軟禁小屋の朝
――セリア、今日も勉強頑張っているね。
――こんなところで泣いて、どうしたんだい? …………そっか、辛かったね。
――聞いてよ、セリア! 今日の模擬試合でさ、いつも僕のことを田舎者って馬鹿にしてくる先輩に勝てたんだよ!
――セリア、グリンヒルはいいところだね。
――おやすみ、セリア。明日もよろしくね。
(デニス)
デニスが言ってくれたたくさんの言葉が、怒濤の勢いで押し寄せ蘇ってくる。
彼が与えてくれた言葉は、どれも優しい。
(信じていた、信じていたの)
デニスならセリアを理解してくれる。
デニスなら分かってくれる。
そんなデニスだから、セリアは彼のことが――
最初に戻ってきたのは、聴覚。
「……うん、分かった。まだ寝ているみたいだから、起きたら聞いてみるよ」
少年の声と、誰かの足音。
ドアが開き、閉じる音。
セリアは寝返りを打った。
枕はふわふわで、頬を寄せるとすっぽりと埋まってしまった。
妙だ。
セリアが普段使っている部屋の枕は、もっと硬いはず。
聴覚と触覚に続いて戻ってきたのは、嗅覚。
スープのいい匂いが鼻孔を擽り、空腹を刺激してくる。
そろそろ朝食の時間のようだ。
なんだか体はだるいが、厨房の手伝いをしなくては。
野菜の皮剥きや煮込みは苦手でも、食器の運搬や洗い物くらいならセリアにもできるのだ。
そして最後に戻ってきたのは、視覚。
朝食の手伝いに行こうと思って目を開けたセリアだが、カーテンの隙間から漏れる朝日が眩しくて布団に潜り込んでしまった。
妙だ。
セリアの部屋のベッドは、どちらの向きに寝ても顔に朝日が差し込んでくることはないのに。
「……ああ、起きているみたいだね」
少年の声に、セリアははっとして飛び起きた。
ぼんやりとており脳みそがうまく機能していなかった先ほどは、少年の声を耳にしても、「館の子かな」くらいにしか思わなかった。
だが、冷静になってみると知らない子の声である。
勢いよく飛び起きたものだから、上掛けが吹っ飛んでベッドから滑り落ちてしまった。ベッドサイドの椅子に座っていた少年が立ち上がり、「あーっ、もう!」と言いながら上掛けを拾う。
「朝から元気だね、お姉さん。おはよ」
「……え? …………え?」
「私は誰、ここはどこ、って言いたそうな顔をしているね」
少年がからかうように言うが、自分の名前が分からないほど朦朧とはしていない、とセリアは三白眼で少年を睨んでやった。
「……あなた、誰?」
「あれ、今の状況よりもおれのことが気になる?」
見知らぬ少年は上掛けを元に戻した後、椅子の上であぐらを掻いて座った。
短く刈り込んだ茶色の髪に、杏色の目。年は十代前半くらいだろうが、やはり館の子ではない。セリアの記憶では、麓町でも見かけたことはないはずだ。
「おれはパウロ。お姉さんの世話係に任命されたんだ。昨日の晩からお姉さんはずっと寝てたからね」
「パウロ……グロスハイム風の響きね」
「よく分かったね。お察しの通り、おれはグロスハイムの人間だ」
彼は自分の生まれに誇りがあるらしく、胸を張ってそう言った。
(グロスハイム……ああ、そうだったわ)
寝起きにいきなり動いたからかずきずき痛み始めた側頭部に手のひらを当てつつ、セリアは嘆息する。
(昨日の夜の出来事は――夢じゃなかったのね)
ファリントン侵略を企てる者たち。
彼らに「ディートリヒ様」と呼ばれていたデニス。
彼が告げた数々の真実。
残酷な真実を耳にしたことで悲しみ、壊れかけていた心は皮肉なことに、デニスの裏切りを知ったことで怒りへとすり替わり、セリアの感情を元通りにさせていた。
むしろ、昨夜よりも頭の中はすっきりしているくらいかもしれない。
「……デニスは、どこ?」
「ん? ……ああ、ディートリヒ様のことだね。ディートリヒ様たちは今朝早くに王都に向けて出発したよ」
「……エルヴィス様を討つ、のよね」
「そうそう。ディートリヒ様は強いからね、うまくいくに決まってる。……あ、お姉さんはファリントンの人間だから、王様を助けたいって思ってる?」
パウロの問いに、セリアは難しい顔をして黙った。
そんなセリアを見、パウロは調子よく続ける。
「てかさ、ファリントンってわりともう終わっちゃってる感じじゃない? おれも国内を見て回ったけどさぁ、王都はなんとか体裁を保っていたけど地方はそりゃあ酷かったよ。このヴェステ地方とは比べものにならないくらいの貧困具合だった」
「そんなになの……っ」
