筆頭聖奏師の幸福
いちゃいちゃ注意
(今日も一日、疲れた)
退出の挨拶をして、最後の後輩が部屋を出て行く。
聖奏師の詰め所である作業部屋で仕事をしていたセリアは、うーんと背伸びをした。夕方からずっと書類仕事をしていたので、首を回すと妙な場所からコキコキと嫌な音がする。
今日一日、聖奏師たちの活動内容を記した報告書を束ねて紐で綴じた後、セリアはデスクの端に置いていた書類を手にした。
それは、明日入ってくる予定である新人聖奏師の調査書だった。
ミュリエル・バーンビー、十五歳。
ファリントン王国西、湖畔地域出身の一般市民。
誕生直後に受けた聖奏師検査ではあまり高い数値が出なかったものの、ここ数年でみるみる間に数値が上がってきたため、領主が金銭支援をして王城に上がることになったという。
ファリントン王国では、女児が誕生すると各地方領主の屋敷に参上し、聖奏師の資格があるかどうかを検査することになっている。公爵家令嬢であるセリアも王都の機関で検査を受け、ランズベリー公爵家に恥じない数値を叩き出した、と叔父から言われている。
叔父公爵の姉夫妻であるセリアの両親は十年以上前に事故で死亡してしまったが、両親も才能に恵まれたセリアの誕生を心から喜んでくれた――そうだ。
成長するにつれて聖奏師として能力数値が上昇することは、あまりない。そのためセリアも、最初書類を見たときには記されているミュリエルの情報に驚いたものだ。
(十五歳……私より二つ年下ね)
そう考えながら、二十数名いる聖奏師の顔を頭の中で思い浮かべる。
現在のところ、聖奏師としての腕前は間違いなくセリアが一番だ。セリアが筆頭になってまだ一年足らずだが、そもそも少女たちが聖奏師として役目を全うできる期間は短い。今から次の筆頭候補を考えていても遅くはないのだ。
実際に会って実力を確かめなければ何とも言えないのだが、もしミュリエルの才能が他の聖奏師たちを上回っており、彼女自身にそれだけの器があるのならば次期筆頭の座に据えるというのも十分考えられることだ。
筆頭の選出は先代筆頭の推薦の力が大きいものの、他の聖奏師たちや国王の承認も必要となる。皆の理解を得られるのならば、経歴や聖奏師としての就任期間はほとんど関係ないのである。
(どんな子かしら……みんなと仲良くなれるといいのだけれど)
大半の聖奏師はセリアより年下だが、皆可愛らしい。今朝のように叱ることもあるが、それでも可愛い後輩であることに間違いはない。ペネロペなんて今月に入ってもう何度叱ったか分からないくらいだが、それでも彼女は少しずつ成長していた。
数名は年上もいるが、筆頭であるセリアに従ってくれる。年長の彼女らは、セリアが困ったときには親身になって相談に乗ってくれるし手も貸してくれるので、セリアも彼女らに感謝していた。
明日入ってくるミュリエルも、しっかり指導しなければ。
ミュリエルの調査書をデスクに戻したセリアの耳に、ドアがノックされる音が届いた。
「セリア、在室だろうか」
そう問うてくるのは、青年の声。
とたん。
(あっ――)
とくん、とセリアの胸が甘くときめく。
それまで仕事のことや仲間のことばかり考え、詰まっていた頭の中がすうっと晴れ、ふわふわとした幸福でいっぱいになる。
「は、はい。今すぐ開け――」
最後まで言う前に、ドアが開かれた。
そこに立っていたのは、二十代半ばの青年だった。癖のある灰色の髪の隙間から覗く空色の目に見つめられると、体中をぞくぞくっとした甘い痺れが駆けめぐる。
彼は椅子から立った姿勢のまま硬直してしまったセリアを見て、後ろ手にドアを閉めるといたずらっ子のように微笑んだ。
「お疲れ、セリア。今日も遅くまでご苦労」
「へ、陛下こそ、お忙しい中おいでくださりありがとうございます」
セリアは椅子に躓きそうになりながら青年の元に駆け寄り、彼が差し出した上着を受け取る。肩章やバッジが大量に付いた上着は、見た目以上に重い。
「すぐにお茶をお淹れしますね。そちらにお掛けください」
「ああ、いつもありがとう。セリアの淹れる茶はとてもおいしいんだ」
「そう言ってくださるのは、陛下くらいですよ」
「おや、君の淹れる茶のおいしさが分からないなんて、世の男の舌はどうなっているのだろうかな」
そう言って青年は快活に笑う。
茶器を取り出しつつ彼をちらちらと窺うセリアの頬は、あっという間に真っ赤に染まった。
青年――ファリントン王国の若き国王であるエルヴィスは、慣れない手つきで茶を淹れるセリアの背中をじっと見ているようだ。こうして背中を向けて湯を沸かしている間も、彼の熱い視線を感じる。おいしく淹れようと心懸けるどころか、手元が狂って茶器を破壊しないように気を付けるだけで精一杯だ。
