夜の裏口付近
だが、いくら待っても返事がない。
(ひょっとして、もう寝ているとか?)
試しにノブを回してみたが、鍵が掛かっている感触はない。
(少しだけ、中を覗くだけだから……)
自分に言い訳しつつ、セリアはそっとドアを押し開けた。
ベッドと最低限の家具があるだけの、デニスの部屋。
そこにはきれいに荷造りされた鞄があるだけで、部屋の主の姿はなかった。
「……あれ?」
ドアノブを掴んだ格好のまま、セリアは首を傾げる。
確か、デニスは夕食の後ですぐに部屋に上がったはずだ。「明日に備えて早めに寝るよ」と言って。
返事はないのはてっきり寝入っているからだと思ったのに、彼の姿はない。
「……お手洗いかしら?」
そう思ってしばらくの間部屋の前で待ってみたが、彼が帰ってくる気配はない。
さては厨房で水でももらっているのかと思って階下に降りたが、夕食以降彼の姿を見た者はいなかった。
(……どうしたのかしら)
念のため表に出て、夜間警備当番の傭兵に聞いてみた。だが、「館の門は夕食の後すぐに施錠した。今日は夜に出入りする仲間はいない」とのことだった。
(それじゃあ、デニスはどこへ言ったのかしら……あっ)
庭を歩いていたセリアは、館の外壁沿いに細く伸びる小道を目にしてぽんと手を打った。
あの小道を進んで館の裏手に回ると、裏口がある。正面玄関よりも貯蔵庫に近いので、食材を運んでもらうときなどは、正面ではなくこちらから出入りしてもらっているのだ。
(そういえば、男の人たちは夜に寝付けなかったら、町の酒場に行くって言っていたわ)
麓町には、夜中でも営業する酒場が一件だけある。年老いたマスターが一人で経営しており、グリンヒルの館の傭兵たちの行きつけである。デニスも何度か、彼らに連れられて酒を飲みに行ったそうだ。
きっとデニスは裏口から館を出て酒場に行ったのだろう。デニスも、「ちょっとだけ飲んで寝たら翌朝すっきり起きられるんだ」と言っていたではないか。
きっとそうだ、と意気揚々と小道を歩き裏口までやって来たセリアだが、この期に及んで急に自信がなくなってきた。
(大丈夫、きっと大丈夫、だけど――)
セリアは彼に、「あなたのことが好き」と伝えるつもりだ。
デニスのことだから、セリアが何と言おうと頭ごなしに否定したりばっさり切り捨てたりはしないだろう。それでも、セリアの告白を聞いたデニスがもし困ったような顔をしたら――と思うと、とたんに怖じ気ついてしまった。
(フられるくらいなら、何も言わずに翌朝、友だちとしてデニスを見送った方がいいのかも)
二度も男性にフられるのは嫌だ。
それくらいなら、今の優しい関係を壊さずにいたほうが幸せなのかもしれない。
行動を起こして失敗するか、起こさずに現状維持を保つか。
うーんと唸ったセリアは裏口門の脇でしゃがみ、煉瓦塀に背中を預けて夜空を仰ぎ見た。
今日は、曇り空だ。いつぞやデニスと一緒に見上げた夜空のようなきらめきがなく、空全体が濁った色に染まっている。当然月光も差さないので、グリンヒルの草原全体が真っ暗で、夜風が丘を吹き抜ける音だけが虚しくこだましていた。
(やっぱり戻ろうか……いえ、エイミーにあんなことを言われた手前、逃げるのは――でも、フられたら嫌だし……)
そのままセリアは目を閉じ、どうするべきか悩んでいた。
そのため、人の話し声と共に足音が近づいてきたときには驚き、跳び上がりそうになった。
(誰かが外から来る――?)
不審者かもしれない。
警戒したセリアだが、だんだん近づいてくる声に聞き覚えがあったため瞬時に緊張を解いた。
(これは……デニスの声だわ)
相手は誰か分からないが、男性みたいだ。セリアの予想通り、麓町の酒場に行ってきたのだろう。
相手がデニス一人だけでないというのは誤算だったが、なんとかお願いをしてデニスだけ残してもらえばいいだろう。
そう思ってセリアは深呼吸する。
「……ということですね。準備は万全です」
「ああ、出発は翌朝。ファリントンの各拠点を回りながら王都を目指すぞ」
デニスの声だ。
よし、と心の中で気合いを入れ、セリアは立ち上がろうと脚に力を入れた。
「……もうじき悲願が達成できるな」
「はい。堕落しきったファリントンなんて、我が軍の敵ではありません」
――その姿勢のまま、セリアは動きを止めた。
「ああ。だが油断は禁物だ。確実に仕留めるからな」
「かしこまりました。エルヴィス王の首を取り、必ずや亡き陛下方の敵を討ちましょう」
気合いを入れてそう言うのは、セリアの知らない男性。
(……エルヴィス様の、首を取る?)
ひやり、と胸の中を冷たいものが流れていく。
手足が震え、一瞬耳が遠くなる。
「そうだな。……十年間、実に長かった」
「はい。……! ディートリヒ様、ご注意を!」
知らない男性が低い声で唸る。直後――
「いっ……きゃあっ!?」
「貴様……話を聞いていたのか」
裏口門の影にいたセリアの前に巨大な壁が立ちふさがり、地面に引きずり倒されたかと思うと大きな手で口をふさがれてしまった。
(い、痛い! 痛いっ!)
男はセリアの動きを封じるため、セリアの腕を後ろに回して無理な方向に曲げてきている。悲鳴を上げることも許されず男の手の中でくぐもった声を上げるセリアに、冷静な声が降ってきた。
「……そこまでにしろ。相手は女性だ」
「しかし、ディートリヒ様。この女は我々の話を立ち聞きしておりました」
「ああ。アジトに連れて帰るぞ。ただ、手荒なことをするな」
(どうして)
腕は解放されたものの口をふさがれたまま、セリアは涙の浮かぶ目で自分の目の前にいる人を見上げた。
夜の闇の中で色彩を失っている金色の髪に、今は漆黒に染まっている藍色の目。
いつも、セリアを助けてくれた人。
セリアを励ましてくれた人。
セリアが好きになった人。
(どうして、あなたが)
その人はセリアを見下ろし、眉間に皺を寄せて嘆息する。
「……どうしてこうなってしまったんだろうね」
そう言って、セリアが想いを寄せる人は嘆息したのだった。