追憶
コンラートたちとも合流したため、ディートリヒはいよいよ王都ルシアンナに向けて軍を進めていった。
国境戦までは別の将軍が指揮を執っていたが、これからはディートリヒが中心となる。
そうして王都に向かうまでに、グロスハイム軍は数度ファリントン軍と交戦した。だがどれも敵の敗走によって戦いは終わり、ディートリヒが剣を振るう機会はほとんどなかった。
「先ほど捕らえたファリントン軍の者によると、やはり今のファリントンは、聖奏師に頼りきりになっているそうだ」
正午、小川の流れる平野で休憩しているとき、コンラートがそう言った。
「君と合流してからここまで、我々は四回ファリントン軍を迎え撃った。でも、国境戦ほどの手応えすらなかったんだ」
「国境戦には聖奏師を同行していたから、少々は踏ん張れたのですね」
そう応えたディートリヒはふと、先日騎士から預かった品を思い出す。
それは、国境の砦で発見された聖奏師たちの遺品だった。どれも十代半ばくらいの少女ばかりで、発見された三人は全員首を切られ血だまりの中で息絶えていたという。
軍人ならともかく、無理矢理駆り出された非戦闘員である聖奏師の遺体を無下にするわけにもいかなかったようで、グロスハイム軍は彼女らの身分が証明されそうなものだけを預かり、その体は草原に埋葬したそうだ。
彼女らの遺品はディートリヒが一旦確認した。それらは名前入りの身分証明書で、プレートに彫られているのはどれも、セリアから聞いた覚えのある名前だった。
王都に行けば、ミュリエル以外の聖奏師にも会えるはず。
ただしセリアには「有給をもらった」と言ったのだが、実のところ彼は既に軍を退いている。退団してからはグロスハイムのために動き――そして、コンラートに頼み込んでしばらくの「猶予」をもらってセリアの様子を見に行ったのだ。
だから、とうの昔に騎士団から除籍されたディートリヒが聖奏師たちに会えるかは分からない。エルヴィスを討つ前にどうにかして彼女らと接触し、死亡した仲間の身分証明書を渡せたら渡したいところだ。
「その通りみたいだ。今回の四回の戦いには、聖奏師はいなかった。つまり、負傷したらそれまで。逃げることもできない。だから、怪我をする前に逃げてしまったんだろうね」
「聖奏師に頼りきりになる前なら、国のためにと戦えたはずですね」
ディートリヒはそう呟いた。
まさに、セリアが危惧した通りになったのだ。
聖奏の力に縋りすぎると、人間が本来持っている闘志や抵抗力を弱めてしまう。「聖奏さえあればなんとかなる」という自信は裏を返せば、「聖奏がないのならどうしようもない」という不安をかき立てることになるのだ。
ファリントン軍は、セリアを失ったことで瓦解した。
ここ二年ですっかり弱体化したファリントン軍は、もはや戦う意志も見せていないのだった。
ルシアンナに到着する前に、ディートリヒたちはいくつもの町や村に立ち寄った。
そうして気に掛かったのが、グロスハイム王国の国旗を掲げて堂々と進軍するディートリヒたちを前にしたファリントン国民の反応である。
中には、侵略者であるディートリヒたちを排除しようとする者もいた。石を投げてきて、侵略者たちを追い払おうとする。そういう対応をされたらどうしようもないので、大人しく引き下がることにした。そういった反応をするのは、比較的王都から多めの支援を受けている地域に多いという傾向があった。
だがほとんどの人は、「こうなったら、グロスハイムでもいいから助けてほしい」という状況だった。貧困にあえぎ、王都からの支援も届かず、必死の思いで送った嘆願書も無視される。
そんな扱いを受けた人々からすれば、戦争なんてもう「どうなってもいい」ようだ。町によっては、「今の王政を倒してくれるのなら」と宿や食糧を積極的に提供してくれるところもあるくらいだ。
「私は、ディートリヒがエルヴィスを討った後はファリントン全土も治めるつもりだ」
町人たちが進んで貸してくれた宿で休憩しているとき、コンラートがそう告げた。
「……昔は、ファリントン全土を焼け野原にするつもりでしたね」
「ああ、そういえばそんなことも約束したっけ。でも、私たちの考えを変えたのは君じゃないか」
そう言ってコンラートは目を細めて、向かいの席で茶を飲むディートリヒを見つめた。
「十年で、君は変わったんだね。討つのは国王や腐敗貴族だけにして、罪のない国民たちには恩を売って助命してやるべきだって言い出したんだっけ」
「そう……ですね。王都は腐りきっていますが、国民に罪があるわけではない。グロスハイムを襲ったのもごく一部の上層部の人間だけで、大半の国民にとっては全く関係のない話だと気づくと……非情になりきれなくて」
十年間、長かった。
だが今思い返せば、ディートリヒは変わったのだ。
(一番影響が大きかったのは、やはりセリアだな)
最初見かけたときは、「公爵家のお姫様」を絵に描いたような、可愛らしくて賢いけれど高飛車で偉そうな子だと思った。セリアがランズベリー公爵の姪――そして、ディートリヒの家族を惨殺した男の従妹だと知って、積極的に話しかけるようになった。いずれそのおきれいな顔をズタズタにしてやろうと、残酷なことも考えていた。そうしたら、彼女の死に公爵家はとても衝撃を受けるだろう―、いい気味だ―と。
