朝の一幕
宣言通りセリアはひたすら弱音を吐き泣きまくった翌日、気分を切り替えて朝食準備の場に立った。
「セリア、体調はもういいのかな?」
「はい。ご迷惑をお掛けしました」
料理当番の男性に問われたセリアは、笑顔で胸を張る。
泣いた後しっかり寝たし、朝起きた後は顔がはれぼったくなっていないか確認した。
「おかげさまで元気になれました。早速お手伝いします」
「本当に? 意地を張ってるんじゃないだろうね?」
同じく料理専門の中年女性も三白眼で見てくるので、セリアは意気揚々とエプロンを身につけた。
「もちろんです! むしろ今は調子がいいくらいです。何でしたら、芋の皮むきでも野菜の煮込みでもしますよ!」
「それはいいから、皿を運んでくれ」
戦力外通知がなされた。
普段通りに戻ったセリアに、フィリパたちも子どもたちも安堵したようだ。
とりわけ子どもたちはずっとセリアのことを気にしていたらしく、本日の朝食の席では「セリア姉ちゃんの隣に誰が座るか」で相当揉めた。そして大人たちの仲介の末に見事隣に座る権利を獲得した二人も、「どちらが右側でどちらが左側に座るか」でまた悶着を起こした。彼ら曰く右側の方がいいらしいが、セリアには違いがよく分からなかった。
朝食の場に、デニスを始めとした数名の傭兵たちはいなかった。一緒に片づけをしたマージに問うと、「朝の特訓をしたらすぐに町に降りていったよ」とのことだった。
(そっか……デニスにもちゃんと話をしないといけないわ)
昨晩セリアの泣き言に付き合ってくれたことや、励ましてくれたことなど。
だが。
――僕は……君の笑顔が、好きだから。
熱っぽい藍色の目がセリアを見つめている。
セリアのそれよりも硬くて骨張った手のひらが後頭部を撫で、彼の吐息がセリアの前髪を擽る。
その甘やかなひとときのことを思い出すと――
「……お! おはよう、セリア!」
元気いっぱいな声によって、セリアは妄想の世界に飛び立つことなく我を保つことができた。
廊下に突っ立っていたセリアの姿を見た傭兵の一人が、タオルで顔を拭いながらやって来た。上半身裸で見事な筋肉が露わになっている。体中からほかほかと湯気が立っていることから、食後に早速訓練してきたところなのだろう。
「お、おはようジェイク。昨日はありがとう。……朝から体を動かしてきたの?」
「おう! セリアはちっこいからなぁ、俺たちと一緒に訓練してバキバキ筋肉を手に入れないか? 筋肉はいいぞ!」
「遠慮しておくわ」
あっさりと筋肉拒否したセリアに構わず、ジェイクは「そういえば」と手を打って、庭先にある訓練所の方を顎で示した。
「さっきあっちで運動してきたんだが――すげぇことになってたんだよ。セリアは知ってるか?」
「どういう風にすげぇことになっていたの?」
「なんかさ、デニスのやつが早朝訓練で相当ぶっ放したらしくて、試し切り用の丸太とかが粉々になってんの。おかげで薪が大量にできたからそれはいいんだけど、それだけじゃなくてデニスと手合わせしたやつらはみんなへとへとになっちまったそうでな。あいつ、何かあったのか?」
何かあったのか、と問われて思い当たるのは、昨夜の出来事くらいだ。
そしてセリアははっと息を呑む。
(……まさかデニス、私に愚痴られたことがストレスになっていたの?)
十分に考えられる。
彼は優しいから、セリアの前では荒れたりしない。だがあれだけウジウジ弱音を吐かれたら、彼だって滅入るだろう。今朝は丸太相手にそのストレスを発散したということではないだろうか。
それに気づいたセリアは青ざめたらしく、ジェイクはぎょっとしてセリアの肩を掴んできた。
「お、おい! 顔が青白いぞ! さては、まだ体調が戻っていないな!?」
「え? ……い、いえ、そういうわけじゃないから大丈夫よ」
「無茶言うな! いいか、また気分が悪くなったらすぐに俺たちを呼べ!」
そう言うジェイクは、昨日セリアが町で倒れたときに館まで運んでくれたのだ。彼がセリアを心配するのも当然のことだろう。
「……分かったわ。無茶はしない、約束するわ」
「頼むぞ」
なおもジェイクは少しだけ不安そうな顔をしていた。
(デニスと話をしないと)
昼過ぎ、デニスたちが戻ってきたと連絡が入ってから、セリアはそわそわしていた。
あの後で実際に訓練所に行って見たのだが、ジェイクの言ったとおり丸太は数本粉砕されており、物陰には刃が欠けた訓練用の剣が転がっていた。デニスの怒り具合がよく分かる破損っぷりだ。
(あれほどまで苛立たせてしまったのね……)
午前に仕事をしつつ、彼に会ったらどう話を切り出そうか考えていた。だがいい案が思い浮かばないまま昼を迎えてしまい、掃除をしていたセリアはとうとう廊下でデニスと鉢合わせしてしまった。
「あ……」
「……ああ、おはよう、セリア。元気になったかい?」
仕事の後で少しだけ泥の付いている上着を肩に掛けたデニスは笑顔で、首筋を流れる汗も非常に様になっている。あの丸太たちを粉砕させた人とは思えないほどの爽やかさである。
(言いにくい……言いにくいけど!)
