3 ニワトリ小屋からブタ箱にお引越しします 前編
異世界住人であるところの俺の朝は早い。
具体的にはまだ陽も昇らないうちから、同居人のニワトリたちが騒ぎ出すのだ。
「コケコッコー!」
朝ですよ。
ぐいと伸びをしたら暗闇の中で俺の一張羅、腰巻きを装着する。
俺の全装備だが、あるとないとではまるで安心感が違う。
ただし腰のあたりが擦れるので、そろそろいいおべべを手に入れたい。
すると突然、家畜小屋の閂が外される音がした。
乱暴にドアが開き、青年ギムルがぬっと体を突っ込んできた。
「起きろ、お前は今日からここを出るんだ」
いきなり顔を出したかと思うと、遠慮なく俺の手を引っ張って外に放り出した。
筋肉塊の青年ギムルに引っ張られると、俺は簡単に放り出される。
まったく乱暴な男だぜ。
「ここを出るって。それじゃ俺は今夜から野宿ですか? そろそろ温かくなってきたからいいけど、さすがに夜は人恋しいですし、できれば相棒たちと一緒がいいんですが」
「黙れ」
俺は黙った。
ニワトリたちはドアが開いたら元気よく次々に家畜小屋を飛び出していく。
現金なもんで、転がっている俺の上を容赦なしに踏み越えていった。
やめろ。俺の屍を超えるんじゃない。
どうやら相棒だと思っていたのは俺の方だけだった様だ。恋はいつでも一方通行。
「それで俺はどうしたらいいんですか。今日から薪割りはしなくていいんですよね?」
「ついてこい。お前は今日から家畜の世話だ」
「家畜の世話! ちょっと仕事内容がグレードアップしたぜ」
そんな事を言いながら腰巻きの位置を調整しつつ立ち上がる。
朝はまだ寒いが、少しでも体を動かせば暖かくなるだろう。早く家畜の世話をしたいものだ。
俺は青年ギムルの後をついて歩いた。
「俺は家を追い出されたわけですが、それじゃあこれからはどこで生活すればいいんですかね」
「あそこより大きい畜舎がある。そこで寝起きしろ」
おお、それは嬉しいじゃないか。
三畳一間の部屋からデカい家畜の屋敷に移動か。今度は牛か馬が相棒になるのかな?
……ブタでした。
数十匹のブタがいて、ブヒブヒ言っている。とにかく臭い。
家畜小屋は臭かったが、たぶん悪臭はそれ以上だろう。
「お前はここで、今日から糞の掃除をするんだ」
青年ギムルは俺にそう命じると、いつもの様に少し離れた場所に移動して俺を監視しはじめた。
こいつ、もしかしてニートか?
腰に剣をさしているところを見ると、あの女村長の側近なんだろうがまるで働いているところを見た事が無い。いいご身分だぜ。
そんな事を思っていると、女にしてはがたいの大きいおばさんがこちらにやって来た。
「あんたが今日から糞掃除をする男かい?」
「やあはじめまして。俺は修太です」
「御託はいいから、そのショベルで樽いっぱいになるまで糞をかきあつめな。それが終わったら樽をあっちの小山まで運ぶんだ」
「小山? それは何でしょう」
「見ればわかる。いいから仕事をやんな!」
おばさんは手に持っていた木の棒で俺の尻を叩いた。
「アヒィ!」
「口を動かすんじゃないよ、ちゃっちゃと手を動かしな!」
おばさんはとても厳しかった。
言われるままにあわててショベルを手に取ると、ブタたちがそこら辺りにまき散らした糞をすくって、樽に放り込む。
昨日までの薪割り仕事のおかげでちょっとやそっとの事では疲れる事は無かったが、それでも腰はすぐにだるくなった。
畜舎は割合と大きい。各階に四宅入っているアパートぐらいの大きさはあるのではないか。
そこに三〇あまりのブタがブヒブヒ言っている。
衛生管理という概念が無いのだろうか、畜舎は汚らしく、ハエがぶんぶん飛び回っていた。
とても嫌な仕事だが、食べ物を与えてもらうためには仕事をしなければならない。
おばさんは俺の事を少しの間だけ見ていたが、満足したのか木のバケツに入れていた布きれを絞って、ブタたちの体を丁寧に拭きはじめた。
いくら体を綺麗にしたところで、そいつらすぐに寝そべるから汚れるだろうよ。
そんな事を考えていると、糞をある程度樽に詰め終わったあたりで、ついでの仕事を俺に命じてきた。
「あんた、ボサっとしてないでその汚れた藁を外に出すんだよ」
「藁をですか?」
「そうさ。新しい干し藁と入れ替えるんだ。ほれさっさとするんだよ!」
おばさんはすぐに怒り出したので、俺はあわてて命令に従った。
俺はこれまでもいろいろなバイトをしてきた。
家内制の小さな工場なんかで手伝いをしていると、時折こういうおばさんがいる。
とにかく厳しく、とにかく口うるさい。右も左もわからない仕事場なのだから、俺は当然右往左往する。するとお叱りひとつ飛ばして俺をこき使うのだ。