「ああ、喉が渇いているんだね。水と、あとご飯を持ってきてもらうからひとまず休憩しようよ」
パウロはそう言い、ドアの外に向かってきびきびと指示を出した。ドアの向こうにも人がいたらしく、しばらくして朝食と飲み物が運ばれてきた。先ほどからセリアの空腹を刺激している芳香の出所は、トレイの上で湯気を立てている野菜スープのようだ。
「はいどーぞ。毒なんて入っていないからね」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして――デニスは私を殺さないの?」
サイドテーブルに置かれた朝食を見つめ、セリアは掠れた声で問う。
昨夜のあれがデニスの本性ならば、グロスハイムの秘密を聞いたセリアを殺すことも躊躇わないだろう。
それなのに彼はセリアに薬を嗅がせた後、こうして世話係を付けた上で軟禁している。
死ぬのは御免被りたいが、デニスの立場からするとセリアをさっさと始末した方が後の憂いがなくてよいような気がするのだが。
するとパウロは困ったように眉根を寄せ、椅子の上でゆらゆらと左右に揺れ始めた。
「どうしてって……お姉さん、そんなに死に急ぎたいの? だめだよ、長生きして人生を謳歌しないと」
「死に急ぎたいわけじゃないの。でも……どうしてデニスが私を殺すより生かすことにしたのかが納得できなくって」
疑問に感じるのは、それだけではない。
昨夜のデニスの告白は、セリアの心を壊すには十分だった。
だが、今になって思う。
彼はどうして、身内のことやセリアを騙していたことなどを一切合切話してしまったのだろうか。
セリアを軟禁するにしても、何も知らない状態の方が扱いやすかっただろう。
(それに――去り際の、デニスの眼差し)
さよなら、とセリアに告げたデニスは――笑っていた。
悲しそうに、苦しそうに、今にも泣きそうな顔で、笑っていた。
どうしてそんな顔を――と問う前に、セリアは薬を嗅がされて気絶してしまったのだった。
(デニスの意図が分からない)
パウロは椅子の上でゆらゆら揺れつつ、唇を突き出して困ったような顔になる。
「えー、えー……それをおれの口から言うのはなぁ」
「だめなの?」
「……まあ、なんだっていいじゃん、生きているんだから。おれでよければ、暇な間のお喋り相手にならなってあげるよ。もちろん、軍の機密に関わることは無理だけどね。それにお姉さん、子ども好きなんだって? それならおれが見張りになった方がお姉さんの気も楽だろう、ってことでディートリヒ様に命じられたんだよ」
だからご飯を食べてね、とパウロに言われ、渋々セリアは匙を手に取った。
(また、疑問が増えたわ)
匂いに違わず美味なスープを堪能しつつ、セリアは思う。
(デニスは、わざわざ子どもの見張りを私に付けた)
きっとこの建物にはパウロ以外の見張りもいるのだろうが、セリアの身辺の世話を焼くのは十代半ばの少年で、しかもお喋り相手にもなるという。
セリアを監視したいのならば、体格だけで威圧でき、なおかつセリアが暴れてもあっさり押さえつけられるような屈強な男を側に置くはず。
なぜなのか。
疑問は増えるばかりだが、「パウロとのお喋り」が許されているならば遠慮なく行動するべきだ。
「……質問、してもいい?」
「はいどーぞ」
「今は、デニスが出発した日の午前中よね?」
「うん、二時間ほど前にディートリヒ様は館を出て、麓町のはずれで待機していた仲間と一緒にヴェステ地方を出発した。もうじき、国境付近に駐屯しているグロスハイム軍本隊と合流するよ」
機密事項以外なら教えてくれるとは分かっていたが、ここまであけすけに言われるとは。
セリアは偏頭痛を訴え始めた頭をこんこんと拳で叩き、質問を重ねる。
「それじゃあ、私のことはどうなっているの? 昨日の夜に館から姿を消しているってことになっているはずよ」
「ディートリヒ様がうまく説明したってさ。今、お姉さんはディートリヒ様を見送るために王都まで一緒に行っているって話になってるんだ。昨夜は、ディートリヒ様と一緒に夜の麓町で過ごしたって言っているんだって」
「なにそれ」
「まあまあ、細かいことはいいから。そういうわけで今後一ヶ月くらいお姉さんが帰らなくても、誰も心配しないから安心して」
いろいろ突っ込みたいところもあるのだが、デニスはセリアがいないことに関しても館の者に根回ししているということだ。館からの助けを待つ、というのは不可能だろう。