夢と現実の狭間で
「おにいちゃん!!」
突然呼びかけられ、寸でのところで手が止まった。
何も悪いことをしていたわけでもないのに、大量の汗が流れていく。
声のする方に首だけを回し視線を移動させる。
「いつまで寝てるの?学校遅れちゃうよ」
そこにはいつもと変わらない様子の妹・恵美が立っていた。
「おかあさーん。お兄ちゃんやっぱり寝てたよー」
「早く降りてきてご飯食べるように言ってちょうだい」
「だってさ。早く降りないと恵美がお兄ちゃんのも食べちゃうからね」
それだけ言い残すと一定のリズムを刻みながら階段を下りていった。
キイィィィィィィ
音を立てながらドアが閉まっていく。
夢を見ていたのだろうか。
今の今までその世界にいたはずなのに思い出せない。
確かなのは手の平や背中がグッショリと汗で濡れていることから察するに、あまりいい夢ではなかったということだろう。
スッキリとしない寝起きのまま視線を壁に掛けてある時計へと移していく。
時間は—————八時五分を廻ったところだ。
まだしっかりと温もりのある布団から出るには少々厳しい寒さのなか足先だけを出してみて身震いする。
こんな寒い中でよく寝れるものだと自分のことながら感心してしまうほどに空気は冷たい。
それでも起きないわけにはいかず冷えきった床に足をおろす。
途端に冷たくなっていく足の裏から冷気は一気に上へと駆け上がっていく。
ジッとしていたら全身が冷えるまで一分も持たないと悟りフリースのパーカーを羽織ってから急いで部屋を出た。
部屋を出ると家族全員の部屋のドアが開け放たれている。
どうやら僕以外は全員とっくに起きているようだ。
階段を下りながらベッドから出る時にポケットにしまった携帯を取り出す。
たいてい夜中のうちに一件はメールがきているものだ。
だからこのタイミングでチェックをするのが癖になっていた。
画面を起動させるべくボタンを押す。
すぐに真っ暗な画面には待ちうけ画面が表示される・・・はずなのだが。
何も表示されない。
何度か間隔をあけながら押してみても反応はない。
おかしいな~なんて思っていてようやく思い出した。
そうだ。昨夜は充電するのを忘れて寝ちゃったんだった。
結局使えない携帯をポケットに直し込み階段を足早に下りていくと途中で聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ワンワン!クゥ~ンクゥ~ン。ワンッ」
チャムが僕に気付いて吠えている。
きっと千切れんばかりに尻尾を振って吠えているのだろう。
ガリガリガリガリ
ドアに一生懸命すがっているらしく爪が擦れる音まで聞こえてくる。
チャムのおかげでうちのリビングのドアは片面の一角だけが虎刈り模様になってしまっている。
そんなチャムの待つドアの前まで下りてきた。
ドアノブを開けるべく伸ばした手が何かに驚いたようにビクッと止まった。
誰がその場に立ってもわかるような静かじゃないリビング。
だいたい賑やかなうちにおいて静かな時間は深夜くらいのものだろう。
それなのに僕は何で止まった?
待ちきれない様子のチャムが全力でジャンプしてドアノブに飛びつこうとしているが小さな体の彼がいくら頑張ったところで届くはずもない。
途中でドアにぶつかっては弾かれる。
言い知れぬ疑問に満ちた心も、目の前で起こっている微笑ましい光景に落ち着いていく。
そんなチャムの姿がかわいくてそのまましばらく放っておいたが、さすがに疲れたのかお座りして待つようになってしまった。
興奮したチャムの襲撃に備えるようにしてゆっくりとリビングのドアを開ける。
開けた隙間から途端に焼きたてのパン独特の芳ばしい香りが溢れ出して来た。
同時にチャムも顔を出し隙間を無理やり広げて体も出してから僕の足にじゃれて来た。
「ようやく起きてきた。あんた一人だけ模試で学校に行くんでしょ?だったらせめて恵美よりは早く起きなくてどうするの」
「お兄ちゃんお寝坊さんだから仕方ないよね~」
母さんと恵美に言いたいように言われてしまっているけど、起きれないものはどうしようもない。
携帯のアラームもしっかりとセットしておいたのに本体が動かないんじゃアラームだって働けない。
その結果寝坊してしまったのだから仕方ないだろう。
