緑の丘の名無しの楽師
「……あなたはずいぶん変わりましたね」
不意にマザーに声を掛けられ、セリアは整理した帳簿を紐で綴じつつそちらを見やった。
マザーはロッキングチェアに揺られながら、口元に微笑みを浮かべていた。
「二年前のあなたとは別人のように変わりました」
「そう……でしょうか。自分ではよく分かりません」
正直に答えると、マザーはふふっと気品に満ちた笑い声を漏らす。
「そうですね、自分の変化は自分ではよく分からないものでしょう。……ここに来たばかりのあなたは、常に張りつめていました」
「張りつめていた――」
「ええ。何かに追われているかのように身を固くし、常に辺りに注意を払っていました。きっと、目には見えない何かがあなたを追いつめていたのでしょう」
マザーの言葉に、セリアは手を止めた。
(私は、追いつめられていた――)
目には見えない何か。
それはきっと、「どうにかしないといけない」「私は誰かに必要とされたい」という脅迫にも似た考えだったのだろうと、今では分かる。
手にしていた栄光の全てを剥奪され、セリアという人を必要とされなくなった。
だから、この新天地では公爵令嬢でも聖奏師でもない、ただのセリアとして生きていきたい。
ただのセリアを見てほしい。
ただのセリアでも、必要としてほしい。
だから、必死になって仕事を探した。
慣れない洗濯をして桶をひっくり返し、力の入れすぎで布を破いた。
まともに包丁を持ったこともないのに見栄を張って「料理ならできます」と答え、皮むき開始数秒でまな板を血まみれにした。
赤子のあやし方が分からず、ただでさえ泣いているのをどうにもならないくらいまで泣かせてしまった。
傭兵たちの武具の手入れを手伝ったら、扱いを間違えて防具を壊してしまった。
(……今考えてみると、最初の頃の私はろくでもないことばかりしていたのね)
だが、セリアが失敗をしても笑い飛ばし、「できることをすればいい」と言ってくれたのがグリンヒルの館の皆である。そうしてセリアは簡単な手伝いをしつつ、幼少期から叩き込まれた勉学能力を活用して帳簿記入や書類の作成、子どもたちへの基礎教育を担当するようになったのだ。
それだけではない。
「セリア、今夜は出稼ぎに出ていた皆が戻ってきます。料理はもちろんのこと、セリアの演奏を楽しみにしているのですよ」
マザーに言われたセリアは笑顔になって、胸に手を当てた。
「ありがとうございます。張り切って演奏しますね」
「わたくしも楽しみにしていますね」
マザーは光を見ることのない目を閉ざしたまま、セリアを見つめて言った。
聖奏師としての身分は封印している。
デニスがかろうじてすり替えてくれた聖弦も、夜中にこっそり手入れするくらいでここ二年は弾いたこともない。自室の棚の最下段にひっそりと寝かせていた。
だが、セリアが演奏できるのは聖弦だけではないのだ。
夜になり、館の食堂は皆の話し声や食器の音で満ちていた。
子どもから大人まで、仕事のない者は全員揃って食堂で食事をするので、いつも食堂は大にぎわいだ。子どもはよく食べるし、傭兵たちはそれ以上によく食べる。給仕たちも大忙しである。
静寂、という言葉とは無縁の食堂に、セリアは足を踏み入れた。小脇に抱えた竪琴をしっかり握り、ざわつく食堂を見回してすうっと息を吸う。
「今日も一日お疲れ様でした、皆さん!」
聖奏師時代に大声で仲間に指示を出していたため、セリアの声は喧噪の中でもよく通る。
片手を挙げて舞台役者のように堂々と食堂に入ってきたセリアを見、飲むなり食うなり騒ぐなりしていた者たちは一斉に顔を上げ、セリアの姿を見て歓声を上げた。
「よっ! グリンヒル一のべっぴんの登場だ!」
「セリアちゃん、今日も可愛いよ!」
「ありがとう! 皆のおかげで、今日の私もとっても可愛いでーす!」
