夜風の丘の楽師
デニスは、館の裏門で待ってくれていた。
昼間の仕事中は動きやすい薄手のシャツに綿のズボンという出で立ちだった彼だが、今は外出用の上着を着ており腰には剣も提げている。ぱっと見た感じでは彼がいつも王城で帯剣していたものよりも刀身が短いので、騎士剣ではなく護身用の剣なのだろう。
「来てくれてありがとう、セリア」
「こちらこそ、一緒にお出かけできて嬉しいわ」
二人は裏門の鍵を開け、夜の草原に足を踏み入れた。
「出る時に、傭兵の皆に捕まってさぁ。夜中にセリアと何をするつもりなんだ、って詰め寄られたんだよ」
「まあ、デニスも? 私もさっき、フィリパたちに捕まったところなのよ。いろいろ注意された気がするわ」
「君が館の皆に大切にされているっていう証拠だよ。僕は数日前に来たばかりの新参者だからさ、『セリアちゃんに手を出したらぶっ飛ばす』って脅されたんだ」
傭兵の真似をしているのか、その部分だけドスの利いた低い声で演出してくるものだからセリアは噴き出してしまった。
「ふふっ、今の全然似てない」
「仕方ないだろう。……まあ、皆には聖弦の練習だなんて言えないからね、紳士的にセリアと夜の散歩をしてからちゃんと部屋まで送り届けるって宣言したから。セリアもそんなことを言われたのかい?」
「ええ、でもデニスのことは信じているから大丈夫よ」
「それはそれは、僕も信頼されるに値する人間なんだな」
「そうだって前から言っているじゃない」
ぽんぽんと言葉を交わしながら、二人は丘陵地帯をゆっくり歩いていく。
最初のうちは後方にちらちらと見えていた館の明かりも、丘を下るにつれてだんだん小さくなり、やがてそれも丘に隠れて見えなくなった。
「……よし、風向き良好、場所もよし」
ある程度の所まで歩くと、デニスが立ち止まって辺りを確認した。
セリアにはよく分からないが、聖弦を弾いても周囲に音が響きにくく姿も見えにくい位置というものがあるらしい。
「それじゃあ、この辺で座ろうか。……セリア、疲れていない?」
「これくらい大丈夫よ。しょっちゅう麓の町まで往復しているのだから」
「ははっ。君も本当にたくましくなったね」
そう言いながらデニスは着ていた上着を脱ぎ、草地に敷いてくれた。礼を言ってからその上に腰を下ろしたセリアは持ってきた布袋を開け、聖弦を取り出した。
月の明かりしか光源のない草原で聖弦のボディを見ると、なるほど確かにただの木枠に思われても仕方ないと感じられた。燃やされたときのセリアは茫然自失状態だったし燃やした者たちも素人なので、ただの木枠と聖弦の区別が付かないのも仕方ないだろう。
聖弦のボディを膝に乗せ、本来なら弦の張られている空を手でなぞる。
なぞりながら、セリアは自分が緊張していることに気づいた。
(最後に弦を張って、二年。ちゃんと張れるかしら)
館では、ボディの手入れしかしなかった。
今のセリアは十九歳。
聖奏師の力が弱まるまでまだ少し時間はあるものの、二年間のブランクによって弦を張ることもできなくなったかもしれない。
だが、すぐにそれは杞憂になった。
心の中で大地の精霊に呼びかけながら空を撫でていると、間もなく光り輝く十八本の弦がしっかりと張られたのだ。
「……こんなに近くで見るのは初めてだけど……なんだか、とても神秘的だね」
セリアの隣に座っていたデニスが、うっとりとしたような眼差しでそう言った。確かに、城にいた頃は彼と聖弦の話をしたことはあっても、実際に彼の目の前で弦を張ったことはなかった。演奏するにしても、手を伸ばせば互いの体に触れられるような位置で弾くことはなかった。
セリアは微笑み、聖弦を構えた。
「きれいでしょう? デニスにも弦を触ってほしいとは思うのだけれど、そうもいかないわね」
「ああ……そういえば、せっかく弦を張っても一般人が触れたら消えてしまうんだっけ」
「そうなのよ。試しに触ってみる?」
「うん」
どこか期待するような目でデニスが手を伸ばし、柔く輝く弦に触れる――が、彼の指先に触れるか触れないかのところで、弦は消えてしまった。
「……あー、やっぱりだめか」
