乙女の戸惑い
麓の町は今日もにぎわっていた。
ファリントン王国王都ルシアンナとは違った活気に溢れており、道行く人のほとんどとは顔見知り。店の人たちも、「やあ、今日はセリアだね」と気さくに声を掛けてくれる。商売第一、売り上げ第一の王都の商店街では見られなかった光景だ。
「いらっしゃい、セリアちゃん……あれ? いつの間に結婚したんだい?」
雑貨屋の女主人が、セリアと一緒に来店したデニスの顔を見て目を丸くしている。デニスはグリンヒルに来て日が浅い上、今まであまり外出することがなかったので、彼の顔を知っている者はまだ多くないのだ。
「こんにちは。彼はデニス。私の昔からの知り合いです。夫じゃないです」
「え、旦那じゃないのかい?」
どうやら女主人はからかいなどではなく、本気でセリアが結婚したと思っていたようだ。
苦笑するセリアの隣で、デニスがお辞儀をして一歩進み出た。
「初めまして。セリアの友人のデニスと言います。グリンヒルの館に一ヶ月間身を寄せております」
「はあ……本当に旦那じゃないんだね?」
「はい」
「そりゃあ残念だ……セリアちゃん、若くて美人だからあっちやこっちから熱い目で見られているもんでね。いい人が見つかればいいのにと思ってたのさ」
「確かに、セリアとは二年ぶりに再会したばかりですが、昔よりもずっときれいになったなぁと僕も思っていたのですよ」
「ちょっと、デニス……」
口が達者なデニスのことだから女主人の言葉もうまくかわしてくれると思いきや、なぜノッているのだろうか。
彼のシャツの袖を引っ張ると、デニスは振り返ってウインクを飛ばしてきた。
「何? セリア」
「人前で何を言っているのよ」
「だって本当のことじゃないか。君の姿を見つけたときは、なんてきれいになったんだろうと思った。そんな君が小さい子どもと一緒だったから――結構ショックだったんだよ」
「な、何を言って……」
「今町を歩いているときだって、君のことをじっと見つめている人がけっこういたんだよ。気づかなかったのかい?」
全く気づかなかった。
セリアは子どもたちがあちこちに行かないか目を光らせていたし、子どもたちが大人しいときはデニスの方ばかり見ていたからだ。
(……あれ? どうしてデニスを見ていたの?)
はたと気づき、セリアは左手に握っていた女の子の手を離してしまった。女の子は特に気にならなかったようで、その場にしゃがみ込みガラス瓶に入っているおもちゃを観察し始めている。
館を出てからここに来るまで、セリアが見ていたのは子どもたちか、風景か、デニスだった。
保護者として監視しなければならない子どもたちや周りの風景はともかく、それ以外の時はデニスばかり見ていた。それこそ、他の通行人の視線に気づかないくらい真剣に。
彼が、腕に抱えた女の子を見つめる眼差しとか。
町並みを珍しそうに眺める様子とか。
陳列された商品の値札や説明カードを、真剣に見つめる横顔とか。
そんな、デニスの姿にばかり意識を向けていた。
(私は――)
ふっと、目の前の光景が一瞬だけ揺らいだ。
分かってしまった。気づいてしまった。
なぜなら、こうして無意識のうちに一人の男性を視線で追ってしまっているというのは、初めての経験ではないから。
それは、二年前にも経験したことがあるから。
(でも、私は――)
怖い。
その理由に名前を付けてしまうのが、怖い。
その理由を認めてしまってもいいのか、受け入れてもいいのか、分からない。
「セリア?」
黙ってしまったセリアを気遣うように、デニスが顔を覗いてきた。
藍色の目。
薄暗い店内では黒に近い色に見えるその目には今、セリアの顔だけがきれいに映り込んでいた。
――彼の双眸に映っているのは、自分の姿だけ。
そう思った瞬間、胸の奥がじわじわと暖かくなった。
嬉しい、と思ってしまった。
(私は――いいのかしら)
この想いに名前を付けても、いいのだろうか。
デニスとの関係を冷やかしてきたのは、雑貨屋の女主人だけではなかった。
顔見知りの皆は子どもたちやデニスと一緒に歩くセリアを見て、「いい旦那だね」「もう産まれてたのか!」とからかってくる。
中には、デニスに向かって不機嫌な態度を露わにしてくる若者もいた。今気づいたが、きっと彼らがデニスたちの言う、「セリアを熱心に見る人」なのだろう。ちなみに肉屋にも寄ったのだが、店番のジョナサンは途中で引っ込んでしまったため別の店員が応対を引き継いでくれた。
「いやぁ、よく買ったしよく冷やかされたね」
大量の買い物袋を提げたデニスがそう言って、爽やかに笑った。
彼は何人もの通行人にからかわれても動じることなく、「そう見えるでしょう?」「いやー、この子は残念ながら、僕たちの愛の結晶ではないんですよ」などと朗らかに返して、皆を笑わせていた。途中から笑顔が引きつり、「姉ちゃん、つかれた?」と子どもたちに尋ねられてしまったセリアとは大違いである。
「……話し上手だとは思っていたけれど、本当にたくましいのね、あなた」
「これくらい可愛いものだよ。だって皆、君のことが好きだからちょっかいをかけてくるだけじゃないか。王都の人間はもっと姑息で、汚かった。あれに比べればほほえましいし、対応するこっちも全然苦じゃないよ」
デニスの言葉に、確かに、とセリアは納得してしまう。
グリンヒルの住人は、セリアたちを傷つけたくて冷やかしてくるわけではない。セリアと皆との間に確実な信頼関係があるからこそできるやり取りだ。
筆頭の頃もよく陰口を叩かれたし、からかわれた。それはグリンヒルとは違い、セリアを傷つけ、泣かせ、落ち込ませるためにされていた行為だった。
筆頭聖奏師として、皆の羨望と同じくらいの嫉妬や憎悪を買っていたセリアもだが、平民出身の騎士であるデニスも心ない言葉を吐かれてきたのだろう。
「……姉ちゃん、見て見て、あっち」
考え事をしていると、女の子に袖をくいくい引っ張られた。
「人がたくさんあつまってるの。おまつり?」
「あら……本当ね。何か催し物でもあるのかしら」
女の子に示された方を見やると、広場の中央辺りに人だかりができているようだった。
セリアより背の高いデニスが背伸びをしてそちらを見、「ああ」と声を上げる。
「旅の吟遊詩人が来ているみたいだ。これから一曲演奏してくれるんじゃないかな」
「まあ、吟遊詩人?」
「ぎんゆーしじんって、ひいてうたう人のことだよね?」
「そうよ」
「いきたい!」
やはりというか、子どもたちは目を輝かせて訴えてきた。
楽器演奏ならセリアも負けていないが、残念ながらセリアは歌を歌えない。「弾き語りの技能がないから」と皆に言い訳しているが、一番の理由が音痴だからというのはセリア一人だけの秘密である。
「……だそうよ。寄っていってもいいかしら」
「僕はいいよ。腐るものは持っていないし、君だって他人の演奏には興味津々なんじゃないか?」
「ふふ、ばれたわね」
デニスに指摘されたセリアはちょこっと舌を出しておどけてみせた後、子どもたちを連れて人混みの方へと向かった。一歳の子はまだ幼いので、荷物持ちのデニスと一緒に離れたところでお留守番である。