筆頭聖奏師の憂鬱
「――ではこれから、心身の疲労を和らげて自己再生能力を高める聖奏を行います」
セリアはそう言い、辺りを見回した。
場所は、王城内に存在する騎士団詰め所の一室。
騎士たちが休憩したり騒いだり仮眠を取ったりするためのこの部屋は、お世辞にも清潔とは言えない。部屋の隅に転がっている謎の紙くずに、飲みかけの飲み物。野郎の汗の臭いが染みついた壁。
仕事でなければ、こんな所に来るのも御免被りたいと思われるような環境である。
今、セリアの手前にある簡易ベッドに一人の青年が寝かされていた。彼を運んできた騎士の説明によると、彼は気温の上がる昼間まで一切水分を取らないまま活動を続けた結果、ばったり倒れてしまったそうだ。
水分を取らせて涼しい場所に寝かせているものの、日頃の疲れがたまっていたこともあいまって起き上がれない状態だという。
そういうわけで、セリアが呼ばれたのだ。
ベッドに寝る騎士とその手前の椅子に座るセリアを、他の騎士たちは少し離れたところから見ている。心なしか、その目には何かに期待するような光が宿っているように感じられた。
セリアはぼんやりとした目で天井を見上げる騎士の症状を観察した後、それまで膝に乗せていた木枠を持ち上げる。
溝形に組まれたそれは、見た目こそ妙な形の木枠にしか見えない。実際ほとんどの人間にとっては、「高価な木で作られた変な形の枠」でしかないのだ。
だが、これをセリアたち「聖奏師」が手にすることで、木枠は本来の姿を取る。
騎士たちが期待の眼差しで見てくる中、セリアは木枠で囲まれた何もない空間部分にそっと手のひらを滑らせた。
一度、二度、見えない板を撫でているかのように手のひらを動かす。
傍目から見ているとただの怪しい行動なのだが、セリアは神経を集中させ、手のひらを動かしている。
この大地に宿る精霊の力を引き出し、その声を聞く。
そして、セリアの願いが精霊に届いた時――
「……おおっ!」
数名の騎士が感嘆の声を上げた。
セリアの手のひらが撫でていた空間に今、光り輝く十八本の弦が張られたのだ。
木枠部分は斜めにカットされているため、張られた弦は十八本で微妙に長さが異なる。朝日に照らされた蜘蛛の糸のように、夜の雲間から差し込む月光のように輝く弦を備えたそれは、もうただの木枠ではない。
セリアたち聖奏師のみが扱える、精霊の力を宿した楽器――聖弦の完成である。
騎士たちも何度もこの瞬間を見ているはずだが、何度見ても感嘆するほどその姿は美しいのである。
セリアは自らの手で弦を張った聖弦を膝と左肩で支え、右手の人差し指で手近な弦を弾いた。
ピン――とたった一音、特に意味もなくつま弾いただけで、埃と汗の臭いで満ちた詰め所の空気が一気に浄化されたような気さえした。
セリアは真面目な表情で、そっと弦に右手を滑らせた。
奏で始めたのは、昔から弾き慣れている曲。
聖奏師は、精霊の力を宿した聖弦を奏でることによって、聞く者の荒ぶる心を静めたり苦しみを取り除いたり、傷を癒したりできる。
聖弦を使って演奏する曲――聖奏は、その目的に応じて数十種類ある。
呪いによって蝕まれた体を癒やす曲。
自己再生能力を高める曲。
苛立つ心をなだめる曲、などなど。
今回セリアが聖奏に選んだのは、聖奏師ならば見習でも奏でることのできる難易度の低い曲だった。
聖奏にも難易度があり、難しいものだと駆け出しや力の弱い聖奏師では効果が弱かったり、そもそも効果を発揮しなかったりということがざらにある。
子どもの頃から弟子入りして聖奏の勉強を続けてきたセリアは、生まれ持った潜在能力がかなり高い方だ――と自分では思っている。
セリアの実家であるランズベリー公爵家の令嬢は、聖奏師としての高い実力を備えていることが多い。
聖奏の力は女性のみに現れ、先天的なもの。しかも能力の盛りは十代の後半であるため、二十代に差し掛かると一気にその力は衰える。
現ランズベリー公爵の姪であるセリアは、一族の期待を一身に背負って今、ファリントン王国の筆頭聖奏師の地位に就いているのだ。