なんていう風に胸を張れるわけもなく頬をポリポリと掻くのが精一杯の抵抗だった。
そんな立場に立たされている僕にチャムは遠慮なくじゃれて来る。
チャムからしたら『おはよう』とでも言っているのかもしれない。
犬が挨拶をしてくるのに僕が無視するわけにはいかない。
しゃがみこんで頭の先から尻尾の先まで撫でつくしていく。
指先や手の平に触れるチャムは暖かさに溢れていた。
「いつまでじゃれてるの。ほら、早く座って食べてちょうだい」
母さんに急かされるまま慌てて椅子に座る。
暖房がついているだけあって僕の部屋と違いリビングの中は暖かい。
「ねぇねぇお母さん。お父さんは起こさなくていいの?」
「いいのよ。たまにはゆっくり寝かせておいてあげましょ」
「ふ~ん。お兄ちゃんはゆっくり寝かせてもらえなくて残念だったね」
しつこいなあ。別にゆっくり寝ていたかったわけじゃないっていうのに。っていうか、父さんがまだ寝てるんなら部屋のドアくらい閉めておいてあげられないものだろうか。
二階はただでさえ寒波台風とかの影響で暖房なしじゃ極寒だって言うのに。
そんなことを考えているうちに昨日の夜の冷え切った空気を思い出して身震いした。
「お兄ちゃん大丈夫?熱でもあるんじゃないの?」
向かいの席に座っていた恵美が心配そうに首を傾げながらこちらを見ている。
どうやら風邪でもひいたと思われたようだ。
心配させても悪いし平気平気と手をヒラヒラと振ってみせ食卓に並んだ朝食を口に運ぶ。
せっかくの温かい食事が冷めてしまわないうちにと、さっさと食事を食べ終え身支度を済ませていく。
20分もかからないうちに全ての支度を終えて玄関まで行き聞こえたかどうかも分からないような『いってきます』を言い残し玄関をでた。
外に出た瞬間、頬を冷たい風が撫でていった。
ギュギュッギュギュ
妙な音が足元から聞こえて慌てて下を見ると真っ白でふわふわとしたものが当たり一面に敷き詰められていた。
雪だ。
昨夜のうちに降り積もったのだろうけど最近では珍しいほど見事なまでに積もっている。
こうなると大事な移動手段である自転車は使い物にならない。
バス停まで行けばバスが走っているかもしれないけど、そこまで歩くと学校までの道のりの半分を歩いたことになる。
そこから寒い中バスを待って乗ることを考えるならついでに歩いたほうがマシだろう。
つまり残された通学方法は歩きのみということになる。
歩いていけない距離じゃなし時間的にも余裕はあるのだが、気持ち的には面倒なことこのうえない。
それでも行かないわけにはいかないのだがらと仕方なく歩き始めた。
まだほとんど人が歩いていない道は足跡も少なく降り積もった雪の上は綺麗に輝いている。
自分がまだ子どもなら思わず飛び込んでいたかもしれない。
日の光を反射させて煌びやかに演出する雪の絨毯はそれほどまでに綺麗なのだ。
だからといって本当に飛び込むほど純粋な子ども心は残っていない。
せいぜいが無駄に足跡を残して行くのが精一杯の子ども心の見せ方である。
そんなことをしながら学校の近くまで来ると、僕と同じように模試を受けに来た生徒たちによって学校付近の雪の絨毯は踏み固められ土気色になり見る影もない。
片側二斜線の道路を渡り校門前までようやく辿り着いた頃には時間ギリギリになっていた。
ちょっと遊びながら来過ぎたかな。なんて思いながら間に合ったことに対して安堵の溜め息をついていると吐き切って酸素の空っぽになった肺に衝撃が走った。
「おっはよーっす」
挨拶と同時に背中を元気良く、もとい力いっぱい叩かれたのだ。
ゴホッゴフゴホッ
思わぬタイミングで叩かれたことで咽ている僕にそいつは、ひょっこりと顔を覗かせて来た。
まだ咽ていてまともに喋れない僕は喋れない代わりに精一杯睨みつけてやった。
「なによその目は。かわいいかいい幼馴染みに向ける目じゃないわよ」
かわいいかわいい幼馴染みがするようなことじゃないし、そんな行動をしたあとに笑みを浮かべるような奴をかわいいとは言わないだろう。
それでもコイツは文句なしに外見だけはかわいいのだから世の中の作りは平等じゃないにも程ってものがある。
僕の住む家の隣に住んでいる幼馴染みである藍那は黙っていれば誰もが振り向くほどにかわいい容姿をしている。