「感触はあった?」
「そうだな……触ることはできなかったけど、近づいたときにはちょっと温かいと感じたかも」
「温かいの?」
弦を張り直しつつセリアは首を傾げる。
セリアは、弦に触れても特に温かいとは感じないのだが。
デニスもしばらく考え込んでいたが、やがてぽんと手を打った。
「きっと、セリアの温かさだね。僕は精霊のこととかよく分からないけれど、セリアの温かさに惹かれた精霊が集まって弦になった。だから温かいんだよ」
「……なるほどね」
それも一理あるかもしれない、と思ってセリアは相槌を返した。
聖奏師であるセリアとて、聖奏や精霊のことを完全網羅しているわけではない。だが彼の言うように、「精霊は聖奏師のことが大好きで、その優しさや真面目な想いに反応して弦を張り、聖奏によって奇跡を起こすのだ」という説は聞いたことがあったし、信憑性があると思っている。
(私の温かさ、なんて言われてもあまりピンと来ないけれどね)
弦を張り直したら、デニスに辺りの監視を任せつつそっとつま弾いた。
ピン、ピン、と澄んだ音が夜の草原に響き渡る。
それを耳にしたデニスは振り返り、幸せそうに頬を緩めた。
「……なんだか久しぶりだね」
「私もよ。……それじゃあ、普通の曲を弾くわ。聖奏をしたい気持ちもやまやまだけど、今はやめておくわ」
「うん、楽しみにしているよ」
セリアは左肩と膝で聖弦を支え、緩やかな六拍子の曲を奏で始めた。
聖弦が精霊の力を呼び起こすのは、聖奏用の曲を演奏したときのみ。今セリアが奏でているのは、ファリントン王国の楽師ならば誰でも知っているメジャーな曲だった。
途中から速度が上がり、漣立つ湖に揺れる小舟のように、せわしなく、何かに追われるように、奏でられたメロディはやがて元の落ち着きを取り戻し、何ごともなかったかのように最初のリズムに戻る。
拍子を取るために体を揺らせながら弾くセリアを、デニスは目を細めて見つめていた。
演奏に集中していたセリアは気づかなかったが、デニスの藍色の目は限りない愛情を込めてセリアを見つめていた。
滑らかに動く右手と、伏し目がちで弦を見下ろす眼差し。
弾くときの癖でほんの少し開いた唇に、ほんのり色づいた頰へと、彼の視線が動いている。
そんな彼の視線に気づかないセリアは、曲に心を乗せて聖弦を弾く。
聖奏は、すばらしい。
聖奏師の女性が聖弦で、聖奏の曲を奏でたときにのみ発動する精霊の力は、人間の可能性を越えて多くの恵みを与えてくれる。
(すごいけれど、その力を過信してはならない)
ピン、と最後の音を奏でたセリアはわずかに目を細めた。
(ミュリエルは――今でも、自分の考えを貫き通している。聖奏の力を最大限に発揮し、精霊の恩恵を惜しみなく皆に与えている)
それが本当に正しいのだろうかと、セリアはずっと考えてきた。
一時は、敗者である自分が間違っていて勝者であるミュリエルが正しいのだと、無理矢理自分を納得させていた。
だが、やはり今でもミュリエルの方針を完全肯定することはできない。
(ミュリエルが筆頭になったこの国は、どう変わっていくのかしら)
セリアがいた頃より発展するのか。
何も変わらず現状維持するのか。
それとも――
「……っくし!」
「大丈夫、セリア!? ……そろそろ冷えてきたね」
そう言いながら立ち上がったデニスは自分が着ていたベストを脱ぎ、くしゃみをしたセリアの肩に掛けてくれた。
「これでもないよりはましだから、着ててよ」
「い、いけないわ。それじゃあデニスの方が風邪を引いてしまうわ」
「僕はさっき君に元気をもらったから大丈夫」
それにこれがあるし、とデニスは敷き布代わりに使っている上着の袖部分をぽんぽんと叩いた。
「男は丈夫にできているんだよ。君は女の子だから、体を冷やさない方がいい。……膝掛けとか持ってくればよかったね、気づかなくてごめん」
「いいえ、暖かい時期だからって油断していた私がいけないのよ。気遣ってくれてありがとう」
そうはっきりと返し、セリアは手早く聖弦の弦を消してからケースに片付けた。
布で磨いたりといった丁寧な手入れは、帰ってからすればいいだろう。