緑の丘の最後の夜
瞬く間に、デニスがやってきてから一月が経過した。
「もうデニスはファリントンに戻っちゃうのね」
洗濯物を畳んでいると、隣でシャツのしわ伸ばしをしていたエイミーが呟いた。
セリアは苦笑し、山と積まれた子ども用の靴下を左右セットにしていく作業を続ける。
「そうね。寂しいけれど、そろそろ戻らないといけないらしいから」
「……あのさ、ずっとずーっと気になっていたんだけど」
ずいっとエイミーが距離を詰めてくるので、セリアはぎょっとしてせっかく両脚揃えた靴下を洗濯物の山に落としてしまった。
「セリアは、デニスに着いていこうとか思わないの?」
「つ、着いていくって……ファリントンに?」
「そう。だってセリア、あっさりしている癖に顔には『もっと一緒にいたい』って書かれているし」
「そ、そう?」
「そう」
断言された。
セリアは色とりどりの靴下に視線を落とす。
エイミーはセリアの過去を知らない。セリアがファリントン出身であることも、元筆頭聖奏師であることも、王都に戻れるような立場ではないことも。
王都にセリアの居場所はない。
だから、彼と一緒に王都に戻ることなんてできないのだ。
「私は……これからもここで生きていくわ。デニスとは、またお休みが合ったときに会えたらいいと思うし」
「でもさぁ、ただでさえ騎士様業って大変なんでしょ? それなのに今回みたいな長期の休暇なんて、そうそう取れるものじゃないはずよ」
いつもなら引き下がるはずなのに、今日のエイミーはやたら強情だ。
「せめて、はっきりと言えばいいのに」
「何を?」
「あんた、デニスのことが好きなんでしょ」
反射的に、セリアは顔を上げて周囲を見やる。
幸い、この辺りで洗濯物を畳んでいるのはセリアとエイミーだけで、離れたところで洗濯物取り込み係が大判のシーツに苦戦しているだけだった。
セリアは緩慢な動作でエイミーを振り返り見た。
エイミーは、ごく真面目な顔でセリアを見つめている。
「フィリパもマージも言っていた。隠しているみたいだけど、私たちにはバレバレ」
「……そう、なの」
「傭兵たちはともかく、勘のいい女の子は気づいているかも。あと、マザーもそんなことを言っていたわね」
ということは、館で暮らす女性の大半はセリアの想いに――デニスへ寄せる恋心に気づいているのだ。
セリアは俯き、先ほど取り落とした靴下を手に取る。
「……ばれちゃっているのね」
「ああー、やっぱそうなのね。あんた、分かりやすいもん」
「……うん」
「えっとね、これは本人に直接聞いたわけじゃないけれど――私たちはね、デニスもあんたのことを好いていると思うんだ」
再び、セリアは靴下を取り落とした。
(デニスが――私のことを、好き?)
「……うそ」
「いや、私たちの予想だからね! でも、絶対デニスはあんたに特別な感情を持っている。こっちも案外、見ていて分かりやすいからね」
「そう……なの……」
三度、靴下を拾い上げる。
指先が震えている。
(本当なの……? デニスも私のことが好き……?)
こんなに面倒な女なのに。
王都に連れて帰ることもできない。
一緒になっても得がない。
料理をすれば血まみれになるか野菜を粉砕するかだし、紅茶を淹れたら茶葉の神に叱られそうなゲテモノを作り上げるし、裁縫をすればおぞましい毛玉の魔物を作り上げるしかできない女なのに。
唯一の特技である聖奏も、堂々と行うことができない身の上なのに。
靴下を持ったまま固まっているセリアを見かねたらしく、エイミーは囁くように言う。
「せめて、デニスがここを離れる前に一言でも言ったら?」
「一言って……どんな一言?」
「そりゃあ、あんた次第だよ。『好きです』でもいいし、『私と一緒に生きてくれませんか』でもいいし」
エイミーの提案した言葉を、セリアは頭の中で反芻する。
好きです、とセリアが言ったら、デニスは「僕もだよ」と言ってくれる。
一緒に生きてほしい、とセリアが言ったら、デニスは「いつか迎えに来る」と言ってくれる。
(そ、そんなの期待しすぎよ。でも……)
このまま離ればなれになるくらいなら。
次に彼が長期の有給を取れるのがいつになるか分からない現状で、少しでも前に踏み出せるなら。
――君ならきっと、前を向ける。
デニスの言葉を信じるのならば。
ここで一歩、踏み出すべきなのだ。
デニスが館を去る前日は、皆大忙しだった。
デニスは早朝に出ていくらしく、その時間はまだ子どもたちは起きていない。よって子どもたちは今日就寝するまでしかデニスと一緒にいられないので、「ぼくがいっしょにあそぶ!」「おれを肩車して!」と朝から引っ張りだこだった。いつもは傭兵たちと一緒に仕事をするデニスだが、「今日くらいは皆で過ごしましょう」とマザーからの許可ももらったため、ほぼ一日子どもたちと遊んだり傭兵たちと話をしたりしていた。
セリアは翌朝早起きをして、デニスを見送ることになっていた。その時に時間はあるので、日中は子どもたちとふれあう時間を過ごさせてやろうと思って、彼とはあえて話をせずに仕事をして過ごした。
(でも、朝になってからだとばたばたするかもしれない)
動くとしたら、子どもたちが寝静まった夜だ。
フィリパたちは特に何も言わなかったが、夜が近づくにつれてそわそわしているセリアに、「頑張ってね」と小声で囁いてきた。
子どもたちは「まだねたくない!」「デニス兄ちゃんと遊ぶ!」と駄々をこねていたが、昼間これでもかというほど庭を駆け回ったからか、あっという間に眠りの世界に旅立っていった。
彼らが次に目覚める頃には既に、デニスは出発しているだろう。
「皆、ご苦労様。それでは、解散」
いつも通り、子どもたちの就寝を確認して中年女性に報告。彼女の確認が終わったら、各自解散である。
セリアはフィリパたちに視線だけを向け、自室に戻った。普段なら寝間着に着替えるのだが、今日はまだ普段着のままで髪を丁寧にとき、滅多に使うことのない香水を吹きかける。
これは以前フィリパたちと、「それぞれの勝負の時に使おう」ということで小遣いを出し合って四人で購入したものだ。今朝これをマージから受け取ったとき、彼女は力強く頷いてくれたものだ。
ほんのりと漂う花の香りは、セリアの緊張をほんの少しだけ和らげてくれた。マージが麓町の恋人と交際することが決まったときもこの香水を使っていたという。フィリパやエイミーも、町の祭に行くときなどは必ずこの香水を付ける。なんだか、三人から勇気を分けてもらえたような気がしてきた。
そっと廊下に出て、辺りを確認。足音を忍ばせて階段へ向かい、四階へ。
初めてデニスが来た日に部屋を案内したときしか訪れたことがない、デニスの部屋。周りは傭兵たちの部屋なので、あちこちから盛大ないびきの音が聞こえる。
廊下の突き当たり、デニスの部屋。
ドアの見た目だけはセリアの部屋と同じなのに、まるでその木のドアが王座の間に続く扉であるかのような威圧感に溢れているように思われた。
(大丈夫、大丈夫よ、セリア)
セリアは数度深呼吸し、ドアをノックした。
「デニス……セリアよ。入ってもいい?」