黙っていればの話だが。
口を開けばアホみたいに喋るし行動は男勝り。とにかく容姿と伴わない性格なのだ。
「もういいわよ。それより今日の模試が終わったらちょっと付き合ってよ。駅前に美味しいクレープ屋さんが出来たみたいなんだけど、一人で行ってもつまんないしさ」
そういうことなら女友達誘って行けばいいだろうに。
男がクレープ屋さんに入るのってちょっとした勇気が必要だったりするというのに。
「みんな用事があるとかで断られちゃってさ。しょうがないからあんたを誘ってあげたわけよ。その代わりクレープ代は私が払ってあげるんだからありがたく思いなさい」
こいつはいったい何様のつもりなんだ。
小さい頃はもうちょっと女の子らしくマシな性格してたと思うんだけど、年月と言うものは人を成長させるだけでなく変化までさせてしまうものなんだな。なんてことを思わずにはいられないほどにコイツは変わった気がする。
クラスの男どもに言わせればそこも魅力の一つだということらしいが。
「とにかく模試が終わっても勝手に帰らないこと。いいわね?」
そこまで念押ししなくても同じクラスだろうに。
何にしても模試は午前中で終わるわけだから、これで今日の昼食は決まったようなものだ。
タダで食べれると言うことなら恥ずかしさなんて気にする必要はない。
しかも相手は藍那だ。
遠慮なく最も高い物を選べる。
模試のあとに楽しみが出来たこともあり僕は意気揚々と教室へと乗り込んでいった。
ガラガラガラガラガラ
教室のドアを開けると十数人の生徒が既に席に着いていた。
今日は希望者だけが受ける模試のため来ている生徒はクラスの半数にも満たない。
先生も教卓に肘をつけた姿勢でボーっと窓から外なんかを見ている始末である。
そりゃ教師も日曜日に出勤させられるんだから面倒だろうけど、もう少しやる気を出すことは出来なかったものだろうか。
そんな教師と生徒がいる教室内は日常と違い静かなものだった。
キーンコーンカーンコーン
静寂の中に始業のベルが鳴り響いた。
「よーし、みんな席に着け」
いや、最初からみんな座ってますって。
どうして決まり文句みたいにそこから始めるんだろうか。
「全員問題用紙と解答用紙はあるか?・・・よし、では始め!」
開始の合図とほぼ同時に紙をめくる音と鉛筆が机に当たる音が教室内に響く。
他に一切の音はないが、不思議と耳障りに感じることはない。
解答はマークシート方式だから早い奴は信じられないほど早く問題を解き終えていく。
かく言う僕もかなり早い方だ。
さっさと問題を解いて残りの時間を睡眠時間、通称リフレッシュ時間に当てるのだ。
こうすれば頭もスッキリするし次の科目に切り替えられる。
とうぜん今日もそのスタイルは崩さない。
まだ三十分は時間の余裕を残して最初の科目を解き終えた。
見直しも完璧。もうやり残したことはない。
安心すると朝スッキリしない目覚めだったせいもあり突然睡魔に襲われた。
抗うことも出来なくはないが、やるべきことをやり終えている現状において抗う意味はない。
逆に抗えば残りの科目に響く可能性が出てくる。
そう決断した僕はすんなりと睡魔を受け入れることにした。
遠のいていく意識の中で周りに響く鉛筆の音が催眠術のように聞こえてくる。
その音も次第に遠くなっていきプッツリと聞こえなくなっていった。
それから間もなくして慌てて目を覚ました。
感覚的に寝すぎたと感じたからだ。
さすがに次の科目が始まる時には先生が起こしてくれるだろうが、それではあまり心象がよくないだろう。
重い瞼が再び閉じてしまわないように意識的に開くようにして力を入れる。
ボヤけていた焦点が少しずつ合い始め目の前の光景を鮮明に映し出していく。
それと同時に僕は背中から倒れるように尻餅をつき床に手をつけてその場から這うようにして後ずさってその場から離れた。
そのまま背中がぶつかるまで裕に二メートル近くは後退した。
人から言われるまでもなく今の自分がおもいっきり目を見開いていることがわかる。
それほどまでに驚いてしまっているのだから。
なぜ自分が今ここにいるのかが理解できなかった。
目の前に存在する光景。
サークルの中で静かに丸まっているチャムが僕の瞳に映ったのだ。