185 サルワタへの帰還 中編
やあ、みんなは船旅をしたことがあるかい。
むかし俺は親父に連れられて瀬戸内でヨット遊びをしていたことがある。
大きな船になればなるほど、その揺れは緩やかなものになるそうだ。
全長が数百メートルにも達する巨大タンカーになると、少々波が揺れたところでほとんど感じないものだが、発動機も積んでいない様な競技用ヨットともなると、沖に出れば波に弄ばれまくるのである。
ちょうど小川を流れる笹舟を連想してみるとわかりやすいだろう。
「飛龍殺しの鱗裂きのニシカさんともあろうひとが、まさか船酔いに悩まされるとは思いもしませんでした」
「おっオレ様はサルワタの森とともに生きる長耳の部族なんだ。こんな河船に乗る事になるなんて、思いもしなかったぜ……」
俺の目の前には、空になった酒樽を抱きしめるひとりの黄色い蛮族がいた。
ニシカさんは末永く一緒にいることを誓った様に酒樽にひしりとしがみつき、時折「うっううっ」と嗚咽を漏らしながら酒樽の中に首を突っ込むのである。
酒に酔ったのか船に酔ったのか、あるいは酒をしたたかに呑んだ所為でで船酔いを誘発したのかはわからない。
けれども、これからサルワタの村で発生したという女性連続殺人事件をの知らせを受けて急遽とんぼ返りをしないといけないというのに、何とも幸先が不安な彼女である。
「でも、よかったですね。ずっと恋人が欲しいと言っていたじゃないですか。今では酒樽が恋人だ」
「……う、うるせぇ。そんな事より早く水をおくれよ。オレはもう駄目かもしれねぇ……」
冗談をひとつ飛ばしても、いつもならば唾を飛ばしながらあわてふためき俺に反論するところだ。
それすらも出来ないという事は、よほどこの貨客船の揺れがニシカさんを苦しめているらしかった。
俺は言われた通りクロードニャンコフ氏に用意してもらった白湯をニシカさんに差し出して、その丸まっている背中をゆっくりとさすってやった。
「すっすまねえ。水を飲んだら少しは気分がマシになって来た」
「あまり近場の河面を見ていると気分が悪くなると思います。そういう時は船首の先に見える遠くの視界を、ぼんやりと見ているといいですよ」
「ああわかった。そうするよ」
ニシカさんの張りのある筋肉と年頃の女性らしい肉付きの、バランスがとれた体も、今では軒先に吊されたサルワタマスの若干しみたいな萎れ様だった。
手伝って手を引いてあげると、船の揺れにあわせてフラフラとするものだから、あわててまた彼女の背中に手を回して支えた。
その瞬間に無防備すぎる豊かな胸が俺の体に密着してくるけれど、弱っりきったニシカさんに触れたところで、俺はひとつも得をした気分にはならなかった。
しかし、それにしても荒ぶりすぎる大きな胸はばるんと暴れた。
「ゆ、揺れますね……」
「あまり急に舵を切るんじゃねえってんだ。うえっぷ、オレはお前ぇの忠告通り、船先で遠くの方を見ているよ……」
ふらりふらりと幽鬼の様に揺れながらマストにすがり、艤装にすがりとしながら、ニシカさんは船先の方に向かっていくのを俺は眺めて見送った。
放っておくのも心配なものだから俺は手を貸そうと思ったのだけれど、ニシカさんはあまり俺に今の姿を見られたくないらしい。
ヒラヒラと手を拭って、さっさとアッチに行けとしんどそうな顔のままでアゴをしゃくってみせた。
後で白湯のおかわりを持って様子見に来る事にしよう。
俺は空になった木のコップを片手に、船尾にある客室に降りる階段に向かおうとした。
ふと、オッペンハーゲン公商会が有しているこの貨客船の中を見渡してみる。
年輩のベテランらしい甲板長の指示の元、せわしなく動き回っている人間の多くはゴブリンや浅黒い顔をした人間ばかりだった。
サルワタの開拓村で生活しているとあまり気にならない事だったが、ブルカやリンドルといった都会に出てきて俺が目撃した街のひとびとはここまで日焼けをしている事はあまりない。
逆にサルワタの連中なんてのは、顔こそしっかりと西洋ファンタジー風の白人っぽい顔をしているけれど、野良仕事が当たり前の環境にいるからか西洋人顔に浅黒いお肌をしているものである。