ちょこっと舌を出したセリアが笑顔でおどけると、どっと笑い声が溢れた。
最初の頃はこのがさつな空気やよく分からない褒め言葉におどおどしていたものだが、二年経てば人間も変わるものだ。ランズベリー公爵家の令嬢が傭兵たちの前で「可愛いでーす!」とおどけるなんて、親戚たちが知ったら卒倒するかもしれない。
セリアは給仕があらかじめ準備してくれていたステージに上がる。ステージといっても、木製の箱をひっくり返して並べただけのお立ち台だ。その上を歩くたびに箱が軋み、体がぐらぐら揺れる。
「今日も皆さん、お仕事お疲れ様でした。そして子どもたちは、お勉強や訓練お疲れ様! 名無しの楽師セリアが皆さんのために、一曲弾きまーす!」
「いよっ! いいよいいよセリアちゃん!」
「今日の曲は何だぁ!?」
傭兵たちはヒューヒューと口笛を吹いて盛り上がり、子どもたちも両手を叩いてセリアの演奏を待つ。
皆が、セリアの演奏を楽しみにしてくれる。
この高揚感と、胸を震わせる幸福感。
そして、確かな使命感。
セリアは背もたれのない椅子に腰を下ろし、竪琴を構えた。愛用している聖弦とは全く形が違う市販の竪琴だが、これは弦の数が聖弦と同じ十八本で、音域も同じ。
セリアは昔聖奏していたときと同じ癖で、瞼を半分閉じた。セリアのその様子を見、それまでやいのやいの騒がしかった食堂は、水を打ったように静まりかえる。
ピン、ピン、とチューニングのために何度か弦をつま弾いた後、セリアの右手がゆったりとしたメロディを奏で始めた。
セリア愛用の竪琴は、吟遊詩人たちが使用するものよりも若干大きめで、弦の数も多い。それでもハープほどの本数はないので、左手で弦を押さえるなりして音域を調節しなければ、幅広い音を出すことはできない。
それでも、十年以上慣れ親しんだ楽器だ。セリアの両手は迷いなく滑らかに動き、やがてメロディは速度を増し、軽快なワルツの前奏が始まる。
おおっと皆の間で声が上がった。
これはヴェステ地方に古くから伝わるワルツで、町の祭や結婚式などでは必ずといっていいほど演奏されるメジャーな曲だった。当然、グリンヒルの館の者でこの曲を知らない者はいない。
この曲には歌詞があるのだが、あいにくセリアは楽器演奏専門であって声楽は得意ではない。吟遊詩人のような弾き語りはできないのだ。
よって――
「さあ、みんなで一緒に歌いましょう!」
セリアは、左手を差し出してそう声を張り上げた。
セリアのかけ声を受け、傭兵たちが両手を広げてのびのびとした低音を歌い、子どもたちも立ち上がって可愛らしいソプラノボイスで主旋律を歌う。
厨房から飛んできた料理当番たちも慌てて歌に参加し、マザーの手を引いて遅れてやって来た女性たちも途中から旋律を歌い始める。
あっという間にセリアの竪琴の音は皆の歌声にかき消されてしまうが、全く気にならない。
先ほどからセリアの頬は緩みっぱなしで、少々荒っぽくなりながらも力強く竪琴を奏でる。
傭兵は少々酒も入っているようで、音程はめちゃくちゃだ。
子どもたちは途中から歌詞が分からなくなるようで、分からない箇所は適当に歌ったり鼻歌で誤魔化したりしている。
女性陣は周りの者たちがめちゃくちゃに歌うのだから自分でもだんだん訳が分からなくなってきたようだが、それもどうでもよくなったらしく大笑いしている。
上品さや繊細さの欠片もない、食堂の大合唱。
その一員に加われることの幸せ。
皆がセリアの演奏を待ってくれる嬉しさ。
これらは、王都では決して味わえなかった感覚だ。
(聖奏師の子たちや、デニスにもこの声が届けばいいのに)
今頃ミュリエルと一緒に仕事をしているだろう元仲間たちや、セリアを最後まで案じてくれたデニス。
彼らにもこの歌声が届いてほしい。
そして、「セリアは元気でやっているよ」と伝えたかった。