あれは俺が学生服を作っている下町の工場で働いている時の事だった。
経験者優遇とあったが、まったくひとが集まらなかったので、工場の近所に住んでいる主婦のお姉さんたちと一緒に働くことになった。
やれ指が不器用だ。そんなんじゃ売り物にならない。とにかく言葉で責め抜かれた。俺だけだ。
一緒に来ていた主婦のお姉さんたちは、過去にもこの工場で働いたことがあったらしい。
初心者は俺だけ。
俺は工場オーナーの社長仲間のおじさんから、ちょっとだけ手伝ってやってくれと繁忙期に応援に行っただけだったというのに。
ただし、一週間もして俺がこなれてくると、文句を言われなくなったもんだ。
おばさんばかりの町工場では、荷物運びをする時は男手がいると助かったわけだ。
今回も畜舎のおばさんは、俺をていのいい労働力と見たのか藁の入れ替えに糞運び、何でもかんでも俺に肉体労働をさせた。
ただし、絶対にブタそのものの世話は俺にやらせなかった。
ブタは賢い生き物というのをモノの本で読んだことがあった。一説には犬よりも賢いらしい。
なので、村社会のカーストで最底辺にいる俺にはまるで懐かなかった。
青年に監視され、おばさんに折檻される俺は、あくまでもブタの世話をするブタさまの下人だ。
ブタはまだいい。
こいつはブタと言ってもたぶんイノブタとかいう類のものだろう。牙が生えていて、毛もわさわさしている。俺の知っているブタとちがって、つるつるしていない。
ところが俺は腰巻き一丁だ、ブタより悪い。
最初に命じられた糞樽を捨てる小山というのは、せっせと運んでみるとすぐに見つかった。
汚泥というのか、糞や汚れた藁、土をこんもり盛った堆肥の山であった。
帰って来るのが遅くなるとまた木の棒でしばきあげられそうだったので、俺は糞樽をひっくり返して捨てると、すぐに次の糞樽を運ぶ。
都合七往復ぐらいすると、腰がいいかげん苦しくなって背筋を伸ばしたりトントンしたりしていた。
「サボってるんじゃないよ!」
「すませんおばさん」
「誰がおばさんだい。あたしにはジンターネンっていう立派な名前があるんだよ!」
「すいませんジンターネンさん!」
バシリと太い木の棒で腕を思い切りたたかれた。
たぶんこれはアザになるな。
俺は空手経験者だからこの痛みがわかる。
ミドルキックを腕で受け損ねた時の様な衝撃が走った。
◆
昼飯はいつだって楽しみだ。
今日は特に体全体を使って労働したから、いつもより倍ぐらい腹を空かせている。
どこで飯を食わせてもらえるのだろうとソワソワしていたら、今日は女村長の屋敷の裏手には連れていかれず、かわりにジンターネンおばさんが籠を持って登場した。
「あんたは今日から玉子を食べる事を許された。感謝しな」
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
俺は昼飯に、ふかし芋と茹で玉子を食べていい事になった。
玉子なんてどれぐらいぶりに食べるだろうか。
元の世界に居た頃は、コレステロール値を気にしてあまり食べなかった。
モノの本によると実は一日に玉子を何個食べても関係ないらしいが本当だろうか。まあここは異世界で俺にとって異世界初の玉子である。そんな事を気にしていられるか。
俺に与えられた茹で玉子はみっつもあった。ふかし芋もみっつだ。幸せ。
「あんた」
ジンターネンさんは言った。
「名前は何て言うんだい。別に名前なんてどうでもいいが、そこにいるブタにだってそれぞれ名前がついてるんだ。あんたにだってあるんだろう?」
ちなみに畜舎で一番手前につながれているブタの母親はパンピという名前らしい。
なかなかかわいらしい名前じゃないか奥さん。
俺は最初に挨拶で名前を言ったはずだが、それはすでに忘れられているらしい。
「修太です」
「シューター? フン、偉そうに」
ジンターネンおばさんはそう言って急に不機嫌になると、最後に「さっさと食べちまいな!」と言って太い木の棒で俺の頭をおもいっきり叩いた。
俺は悲しくなって急ぎ最後の茹で玉子を飲み込むと、のどを詰まらせた。
ブタの世話が一段落すると、俺は堆肥を混ぜこぜにする仕事を命じられる。
「今日中によく混ぜて、上から土をかけておくんだよ」
ジンターネンさんが俺に指示する。
返事はもちろんイエスしかない。
「それが終われば?」
「終わったら川から水を汲んでおいで、家畜用の水桶の中身を入れ替えるんだ」
「わかりました。それが終わったら?」
「それが終わったら今日は終わりだ。けどたぶん、ぐずぐずしてると大変な事になるよ」
「大変な事?」
俺が聞き返すと、ジンターネンおばさんは腰に手を当ててふくよかな胸を揺らした。
