葛藤
二人は、月光の照らす丘を歩いて館まで戻った。
外に出たときには灯っていた部屋の明かりは、大半が既に消えている。そろそろ深夜を回っている時間なので、夜間警備以外の者は寝静まっているのだろう。
一階の夜警控え室にいた傭兵に帰宅の挨拶をした二人は、極力足音を立てないよう階段を上がって自室に向かう。
「今夜は一緒に散歩できてよかったよ、セリア」
階段を上がりつつこそっとデニスが言った。
「よかったらまた、こうして二人で散歩しながら話をしたいな」
「私もよ。聖弦はともかく竪琴ならいつでも持ち出せるから、お天気のいい日にいろいろな曲を聴いてもらいたいわ。また、一緒にお出かけしましょう」
「うん、楽しみにしているよ」
セリアの部屋は三階、デニスの部屋は四階にある。
そのため、セリアを見送ってからデニスは四階に上がるのだ。
「それじゃあ、また明日。おやすみ、デニス」
廊下の角でセリアはあいさつをする。
セリアの数歩分後ろに立っているデニスは立ち位置のためか、体の半分以上が陰になっていた。
彼の金髪はくすんだ色に染まり、藍色の目は漆黒の真珠であるかのような不思議な輝きを宿している。
そんなどことなく不穏なシルエットを生み出すデニスだが、セリアの挨拶に応じて陽気に笑って軽く手を振った。
「うん、おやすみセリア。よい夢を」
「ええ、よい夢を」
セリアも微笑み、聖弦の入った袋を抱えてデニスに背を向けた。
女性用の部屋が連なる廊下はしんと静まりかえっている。起きている者は一人もいなさそうだ。
(今晩のことは明日、フィリパたちに教えればいいわよね)
セリアは軽い足取りで自室に滑り込むのだった。
デニスは、廊下の曲がり角に立つ娘を見つめていた。
陰にいる自分と違い、セリアの体は窓から差し込む月光を惜しみなく受けて立っている。赤金色の髪はいつもより色彩が淡く見え、長いまつげに縁取られた深緑の目は濡れたように輝いていた。
纏っているのは二年前に着ていたような上質なローブではなく、平民女性が着る普段着だ。それなのにデニスの目には、淡い月光に縁取られた衣服が宗教画に描かれる妖精の衣であるかのように映った。
――夜の女神。
そんな、自分らしくもない言葉が自然と頭に浮かんできた。
――思わず、手を伸ばしそうになった。
振り返り様に揺れたその髪に触れたい。
二年前よりもほんのり焼けた肌に触れたい。
――その心に、触れたい。
だが、すんでのところで衝動を押さえ込んだ。
ごまかすように手を振ったら、彼女は何の疑いもなく微笑んでデニスに背を向ける。
そんな無防備に背中を見せないでほしいのに。
セリアが去った後も、デニスはその場からしばらく動けなかった。
手を振った後、行き場をなくした右手は顔の横で、開いたり閉じたりと意味のない行動を繰り返している。
――また、一緒にお出かけしましょう。
そう言って笑ったセリア。
ファリントンのことを話しているときは、少しだけ寂しそうな顔をするセリア。
子どもたちの世話をし、女性陣と一緒に洗濯をするセリア。
「……セリア、僕は――」
デニスは漆黒に染まった目を伏せ、階段の手すりに乗せていた拳をぎゅっと固めた。
ピン、とどこからともなく、聖弦の奏でる甘やかな音が聞こえた気がした。