セリアが筆頭になってから約一年。聖奏師としての才能が咲き誇る時期を終えるまで、あと四年程度。
それまでの間に、何としてでも――
セリアは聖奏を続けながら、ベッドに横たわる騎士の様子を確認する。
先ほどはせわしなく息をついていた彼も今は呼吸が整っており目の焦点も合っているようで、セリアをじっと見上げている。日射病の治癒のついでに自己再生能力も上がったようで、裸になっていた上半身のあちこちに浮いていた痣や小さな傷痕も少しずつ塞がっていく。
(……そろそろいいわね)
ピン、と儚い音と共に聖奏が終わる。
同時に、セリアの聖奏に耳を傾けていた騎士たちは目を見開いた。
「えっ……もう終わりか?」
「はい、終わりです」
「いや、でもこれってまだまだ続きがあるだろう?」
騎士たちが戸惑ったような声を上げている。
確かに、セリアが奏でていた曲はまだ続きがある。セリアが弾いたのは、全体の約三分の一程度までだ。
だがセリアは表情を崩すことなく弦に手を滑らせ、それまで騎士たちを魅了していた美しい弦を一気に消してしまった。
「続きはありますが、こちらの方もだいぶ体力が回復してきたようですし、これ以上の聖奏は不要だと判断しました」
「不要って……別に、最後まで弾いたって減るものじゃないだろう」
そう不満そうに言ったのは、それまでベッドに寝ていた騎士だ。
彼はベッドに上半身を起こし、さっさと木枠を片付けてしまったセリアを恨めしそうに見ている。
「もっと続きを聞かせてくれよ。それがあんたたちの仕事だろう」
「違います」
セリアは自分より年長の騎士にも憚ることなく、ぴしゃりと言い放った。
「私たちの仕事は精霊たちの力を借りて、人々の生活の支えになるよう聖奏を行うことです。必要以上の聖奏は、人が生まれ持った抵抗力や精神力、士気を弱めるばかり。あなたも、もう少し休めば難なく訓練に復帰できるでしょう」
「はぁ? 完治させずに患者を放置するってのか!?」
いよいよ騎士たちはセリアへ遠慮することをやめたようだ。
壁際にいた騎士たちも、不満を隠そうともせずに詰め寄ってくる。
「やってられないな! こんな中途半端な仕事でも、金は取るんだろ!?」
「それはまあ、こちらにも資金は必要なので」
聖奏師の仕事は慈善事業ではない。
王城に仕える聖奏師たちの生活費や年少者の教育費、聖弦の手入れ道具の購入など、金はいくらあっても足りないくらいだ。「高い!」「もっと安くしろ!」とよく言われるが、これでもかなり良心価格に設定している方だ。
(それに、この価格設定をしたのは私じゃなくてもっと前の筆頭たちなのに)
セリアは嘆息し、聖弦を入れた革製ケースを担ぐ。
「……これ以上申し上げることはありません。これから先も何かご用がありましたら、私たちにお申し付けくださいませ」
「……ちっ」
騎士たちは射殺さんばかりの目でセリアを睨みつけてくるが、手を出すつもりはないようだ。
ここでセリアを殴ったら最後、今後聖奏師たちに仕事を依頼することができないと分かっているからである。
セリアは騎士たちに背を向け、詰め所を後にした。
どれほど心を込めて聖奏しても、人の傷を癒しても。
感謝されるばかりの仕事ではないことは、セリアも重々承知していた。
セリアは去年引退した先代筆頭聖奏師からの教えを心に刻み活動している。聖奏に対するセリアの行動概念も、彼女が勝手に作り出したものではない。代々聖奏師に受け継がれてきた信念である。
だが、セリアのはきはきした物言いや後輩を叱咤する姿は、万人から好意的に受け止められるわけでではない。むしろ、筆頭になってから周りの視線は冷たくなる一方だと実感している。
(でも、大丈夫)
聖奏師仲間たちは、セリアが厳しい理由もちゃんと分かっている。泣き虫なペネロペだって、「セリア様のことが大好きです」と言ってくれる。
周りに何を言われようと、大丈夫。
自分は、正しいことをしているのだから。