「もうすぐひと雨くるだろうからね。急ぎな」
空を見ると、北の山あいに大きな雲が広がっている。灰色のどことなく嫌な感じの雲だった。
俺はあわててショベルを持つと、堆肥を混ぜ返す仕事をはじめる。
これがまたとてつもなく重労働だったが、この手の仕事は土木作業を経験していると、多少は似た感じなのでできない事は無いと思った。
ただし最近は土木建築関係の仕事はやっていない。
というのも保障の問題やら保険の問題やら、よくわからないが、身元のハッキリしていない俺みたいなフリーのアルバイターは土木会社や建設会社が嫌がる様になったからだ。ちゃんとした正規の人間はともかくとして、いざ事故にあってしまうとこういうバイト君は扱いが大変だ。
それでこういう体力仕事をやるのは、実のところ久しぶりだった。
しばらく堆肥をこねまわした後に、土を近場から運んできてかぶせる。
しかし発酵した堆肥はとても臭い。新鮮な糞と糞まみれの藁も臭い。先日までは俺自身が臭かったが、今は周辺の空気全体が臭かった。
こんな仕事、やりたがる人間がいないわけだ。
だからよそ者の異世界人である俺がやらされているのだろう。
ようやく堆肥を混ぜ終わると、今度は畜舎にあるたくさんの水桶を交換する。
畜舎の中でぶちまけたらジンターネンさんに殺されかねないので、四角い木組みの水桶をどうにかして運ばなければならない。
これが死ぬほど重かった。
水はなみなみと注がれているわけじゃなかったが、抱き上げられるものではない。
いろいろ考えて小さな桶ですくって捨てて、ある程度中を空にしてから、引きずってこれを外に出すと水を排出した。
空の雲行きとにらめっこしながら、とにかく急いでそれをすべて捨てる。
捨てたら今度は天秤棒の両方に水桶を引っかけて、川まで水汲みだ。
本当はすぐ近くにある井戸を使わせてもらいたいところだったが、青年ギムルにお願いしたところ、
「駄目だ」
すげなく拒否された。
「どうして……」
「駄目なものは駄目だ」
「じゃあどこで水を汲んだらいいのですか」
「川で汲め」
川は村の外れにあるらしい。ちょっと遠すぎやしませんかね?
なんでも井戸は、利用できる人間が限られているらしい。
とても悲しくなった俺は、天秤棒を担いで急いで川に行った。
天秤棒は俺になじみのあるものだった。
空手では生活の周辺にある道具を武器にする。
拳はもっとも身近にある武器だ。そしてサイというフォークのバケモノや天秤棒もまた武器となるのだ。
天秤棒はおおよそ一間、一八〇センチ程度の長さがある。
ちょっと大柄な人間の身長なみである。
振り下ろす、突く、振り上げる、叩き突く、そして足を引っ掛ける、抑え込む。
こういった動作で相手を制するのだ。
捕縛術の道具としても優れており、また相手に致命傷を与える事も容易だ。
俺も武器の中で一番得意な獲物は何かと聞かれれば、間違いなく棒の類を口にするだろう。
空手道場でも慣れ親しんだ武器だった。
しかしこの天秤棒を日常の相棒にする日が来るとは思わなかった。
それこそ十往復もしていると、水を汲んだ帰りは肩に天秤棒が食い込んだ。
手押し車でもあれば、きっと楽なんだ。だがそんなものは俺にはない。
いやこの異世界にはあるのかもしれないが、見た事が無かった。
何往復しただろうか、ふと木陰で座り込んでいる青年ギムルを目撃した時である。
あいつは瓶を片手で持ち上げて口に運んでいた。
あの瓶は見覚えがある。俺が昨日、妙齢の女村長に褒美としていただいたぶどう酒のはずだ。
「ちょっとギムルさん、あんた何やってるんですか!」
俺は水桶と天秤棒を放り出して青年ギムルにくってかかった。
「見ればわかるだろう。喉を潤していたのだ」
「しかしそれは、俺のぶどう酒だ」
「だから何だと言うのだ」
「それを飲んだという事は、対価を払ってくれるんだろうな。代わりに何かくれるのか?」
「黙れ」
俺が必死でくってかかっていると、青年ギムルはぶどう酒の瓶を置いて立ち上がった。
そのまま腰に下げた剣を引き抜く。
やばい。こいつ目が本気だ。
ぶどう酒を飲んだせいで気持ちが座っているのか、そもそも俺なんかの事を何とも思っていないのか。
いや、もしかしたらその両方かも知れない。
剣を無造作に抜いた青年ギムルは、それを両手に構えた。
こいつ斬る気だ。
そう思ったのは構えながらずいと前に踏み込んだ時、ちょうどその距離が青年ギムルの身長と武器の長さを足した幅だったからだ。
武器の長さと身長を足した距離、それが戦う際の適切な射程距離である。
俺は咄嗟にはだしの足で、転がっている天秤棒をつまんでひょいと持ち上げる。
宙を舞った天秤棒を取ると、命の危険を感じて構えるのだった。