だが、最初の頃こそ「近寄るな平民!」「わたくしにたてつくつもり!?」と喚いてた少女はやがて、態度を和らげ、無理矢理貼り付けていたかのような「お嬢様」の仮面を外し、年頃の少女の顔を見せてくれるようになった。
「……君にとって、例の筆頭聖奏師の存在はとても大きかったのだね」
コンラートの静かな言葉に、ディートリヒは苦笑した。
「はい。……最初は、嬲り殺してやろうと思って近づきました。しかし――彼女は両親を喪っており、公爵家の親戚は彼女を愛していないのだと気づいたのです」
「公爵家にとっての彼女は、便利な『駒』だったということか」
「はい。そんな彼女を殺しても公爵に対してダメージは与えられない、それに――必死に自分の居場所を確立しようとあがき、背伸びをしている彼女を見ていると、殺意なんて吹っ飛んでしまいました」
「……君がファリントンに潜入して二年後くらいだったかな。『王侯貴族はともかく、無辜の国民は助けてはどうか』と私に進言するようになったんだよね。筆頭聖奏師を逃がしたのも、彼女を戦争に巻き込みたくなかったからだろう?」
穏やかな眼差しを向けてくるコンラートに、ディートリヒは静かに頷いた。
家族を惨殺された直後は、ファリントンへの復讐に盲目になっていた。だがひとたびファリントン国へ冷静な眼差しを向けると、そこには戦争も侵略も関係なく、毎日平和な生活を送ることに幸福を感じている人たちがいることに気づいた。そしてセリアはあの糞公爵の姪ではあるが、彼女自身にはなんの罪もないことに、ようやく気づいたのだ。
十六歳になったセリアが筆頭聖奏師になったときには、心底焦った。口では彼女の立身出世を祝福しながらも、「これはまずい」と思っていた。
このまま侵略戦争を仕掛ければ、セリアは間違いなくエルヴィスの味方に付く。真っ直ぐな彼女のことだから、最期までエルヴィスに付き従うだろう。
どうすれば、うまく戦争を仕掛けられるか。
同時にどうすれば、セリアを王都から逃がしてあげられるか。
迷い、戸惑い、躊躇った末に手を掛けた不正である。
セリアを無事に逃がすためには、「殺すほどの価値もない」と皆に思わせなければならない。中途半端なことをすれば、「他国に流れ着く前にいっそ殺してしまおう」と命が狙われてしまう。
セリアは、ミュリエルよりも格下である。
そんなセリアを放逐しても、ファリントンにとって損にはならない。
セリアが城を去っても、誰も気にしない。
――そういう環境を作らなければならなかった。
一生懸命勉強するセリアの姿を見ていると、己がしでかそうとすることの罪悪感で吐きそうになった。
だが、一度決めたからには進路を曲げることはできない。
そうしてディートリヒは、セリアに嘘をつき、騙し、残酷に追いつめていったのだ。
「……私の都合を聞き入れてくださり、ありがとうございました」
「何を言うか。事実、君の提案した作戦によってグロスハイム軍もファリントン国民も被害は最小限に抑えられている。ヴェステ地方に寄ったというのも――今まで十年間、君に酷な仕事をさせてきた報酬と思ってくれればいい。……最後に会いたかったのだろう?」
コンラートの言うとおりだ。
セリアに会いたかったから。
その声を聞きたかったから。
死地に赴く前に、ディートリヒはグリンヒルに立ち寄った。
本当は、彼女との関係はきれいなままでありたかった。
あの時立ち聞きされていなかったら、彼女の記憶の中の自分は、ずっとずっと美しいままでいられたのに。
だが、聞かれたからには退けなかった。
「きれいなまま」ではいられないと悟ったディートリヒが取ったのは――「突き放す」という道だった。
もうディートリヒとの関係が美しいものでいられないのならばいっそのこと、とことんまで黒く塗りつぶしてしまえばいい。セリアの中で、ディートリヒは「最低最悪の糞男」になってしまえばいい。
そんな男のことなんて忘れて、幸せになってほしい。
セリアの口からエルヴィスへの思慕を聞いたとき、「あ、これは無理だ」と思ってしまったものだ。いくら鍛えても体は細く、背も思ったほど伸びず、容姿もエルヴィスの足元にも及ばないディートリヒは、彼女の恋愛対象にはならないだろう。
セリアは美しくて優しいから、彼女を求める男性は多いはず。
そういえば、たびたび顔を合わせた麓町の肉屋の青年、彼はなかなか誠実そうだった。彼ならセリアを慰め、寄り添い、幸せにしてあげるだろう。
それでいい。
ディートリヒは、自分の都合にセリアを巻き込んだ。
最初からグリンヒルに寄らなければセリアを傷つけることもなかったのに、恋心を押さえつけられなくなった結果、グリンヒルを訪れ、マザーの言葉に甘え、セリアの信頼を得た結果、傷つけてしまった。
そんなディートリヒには、セリアを幸せにする資格がない。
それにどうせ自分は――
「……君が生きているなら、それでいいんだ。それが、僕の願いだから」
ディートリヒは、窓の外で輝く星空に向かってそう呟く。
コンラートはそんな臣下を、物憂げな眼差しで見守っていた。