そもそもニシカさんは白人というよりも耳だけエルフなエイジアン顔だし、女村長はゴブリンハーフなのでオリエンタルな顔をしている。
ようじょはゴブリンだけれど彼女も純血というわけではないのでアレクサンドロシアちゃんと似たものだ。いかにもゴブリンらしいのはちんまりとした背の低さぐらいだろうか。
ところで俺が何でそんな事を思ったかというと、ゴブリンを除くこの貨客船の水夫たちがこのファンタジー世界で見慣れたおフェイスでなかったからである。
ニシカさんみたいなオリエンタルな顔とも違う。
何かの猿人間なんだろうかと、しげしげ彼らを観察しているところ、
「どうされましたか、シューター閣下」
「ああ、クロードニャンコフさん。いえ、オッペンハーゲンの水夫さんたちは、この辺りの人足とも違った顔つきの方が多かったもので」
「ああ、彼らはわが領内の出身者というわけではないのですよ」
「というと?」
「オッペンハーゲンは王国がこの辺境の地に植民と開拓へ本格的に乗り出すずっと以前から、本領の開墾に着手していた土地なのです」
数百メートルはある川幅の向こう側に広がる広大な畑を、眼をすぼめながらクロードニャンコフ氏はそう言った。
ほう、とその言葉に俺は興味を持って相槌を打つ。
「すると、リンドルの分限者だったというダアヌ夫人の一族の様に、オッペンハーゲンのご領主さまは地元に土着していた人間であると?」
「いえいえ。そういうわけではないんですけれどね」
言葉を区切ったクロードニャンコフ氏は、微笑を浮かべると俺の方に向き直った。
そして眼の前を目礼して通り過ぎた人物を指し示しながら言葉を続ける。
「彼らこそが、もともとオッペンハーゲンの近くにゴブリンたちとともに土着していた人々なのですよ。もともとはこの辺境よりはるか南東の地域を本拠としていたそうで、一説によれば全裸を貴ぶ部族だったと」
「……全裸」
「どうされました?」
「い、いや何でもないです」
「しかしそれは彼らのずっと古い先祖たちのはなしです。別に日常的に服を脱いで生活をするなんて馬鹿げた事をするはずがありませんし、そんな事をして喜んでいるのは、奴隷か頭のおかしい学者ぐらいのものでしょう」
「…………」
そんなオッペンハーゲン公商会の商人の言葉に、俺はたまらずバツの悪い顔をしてしまった。
べっ、別に俺だって好きで全裸で過ごしてたんじゃないんだからな。
今はちゃんと上等な服を着ているし、服を脱ぐのは寝所で過ごす時か風呂ぐらいのものだぜ。
俺が少し前まで全裸を貴ぶ部族と呼ばれていた事を知ってかしらずか、クロードニャンコフは改めて悠久をたたえる河を見やりながら言葉を続けた、
「そんな南東の部族やわれわれオッペンハーゲンのご領主さまにしてみればですよ。ブルカ辺境伯などという人間は新参だ。それも彼に与えられた開墾の場所は、もともとブルカの街の中心地とその周辺、それから北に広がる湿原地帯だったはずなんです」
それが今ではどうだ、とクロードニャンコフは苦虫を噛み潰す。
「同じ様に開墾のために遅れてやってきた領主たちが領地経営を失敗させると、先駆の利を活かしてこれらを強引に従わせる様になった」
はじめは商人どもを介したり、間接的に水源を押さえて周辺領主の農業経営に影響力を持たせるなど、それなりにブルカ辺境伯という男も遠慮があったらしい。
それが近頃は公商会を使って強引な政治介入も当たり前になってきているという。
「わが領地にも、南には万年雪をたたえる険しい山脈があります。ここはもともとあなたの奥さまの故郷があった場所なのですが、百数十年前から冬の気候が一段と厳しくなる様になって、奥さまのご一族も北へと退去なさりました」
クロードニャンコフ氏は船首側であぐらをかいて遠くを眺めているニシカさんに視線を向けていた。
「そんな場所ですから、開墾は自然と本領の中心地周辺とそこから北に向けてという事になる。当然、北のその先にはブルカの領地があります」
「つまり政治的にも経済的にも、農業用地の開墾をするにしても当然のようにぶつかるという事か……」
