緑の丘の夜
デニスはセリアがはらはらする中、グリンヒルの館での生活を始めた。
そして慌ただしく一日目が終了した夜。子どもたちを寝かしつけた後、セリアは彼を屋上テラスに呼んだ。
「へぇ……こんな見晴らしのいい場所もあったんだね」
「子どもたちが来たら危ないから、日中は封鎖しているの」
テラスに出たデニスが辺りを見回して感想を述べたので、セリアは答える。
「ほら、手すりが付いていないでしょう? 本当は柵や手すりを付けたいのだけれど、他のことにお金を回していたらなかなかここまで手を付けられなくてね」
「そうか。手すりが付いたらみんなで星空鑑賞会とかもできて楽しそうだね」
そう言ったデニスは持ってきていたシートを広げ、セリアと二人並んで座った。
「……グリンヒルでのお仕事一日目はどうだった?」
「楽しかったよ。傭兵の皆は見た目こそゴツいけど気さくでいい人たちばかりだったし、子どもたちも早速『デニス兄ちゃん』って呼んでくれて、可愛かった」
「ああ、そういえば肩車をせびられていたわね」
セリアはその時の光景を思い出し、くすっと笑う。
昨日麓町で再会したとき、デニスは買い物に連れてきていた少年を肩車してあげたのだ。どうやら館に戻った彼が皆にそのことを自慢したらしく、デニスは他の子どもたちからも自分も乗せてくれと詰め寄られていたのだ。
「そうそう。大人の男は他にもいるし、傭兵の皆は僕よりも体つきがしっかりしているからそっちでもいいじゃないかって言ったら、『ごつくてかたいから、いやだ。デニス兄ちゃんがいい』って言われてさ」
「あはは……確かにデニスなら、それほどごつくも硬くもなさそうよね」
「うーん……僕、もっと逞しくなりたいんだけどなぁ。これでも毎日鍛えているんだよ。でもなかなか理想の体型になれなくって」
「いいじゃない。デニスまでごつくなったら子どもたちががっかりしちゃうわ」
「それもそうだね。だったら、この体型でよかったのかも」
そう言い、二人は顔を見合わせてくすくす笑いだした。
「……なんだか、不思議な感じ」
「何が?」
「二年前は、こうして君と地べたに座ってお喋りをするなんて考えられなかった」
「……そうね、確かに会話をするにしても図書館で椅子に座っているか、立ち話だったわね」
「うん、昔ならあり得ない話だったよ」
平民出身の騎士であるデニスならともかく、筆頭聖奏師で公爵令嬢でもあったセリアが地べたに座り込むなんてことは滅多になかった。あったとしても、尻の下にはふかふかのマットや浅めの椅子が置かれていた。
それに、周りに誰もいない場所でデニス――異性と二人きりになるということがなかった。
仕事中は常に近くに誰かがいたし、図書館で出会ったときもたいていは他の利用者や司書の姿があった。思い返せば、デニスと完全に二人きりの空間で話をしたのは、ミュリエルとの勝負のために夜まで図書館で勉強していたときが初めてである。
セリアは両腕を後ろ手に突き、胸を反らせて星の瞬く夜空を見上げる格好で「そうね」と呟く。
「確かにあり得なかったわ。……あの頃の私は、たくさんのものを手にしていた。身分も、地位も、何もかもを手にしていた。ミュリエルとの勝負だって、負ける気は一切なかった。……今思えば、きっと私は自分の力を過信しすぎていたのね」
「……セリア」
「実力だけじゃない。これから先、私は手に入れることはあっても失うものはなく生きていけるのだと信じていたわ。たとえ聖奏師としての力が弱まって筆頭の座を退くことになっても、生きる術はいくらでもある。……叔父様はそもそも私の存在を快く思っていなかったけれど、筆頭になったことだけは褒めてくれた。だから、年を取ってもうまくやっていけると思っていたの」
本当は、引退後はエルヴィスの妃になるつもりだった。筆頭の座を後輩に譲ったらエルヴィスと結婚し、ファリントン王国に生きる女性の最高位を手にするつもりだった。
だがその儚い夢は、周知の事実となる前に砕け散ってしまった。二人の関係は極秘だったので、エルヴィスも何の気兼ねもなくセリアを棄てることができたのだろう。
(私は……思い上がり激しい、ただの高飛車な女だったのね)
たくさんのものを失い冷静になった今では、二年前の自分がいかに高慢だったかがよく分かる。「つけあがるな!」と過去の自分を叱責したいくらいだ。
身分も地位も未来も、失って当然だったのだ――最近では、そう考えるようになっていた。
「でもね、全部失ってからやっと分かったの。私はそれまで、本当に狭い世界しか見ていなかった。ファリントン王国全体を見通しているつもりになっていたけれど、実際私が見ていたのは王都という限られた一部のみ。一歩城下町の外に出ると、国民たちは重税に悩まされ、いつ侵略してくるから分からない他国の脅威に怯え、飢饉を恐れていた。王都がきらきら輝いていたのは、私たちが何不自由なく生活できていたのは、彼らからいろいろなものを搾取していたからなのだと――生まれて十七年目にしてやっと気づけたの」
