9 とりあえず服を着ようか
暖かい毛布に包まれて俺は夢を見ていた。
いつ頃の夢だろうか、たぶんわりと最近の姿を俺はしていた。長袖のシャツに中はTシャツ、下は職場の作業ズボンのままの姿だ。
その格好で俺はリュックを背負って駅前の繁華街を歩いている。
いつも顔を出していた立ち飲み屋が、おぼろげな視野の中に納まった。
ああ、これは元いた世界で最後に見た光景じゃないだろうか。
俺は確かバイト帰りに、一杯だけビールを飲みたくていつもの立ち飲み屋に足を向けていたのだ。
家で飲むビールも嫌いじゃないが、店員の若い姉ちゃんに「いやぁ今日も疲れたよ!」と話しかけながら、安い「お疲れ様セット」を頼むのが極上の喜びだった。
少ないバイト代でやりくりしていた俺としては最高の贅沢である。
確かあの時も、俺はのれんを潜ろうと立ち飲み屋に足を運んだんだ。
もしかしたら、俺はあの時に死んでしまったのか? 車にひかれたとか。
視野の中にくだんの立ち飲み屋と、道路交通量もそれなりにある狭い繁華街の道が映っている。
行きかう車が見えた。だが俺は別に車に引かれたわけじゃないらしい。
なぜならば俺は何を思い立ったのか、立ち飲み屋を前にして、ぐるりと方向を転換してしまったのだ。
今朝の夢はそこで終了した。
俺の名は吉田修太。
異世界では猟師見習いをやっている三二歳のワイルドメンだ。
嫁のカサンドラと朝の挨拶もそこそこに、俺は鍬をもって外に出る。
カサンドラから、自宅である猟師小屋の前にある畑を耕してくれと頼まれたからである。
彼女がひとりこの猟師小屋で生活していた頃は、男手が足りなくておざなりになっていたらしい。
季節は春だ。
カサンドラに聞いてみると今は暦の上で四月の終わりという事だった。
山野の雪が解けるのが二月の末で、そこから徐々に過ごしやすい季節が広がっていく。
時期的に畑を耕すには遅いぐらいらしいが、それはカサンドラひとりではしょうがない。自分だけの食い扶ちを得ていた頃は芋を育てているだけだったそうだ。
芋は手軽に手入れが出来て、寒さにも強く水も少なくていい。
俺は言われるままに痩せこけた土に鍬を振り下ろし、たがやしていく事にした。
カサンドラの持っている畑は、小屋の前の四枚である。そのうちのひとつが芋畑だから、今日は手前のもうひとつを手入れしよう。
これから毎日やっていく事だし、早くカサンドラの暮らしを楽にしてやらないとな。それが男ってもんだぜ。
「お前、朝から何をやっているんだ」
俺がしばらく枯れた土をまぜかえしていると、そこに猟師のッワクワクゴロさんがやって来た。
彼はいつもの猟師スタイルで、背中には弓も背負っている。
「おはようございます、ッワクワクゴロさん。今日はどこかにお出かけですか?」
「リンクスがかかっているか、これから見に行くぞ。お前もついてこい」
「おお、もうそんな時間ですか」
というわけで、畑一枚のごく一部を耕したところで、俺はサルワタの森へと出かけなければいけない。
コボルトを潰して括り罠スネアを仕掛けた場所の様子見に行くのだ。
「それじゃあ今日も行ってくるよ。大人しく待っているんだよ?」
俺は愛妻に声をかけた。
「でも、畑の手入れもしないといけませんし」
「そんな事は俺が帰ってからやるから、君は家事でもやっていなさい」
「……あのう、鍛冶ですか? わたし鍛冶はやった事が無いんですが」
「ふうん、そうなのか」
料理をしたり洗濯をしたり、俺がいてもいなかった頃もやっていたはずだけど、はて。
女村長も俺の世話をしろとカサンドラに言いつけていたのに、おかしいなあ。
もしかすると謙遜をしているのかもしれない。
得意じゃないんですけど、わたし精一杯がんばりました!