セリアが淹れた茶は、「ものすごく薄い」か「ものすごく渋い」かのどちらかだ。今回も茶葉を取り出した後おそるおそるポットの中を見てみたが、案の定その色はものすごく薄い。皆と同じように、同じ時間蒸らしているはずなのに、どうしてこうなるのだろう。
「ど、どうぞ」
カップに注いでエルヴィスに差し出す。
彼は上品な仕草で紅茶を飲んだ後、フフッと笑った。
「これはすごいね。色は薄いのにすごく苦い」
「す、すみません」
「いいんだよ。……それじゃあ、今日の報告を頼もうか」
カップを下ろしたエルヴィスに言われたセリアは表情を改めて、先ほど紐で綴じた書類を差し出す。
「はい。こちらでございます」
「……城下町の往診に、太后の診察。いつも助かっている、ありがとう」
「いえ……」
「騎士団の方でも仕事をしてくれたみたいだな。……私も先ほど耳にしたのだが、連中は君たちに対して心ない言葉をぶつけているということだが、どうなのだ?」
そう言って書類から顔を上げたエルヴィスの目には、暗い光が宿っている。
「騎士団には常日頃から忠告はしているのだが――」
「いいえ、私の性格が彼らに受け入れられないからでしょう。それに、あれこれ言われるのは専ら私のみ。部下たちは特に何も言われておりませんので、大丈夫かと」
セリアははっきりと応える。
部下たちがいわれのない暴言を吐かれたらセリアも黙っていないが、連中がぐちぐち言うのはセリアに対してだけだ。
自分の性格がきつく、頑固なのはセリアも分かっている。それが多くの者にはよしと思われず、煙たがれていることも分かっている。
(でも、分かってくれる人がいるから、大丈夫)
部下たちや、公爵家の親戚。一握りの顔見知り。
そして――
エルヴィスは黙って書類に判を捺した後、顔を上げた。
「……セリア」
「はい」
「こちらへ来なさい」
「……はい」
来た。
どくどくと脈打つ胸に手を当てたセリアは浅い息をつきながら腰を上げ、テーブルを回ってエルヴィスの座るソファへと向かった。
すかさずエルヴィスの腕が伸び、セリアの腰を抱き寄せる。
「陛下――」
「セリア、今だけは『陛下』はだめだと言っているだろう?」
「っあ……!」
エルヴィスはセリアの右の耳孔にふうっと息を吹き込みながらそう囁く。彼は、セリアが耳と首に弱いことを分かっているのだ。
思わずぞくっと身を震わせたセリアは、エルヴィスを見上げた。
宝石のように輝く彼の目を見ていると、酒に酔ったかのように頭の中がぼんやりとしてしまう。
「……んっ、はい、エルヴィス様」
「よろしい」
くくっと低く笑う声に続き、セリアの唇がふさがれた。
ちゅ、ちゅ、とリップ音を立てて唇が吸われ、食まれる。
仕事の報告をするだけなら、セリアが書類を持ってエルヴィスの執務室に行けばいいだけのこと。
なぜ国王が護衛を廊下に待たせてまでして聖奏師の作業部屋まで来るのかというと、「これ」のためだった。
「はっ……あ、エルヴィスさま……」
「いい子だ。……今日も、痕を付けさせて?」
「えっ……だ、だめです。この前、首筋に付けたでしょう。プリシラにばれそうになったんですからね」
「そうか。では、誰の目にも触れない箇所に――」
そう言い、エルヴィスはセリアのローブの合わせをはだけさせ、その胸元にきつく吸い付いてきた。きゃっ、とセリアの口から、普段の冷静な姿からは想像もできないような甲高い声が発される。
「エルヴィス様!」
「ほら、ここなら私以外誰も見ない」
エルヴィスはセリアの胸元に咲いた赤い花を愛おしそうに撫でた後、セリアの赤みがかった金髪を掻き上げ、額にキスを落とした。
「……セリア、もう少しして国が今よりも安定するまで、待っていてくれるか」
「……エルヴィス様」
「君の叔父上――ランズベリー公爵も納得してくださるような国王になれたら、君を妃に迎えたい」
「っ……」
「それまで、待っていてくれるか」
唇が離れていく。
間近で見つめるエルヴィスの空色の目が揺れ、じっとセリアを見つめていた。
エルヴィスは元々第三王子だったが、八年ほど前に隣国グロスハイム王国を陥落させたという武勲を立てたことで、兄王子たちを押しのけて王太子になった。以降グロスハイムがファリントンに従属しているのは、エルヴィスの力あってのものだと言われている。
そんな、聡明な若き勇王。
セリアは、彼の隣に並ぶ権利を与えられた女性なのだ。
「……は、はい。あの、エルヴィス様。私もあなたの妃に相応しい人間になれるよう――今以上に頑張ります」
「頑張るのはいいけれど、無理はしすぎないように」
「もちろんでございます」
セリアは微笑み、エルヴィスの胸に身を預けた。
頑張れる。
どんなに辛くても、酷い言葉を掛けられても、頑張れる。
(陛下、あなたに相応しい女になります)