「はい、そういう事です。今はいくつかの軽輩諸侯たちの領地を挟んで間接的に対峙していますが、ひとたび戦争となれば領地の境界線は動きます」
「そういえば本土との辺境貿易の中継地としてもライバルだったんですよねえ」
「その通りです。王都とそれぞれ本土側の街、そこから本領までの街道の距離がほぼ同じ様なものなので、これもまた敵対の原因になっています」
このまま放置していても、何れオッペンハーゲン男爵領とブルカ辺境伯領が戦争をはじめるのは時間の問題だと言うのだ。
近頃オッペンハーゲンの男爵さまが大人しくしていたのは、ちょうど少し前に領主の権力交代が行われたからだったらしい。
俺がブルカ辺境伯からの介入を恐れて警戒していたのかと質問をしようとしたところ、
「それは下手にブルカ伯に眼を付けられて、お家騒動に発展しない様に警戒していたからかな?」
「いいえそうではありません。さる高貴な身の上のお方を、わが兄が奥さまにとお迎えになったからです」
「わが兄? するとあなたは……」
俺が予想外の返答に当惑をしているところ、改まって微笑を浮かべたクロードニャンコフ氏である。
「わたしはオッペンハーゲン領主家の血筋の者です。ただし生まれは王都でして、母もオッペンハーゲンの人間ではなく、王都で花売りをしていた女でした」
このどこか高貴な品格が漂っている彼を見ている限り、ただの花屋の売り子の子供だとはとても信じられない。
しかし兄が家督継承者である男爵さまという事は、やはりクロード氏もお貴族に連なるという事だな。
「ああ、ご安心ください。わたしはすでに養子に出された身分なので今はただの貨客船を預かる商人、クロードニャンコフでございます」
高貴な身の上の人間にしてみせる礼節にのっとって、クロードニャンコフが右手を胸に押し当てて見せた。
そして頭を垂れる。
「閣下、兄はマリアツンデレジアさまの檄に応じました。三〇〇〇の兵を、兄自ら引き連れてリンドルへ向かうと知らせが届きました」
オッペンハーゲンが動いた。
先触れの交渉を担任していてくれたカラメルネーゼさんが、密かにここまでお膳立てをしていてくれたのだ。
恐らく、その交渉があったからこそマリアツンデレジアの諸侯会議を呼びかける檄文に、オッペンハーゲン男爵が腰を上げたのだろう。
「あ、ありがとうございます。ありがとうございます」
「いえ、これは互いにとって必要な同盟関係であり、共通の敵を叩くための施策ですからね。つきましては細かな交渉については、船室の方で……」
上目遣いとでも言うのだろうか、様子を伺うようにして船尾の方を指し示したクロード氏が丁寧な物腰でそう続けた。
気がつけば、いつの間にか男装の麗人ベローチュがこちらに歩いてくる姿が見える。
きっと俺を探して船内を見回っていたのだろう。
すぐにも俺がうなずいて見せると、俺とクロード氏との間で両領主間の交渉糸口を見出した事を察したのだろう。
わずかに微笑を浮かべて、機敏に俺の側に寄った。
「ご主人さま」
「ニシカさんは船首で外の風にあっている。俺はこれからクロードニャンコフさんと話があるので、付いて来い」
「了解しました。今は時間が無い時ですから、移動のついでにいろいろ話が進められるのは幸甚ですね……」
耳打ちするためにベローチュが身を寄せながら、俺の隣を歩いた。
また舵を切る瞬間にたおやかな胸が揺れるのを目撃した。
暴れよるわ褐色おっぱい……
「ゆ、揺れるな」
「早船ですから仕方ありませんね……」
「本来はこんなに急ぎで操船しないのですが、今回は急を要するという事ですから多少は荒いかもしれません。申し訳ありません閣下」
いや、船のことではないんだけどね……
ニシカ奥さまにはご迷惑をおかけしました、と謝罪するクロードニャンコフ氏に俺は申し訳ない気分になってしまった。
さて。ゴルゴライに到着するまでに、少しでも身のある話を進めておきたいものだ。
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