うん、カサンドラは必死萌えを武器にするひとか。
ウンコする時いつも必死だもんな。
「じゃあまあ適当でいい。俺が帰ってから手伝うよ」
「……ありがとうございます。お気をつけて、いっていらっしゃい」
そんなやり取りをして、待たせていたッワクワクゴロさんと森へ出かけた。
「何だ、俺がいるのも忘れてイチャついてやがるなぁ。このこの」
「そうですか? まだ手を触れてもお互いキョドっている感じなんだよなぁ」
「なんでぇ、まだヤってないのか。もしかしてお前はムッツリか?」
「女の子は大好きなんですけどねえ、妻は俺と顔を合わせるたびに、すごく嫌な顔をするんですよ」
「全裸だもんな」
「全裸ですもんね。今はチョッキつけてますけど」
「だがほぼ全裸だ」
違いない。
俺は股間をさすりながらけもの道を進んだ。
聞くところによると、ッワクワクゴロさんは猟犬を使役していないらしかった。何でも育てるだけでも犬の食い扶持がいるし、躾をするのもかなり大変なものらしい。
そういう理由でこの村の猟犬は一か所に集められて、猟師たちを束ねている男ッサキチョさんというリーダー格の男が預かっているのだとか。
またしてもゴブリンである。
「ゴブリン族は立場が低いからな。普通どの村でも小作人か、猟師に木こりと相場が決まっている」
「そうなんですか、コブリンって大変なんですね」
「優れたゴブリンはみんな街に行くからな。そいつらは傭兵や冒険者となって、己の腕を頼みに面白おかしく生きているだろうさ」
「ッワクワクゴロさんはそうしなかったと」
「するわけがねぇだろう。家族を捨てて街に出るなんてどうかしている」
と、ッワクワクゴロさんは憤慨しながら言った。
「俺が街に出てみろ、残った兄弟や家族はどうなる。猟師は立場が悪い。狩りに失敗すれば村からただ飯を食わせてもらう身分だからな。その上、真冬のもっとも厳しい時期は森に入る事が出来ない」
そうなのである。雪に荒野が閉ざされてしまう冬季は、基本的に森の奥で狩りをする事が出来なかった。
とすれば猟師たちは比較的森の浅い地域で鹿を狙う様になる。
この時期の鹿たちは深く雪の積もった山林ではえさを取る事が出来ず、草原地帯に移動してしまうのだった。
そして森から出た鹿は、猟師にとってとても捕まえにくい相手だった。
フィールドがだだっ広い草原のために、待ち伏せする場所が限られてしまうからだ。
「じゃあ狩場に入れない時期はどうやって生活するんですか」
「内職をするんだよ。ブーツを作ったり槍を研いだり、鏃をこさえたり。冬場は鍛冶の季節だ」
「ほほう、鍛冶までやるんですか」
「村にも鍛冶師はいるが、ドワーフの爺さんも忙しくてな。俺たち猟師はいつも後回しだ。それにホレ」
ッワクワクゴロさんは矢筒から一本を抜き取ってそれを見せる。
「石の鏃は自分でこさえたほうがいい」
モノの本によれば獲物の獣皮に対して、金属の鏃に比べて石の鏃は貫通力と殺傷力が非常に高いらしかった。
鉄の鏃は量産できて規格がそろっているかわりに、こちらは対人用なのである。
俺は納得した。
それにしても狩猟を生活基盤にするというのはとても不安定なのだな。
改めてそれを思い知らされたのは、サルワタの森に仕掛けたひとつ目のスネアのところにやってきた時だった。
◆
「餌だけ見事に喰い荒らされている」
舌打ち気味にッワクワクゴロさんが言った。
しゃがんでスネアの周辺を探っているが、土に足跡を見つけて微妙な顔をしていた。
ネコ科の足跡である。だが、女性の掌ほどの大きさがある。デカくね?
「デカいですね、リンクスですか……」
「ワイバーンや熊を除けば、ここいらで一番の大物だからな、当然だ」
餌だけをやられたついでに、このリンクスは獲物をねぐらに持ち帰ったらしく、コボルトを地面に引きずった跡が残っていた。
そして二個目の罠も不発に終わってしまった。
「……駄目だったな」
「駄目でしたね。いやぁ残念」
「まあ毎日狩りをしていればこれが普通だ。大物がかかる時はこれでしばらく生活できるが、獲物がかからない時は、ひたすら無駄になる」
猟師の生活には、どこかバイトを掛け持ちしたり、転々と短期の派遣をやっていたフリーターの俺の生活と重なる部分があった。
それはいい事なのか悪いことなのかわからんが、それでも元の生活に近いライフスタイルは、俺にとって馴染みやすいともいえるだろう。
元のライフスタイルと明らかに違うのは、俺が今限りなく全裸に近いという事だけだろう。
「リンクスを張って、ここで待ち伏せするのは駄目なんですかねえ」
「それは子育ての時期が過ぎたらやる。子育て時期は警戒して手が付けられんからな」
「なるほど!」
俺はひとつ賢くなった。
確かおじさんが言っていたな。子育て時期の母熊には気を付けろと。
ツキノワさんでも猟師が手を焼くのだから、トラなみのデカさが想像できるリンクスはマジでやばい。
帰りに俺たちは狐を一頭仕留める事が出来た。
たまたま村のすぐ近くまでやって来たところで、俺と狐の視線が交差したのである。
「シューターやれ!」
咄嗟に叫んだッワクワクゴロさんは、即座に背中の短弓を下ろしながら惚れ惚れするような動作で矢をつがえたが、俺も同じ様に動作を見習って、矢を放った。
距離はたぶんわずかに十メートル足らず。
一瞬立ち止まってキョトンとしていた狐目がけて二本の矢が飛んだ。
俺の矢は外れて、ッワクワクゴロさんの矢はしっかりささった。
「お前、名前のわりに弓使いが下手だな!」
まあ、はじめての弓だからね。しょうがないね。
◆
むくっ。起きました!
何がって、そりゃあねえ。たまってたんだよ、言わせんな!
どうしてそうなったかと言うと……
実は俺、ッワクワクゴロさんと別れて帰ってくると、猟師小屋には新妻のカサンドラちゃんが留守をしていたのでガッカリした。
どこにいったのだろう。
紙もペンも無い不便な生活なので、書き置きなんてものはもちろんない。
かわりに洗濯ものが猟師小屋の入り口に干してあるのと、室内のボロいテーブルに、茹でた豆と玉子が置いてあった。
ひとりで食べるには多いところを見ると、俺の分もあるのだろう。そして俺は縛り罠スネアの様子を見るだけと言って出てきたから、お弁当は持ってきていなかった。
いつまでたってもカサンドラちゃんが帰ってこないので、俺は悲しくなってひとりで食べるとふて寝したのだ。
とても寂しかったので妻のベッドで横たわり、毛布についた妻の臭いを嗅ぎながら寝た。
そしたら息子が起床した。
むくっ。おっきくなりました!
「あの、シューターさん……」
目が覚めると。
どういうわけか大きく成長した我が息子に当惑の顔を浮かべるカサンドラが、おずおずと怯える様に俺を覗き込んでいた。
隣には毛むくじゃらのおっさんがいる。
誰だこのおっさん?
「とりあえず服を着ようか?」
おっさんはヒゲをしごきながら、腰巻きを俺に寄越すのだった。