「あ、あの、デニス!」
「うん、何?」
「昨夜は、その……ごめんなさい!」
「え? ああ、いいんだよ。君だって弱音くらい――」
「あれほどまでデニスに負担を掛けているとは思っていなくて……ごめんなさい、相当溜まっていたのでしょう?」
「え?」
デニスはきょとんとしている。
「溜まる? 溜まる……何が溜まっているって!?」
「いろいろと……その、ストレスとか」
「ストレス」
「ジェイクに聞いたわ。デニスは今朝、すごい勢いで丸太を破壊していったのでしょう?」
「えーっと……うん、まあ、いろいろ考えながら訓練してたからか、気が付いたら破壊していた」
ほぼ無意識で丸太を破壊できるとは、すさまじい。
その時になってデニスは自分とセリアの考えていることの違いに気づいたようだ。彼は目を瞬かせた後、ひっくり返った声を上げる。
「ちょっと待って。まさかセリア、僕が君に苛立っていて丸太に八つ当たりしたと思っているのかい!?」
「違うの!?」
「違う! 苛立っていたのは確かだけれど、君に対してじゃない!」
「苛立っていたのね……」
「だから君じゃなくて、その……」
それまでの勢いはどこへやら、デニスは口を閉ざして視線を逸らしてしまう。その頬がほんのり赤く染まっているように見えるのは、気のせいではないだろう。
彼は辺りを窺った後、ぽそっと口にする。
「……うに」
「え?」
「国王に……腹が立って。その、君の思い人があいつ――いや、国王だと聞いたらすごい腹が立って、ふざけんなって思いながら特訓したら、丸太が粉々になっていたんだ」
「……」
セリアは呼吸を止め、瞬きする。
デニスは、エルヴィスに対して苛立っていた。
なぜなら、セリアの思い人がエルヴィスだったから。
「……えっと」
「子どもの頃から親しくしていた女の子がフられたんだよ。そりゃあ腹も立つって。君はしっかり者だけど一応僕よりも年下だから、なんというか……妹を弄んだ男を恨む兄の心情っていうのかな?」
「な、なるほど?」
「そういうわけでとにかく、君に対して腹を立てていたわけじゃないから! もしこれから先も、気になることがあれば遠慮なく僕に言ってね」
そう言って微笑むデニスを見ていると、だんだんとセリアの呼吸も戻ってくる。
(兄と妹……そうだったのね)
デニスの方がひとつ年上なので、彼がセリアを妹のように思っているというのも間違いではないだろう。
間違いではないはずなのに――
(胸が痛い――)
ついつい視線を逸らしてしまうと、デニスの右手がセリアの方へ伸ばされたのが視界の端に見えた。
そのままセリアの左頬に彼の手が触れ――
「いっ!?」
「はい、笑顔笑顔」
頬を引っ張られた。引っ張られたといってもほんの弱い力で、少しだけ頬の皮膚が伸びるくらいだったが、セリアの左頬がデニスの手によって自在に変化している。
驚いてセリアが顔を上げると、藍色の目を細めて微笑むデニスの顔が眼前に広がった。
「昨日も言ったけれど、君は笑っていてよ。君の笑顔、とってもきれいだから」
その言葉は優しくて、甘くて、どこか危険な熱も孕んでいた。
セリアの胸がぎゅっと苦しくなり、頬が熱くなり、視界が少しだけ潤む。
(……デニスの馬鹿。兄妹みたいって言いながら、こんなことを――)
わざとらしくぷうっと頬を膨らませると、デニスの手も離れていった。
彼はくすくす笑い、セリアの肩を軽く叩いて脇を通り過ぎる。
「それじゃあ、僕はこれから遅めの昼食をもらってくるよ。……また後でね、セリア」
「うっ……ん」
変な返事になってしまったが、デニスは気にならなかったようでさっさと行ってしまった。
デニスがいなくなっても、しばらくの間セリアはその場から動けなかった。
筆頭聖奏師だった頃から才女として名を馳せており、落ちぶれた今も勉強は欠かさないようにしてきた。ミュリエルに負けたとはいえどもちょっとくらいは頭脳にも自信があったのに、そろそろ脳の処理能力が追いつかなくなりそうだ。
(息が……苦しい)
体がぐらついたので、慌てて近くの壁に寄り掛かる。
手のひらで触れた壁はびっくりするほど冷たい――いや、冷たく感じるほど、セリアの体は火照っていた。
回廊を歩いていたデニスは、ふと庭の向こうを見やった。
ここからは庭を挟んで、今歩いてきた廊下を振り返り見ることができた。先ほどと全く変わらない位置で壁に手を突き、俯いているセリアの姿もよく見える。
デニスは足を止め、セリアの姿を遠目に見守っていた。
セリアはしばらくその場にいたが、ちょうど廊下をフィリパたちが歩いてきたようだ。フィリパたちがセリアの背中を叩き、我に返ったらしいセリアは三人にずるずると引っ張られていった。
そんなセリアの姿にくすっと笑みを漏らした後、瞬時にデニスは笑顔を引っ込めた。
「……君は皆に愛されている。だから……僕がいなくなっても、大丈夫だよね」
デニスの声は、窓から吹き込んでくる柔らかな初夏の風の中に消えていった。