筆頭聖奏師の朝
緑豊かな王国、ファリントン。
精霊の恩恵を受けたこの国は昔から自然に恵まれており、領土の西には貴族の避暑地として愛される湖畔地方、南方には海の幸に富んだ穏やかな海、北には貴金属の採掘で栄える鉱山町などがある。
伝承では、太古に邪神と戦いを繰り広げた大地の精霊たちが祝福を与えた国――それがファリントン王国であるとされている。
大陸にあまた存在する大小様々な国家の中でも、ファリントンは自然だけでなく、精霊の力にも恵まれている。
ファリントンの人々は豊かな自然と精霊の加護、聡明な国王、そして――「聖奏師」たちによって、永き平安の時を過ごしている――そう信じられていた。
「――では、スケジュール通りに聖弦の訓練の後、精霊への祈り、そして講義に移ること。午後はそれぞれの配置について仕事をしてもらいます」
ファリントン王国の象徴でもある白亜の王城、ルシアンナ城。
精緻な彫刻が施された柱が並ぶ回廊に、少女のきびきびとした声が響き渡る。
中庭の花々が臨める回廊には、二十人近くの少女たちが集まっていた。一番若い者で十代前半、年長でも二十歳手前くらいの、花も恥じらう年頃の娘たちだ。
そんな彼女らは一様に白一色のローブを羽織っており、胸には不思議な形の木枠を抱えている。皆は、背筋を真っ直ぐ伸ばして前を見つめていた。
彼女らの視線の先には、本日の日程表を手にして少女たちに指示を出す若い娘が。
回廊に集まった少女たちの中では年長の部類に入る彼女は、腰に片手をやった姿勢で日程表の内容を読み上げている。
「本日、城下町の診療所へ往診に行く人は?」
「はい、私とルイーザとアナベルです」
「では、離宮で療養中の太后様への訪問は?」
「はい、私とセリーヌ、ヴェロニカ、ソニアです」
「よろしい。では、それ以外の人は私と一緒に城内勤務です」
そう締めくくって日程表を下ろした後、「そういえば」と彼女は付け足す。
「明日から、新人の聖奏師が王城に上がるそうです」
「新人、でございますか」
少女たちは顔を見合わせる。
新人がやってくるのは久しぶりだったのだ。
「そうです。地方出身の少女で、年は十五歳とのこと。指導は私がしますが、皆も温かく迎え入れるようにしましょう。では、解散」
その一言で、集まっていた少女たちはそれぞれの持ち場へと移動していく。
――が。
「うっ、きゃあっ!?」
まだ十歳そこそこだろう少女が、振り向き様に自分のローブの裾を踏んづけた。その小さな体がバランスを崩し、胸に抱えていた木枠が腕から滑り落ち――
「っ、ペネロペ!」
どたん、という音に日程表を鞄に片付けようとしていた娘が振り返り、少女ペネロペの方へと小走りに駆けた。
「大丈夫ですか、ペネロペ!」
「うう……肘が痛いです」
体を起こしたペネロペは、倒れる寸前にかろうじて腕を前方に突っ張ったらしく、左の肘が赤くなっていた。
娘はペネロペの体と彼女が持っている木枠に素早く視線を走らせた後、ほっと息をついた。
「……ペネロペも聖弦も無事のようですね」
「は、はい」
「しかし……ペネロペ。聖弦を持ったまま転ぶのは今月に入って一体何度目ですか!」
びりっと肌に突き刺さる叱責の声に、ペネロペはぐすっと鼻を鳴らせた。
他の少女たちが不安そうな眼差しで見守る中、娘は説教を続ける。
「あなたの体もそうですが、聖弦に傷が付いたらどうするのですか! あなたの体の傷は自然治癒で癒えますが、聖弦はそうもいかないと、何度も言っているでしょう!」
「う、うえぇ……すみ、ません……」
「今回もまた、ローブの裾を踏んづけたのでしょう!? この前踏んづけて倒れたときに、裾が長いのなら自分で裾上げをしなさいと言ったでしょう!」
「ご、ごめんなさい。すっかり忘れてて……それに、私、裁縫苦手で」
やれやれ、と娘は天を仰ぐ。
ペネロペは一生懸命だしいい子なのだが、ぽややんとしすぎていて「うっかり忘れ」が非常に多い。そしてよく泣く。
「……苦手ならば、誰かの手を借りなさい。いいですか、ペネロペ。不慮の事故はともかく、回避できることならば自分から危険を取り除くように用心しなさい」
「う……」
「ペネロペ!」
「は、はい! 分かりました、セリア様!」
ペネロペは隣にいた仲間から受け取ったハンカチで涙を拭った後、元気いっぱい返事をした。返事だけは立派なのだから、早くそのおっちょこちょい具合も改善してほしいと、娘――セリアは切実に願っている。
盛大に洟をかみながら、仲間に支えられてペネロペが去っていく。
セリアはその場に立って、部下たちが三々五々散っていくのを見届けていた。
「……見たか、今の」
「見た見た。すっげぇ怖ぇよな、セリア・ランズベリー」
自分の持ち場に移動しようときびすを返しかけたセリアは、背後から聞こえてきた声にぴくっと身を震わせた。
「あんな小さい子を怒鳴りつけてさぁ……」
「筆頭になったからって偉そうにしてるし。そのくせ、まだ十七とかそこらだろ?」
「そうそう。陛下に重宝されてるからって、俺たちにもあれこれ指図してくるんだぜ。鬱陶しいっちゃないね」
「あんまり言ってやるなよ。あれでもランズベリー公爵の姪だろ?」
「あんな怖くておっかなくて偉そうなオヒメサマなんて、公爵ももてあましてるんだろうなぁ」
一応セリアの視界には入らない場所から言っているようだが、声を潜めるつもりはないようだ。むしろ、セリアに聞かせるつもりであれこれ言っているのだろう。
セリアは数回深呼吸し、きりっと前を向いた。
(気にしない、気にしない)
自分に言い聞かせるように、自分を励ますように何度も心の中で繰り返し、セリアは思い切って振り返った。
柱の影で悪口を言っていた青年騎士たちは、噂の種であるセリアがずんずん歩いていったためか、こそこそと別の柱の方へと移動していった。彼らは確かセリアよりも年長だったと思うが、何とも情けない姿だ。
すれ違い様、騎士のひとりと目があった。
ものすごく怯えた目で、こちらを見ている。
セリアはふっと鼻で笑い、進行方向へと視線を向けた。
「……今の、見たか?」
「すっげぇ腹の立つ笑顔だな」
「あんなのが筆頭なんて、やってられねぇよ」
相変わらずこそこそと陰口を叩いている。
セリアの真正面では、あんな強気にならないくせに。
また、仲間と一緒ではなく一人だったらあんな陰口をたたいたりしないくせに。
(私は強い、私は大丈夫)
まるで呪文のように、セリアは己に言い聞かせ続けた。