――ファリントン王国北部は、鉱山資源に恵まれている。西部は避暑地に最適な湖畔地方で、海に面した南部では海の幸が豊富である。
それは、貴族向けの教科書に書かれている綺麗事に過ぎなかった。各地方の平民は重い税を課され、王都を豊かにするために金や名産品、作物などを搾り取られている。天候や気候の変動によって作物の収穫量や人々の体調も変化するが、そんなの貴族の知ったことではない。
定められた税を払えなければ罰せられる。罰せられたくないから、自分たちの身を削ってでも仕事をする。どれほど仕事をしても、彼らが一年間に稼げる金は筆頭聖奏師だったセリアの数日分の給金程度だった。
「だから、ミュリエルに敗北したことによって生じたのはあながち不幸だけじゃなかったと思うの。教科書に書かれているきれいなものばかりじゃない、本当の世界を見ることができた。それに――」
「それに?」
「筆頭じゃなくても、聖奏師じゃなくても、公爵令嬢じゃなくても、私を見てくれる人がいるって気づけたの。ただの『セリア』を受け入れてくれる――それだけで、私は幸せなの」
不幸だ、不幸だ、と嘆いていても仕方ない。
グリンヒルの館の皆が、セリアに存在する意味を与えてくれた。
二度目の人生を歩む方法を教えてくれた。
デニスはセリアの横顔を見、ふっと小さく笑った。
「……君はきっと、このグリンヒルで生きるために産まれてきたんだね」
「……そ、そこまで壮大な話じゃないと思うけれど、ここに来てよかったと本当に思っているわ。……あ、でも王都での生活が嫌なことばかりだったってわけじゃないわ。聖奏師の皆のことは今でも懐かしいし、デニスみたいに私の身分や立場に関係なく話をしてくれる人もいたもの」
「そうか。僕の存在も、無駄じゃなかったんだね」
「無駄なわけないわ!」
それまでずっと空を仰ぎながら喋っていたセリアは、弾かれたように横を見る。
「デニスは子どもの頃から、私と平等に接してくれたわ。それまで私は皆から傅かれ、敬意を払われるのが当然だった。でも、あなたは私をただの女の子として扱ってくれたもの」
「……そういえば初めて君と図書館で会ったとき、『平民が話しかけないでくださいまし』って言われたんだっけ」
「……そ、その、傲慢な子どもで本当に申し訳なかったわ」
「いいよ、公爵家のお姫様としては当然の対応だったんだから。でも、なんだかんだ言って図書館で会ううちに、君は僕と普通に接してくれるようになったじゃないか」
デニスに指摘されて、セリアはややおぼろげになりつつある昔の記憶を引っ張り出した。
彼の言うとおり、初めて図書館で出会ったときセリアは気さくに話しかけてきたデニスに対し、酷い言葉を浴びせたものだ。「帰れ」とか「失せろ」とか「話しかけるな」とか、そういう拒絶言葉のオンパレードだったと思う。
だがそれ以降も図書館で勉強をしていると、たびたびデニスが現れるようになった。最初は彼を突っぱねていたセリアも、いつしか裏のない彼の明るさに絆され、相手をするようになった。その図書館は学校に通う子どもたちが平等に利用できるために存在していたので、公爵家の護衛などが入ってくることも、誰かに叱られることも咎められることもなかったのだ。
彼とお喋りするときは礼法の授業で教わっていた貴族の話し方ではなく、だいぶ砕けた口調になった。
セリアが十二歳になって学校を卒業する前くらいには、一緒に本を読んだり勉強したりするようになった。
セリアが筆頭の座を退いた聖奏師の元に弟子入りすることになった時には、「大人になったらまた会おう」と再会を約束した。
(きっと、デニスは「私」を形作るために必要な人だったのね)
彼と出会わなければ、セリアはもっともっと高慢でもっと高飛車な女になっていただろう。公爵家の親戚たちは、平民と話をしないどころか、その姿が視界に入るのも嫌っていた。きっとセリアもそのような女に成長していただろう。
「デニスとの出逢いも、ミュリエルに負けたことも、まったくの無駄じゃない。あなたと知り合ったから、ミュリエルに負けて国を出たから、分かったこともたくさんあるわ。それにもしデニスと出会ってなかったら、私はミュリエルに負けたときに途方に暮れて生きることすら諦め、早々に行き倒れていたでしょうね」
「そうなんだね。……実は、僕も同じ。君と出会って僕の中でいろいろなものが変わったんだ」
「あら、デニスもなの?」
小首を傾げて問うと、デニスは照れたように笑いながら後頭部を掻いた。
「具体的に何が変わったのかまでは言えないけどね」
「ああ、出たわ。デニスの秘密主義!」
「ごめんね。でも、少しくらい秘密がある男の方がミステリアスで格好いいと思わないかい?」
そう言ってぱちっと粋にウインクをするので、セリアはぷっと噴き出してしまう。
「ふふ、それもそうね。それじゃあミステリアスで格好いいデニス、これからもよろしく」
「……。……うん、よろしく」
笑いあう二人の頭上で、ひとつの星が尾を引きながら天穹を流れていった。