと、はい。……ミュリエル様は、いつも陛下の側にいます。城の皆もミュリエル様を尊敬していて、私たちは僕みたいに使われているんです。実際に働いているのは私たちだけれど、陛下がミュリエル様ばかり重用なさるから、私たちにはどうしようもなくて……」
「……そうか」
聖奏師の部下たちのことを懐かしそうに語っていたセリアの顔が脳裏を過ぎり、ディートリヒは眉間に皺を寄せる。
王城は、間近に迫っていた。