姫君たちの秘めごと
むかしむかし――ずぅっと遠いむかしかもしれませんし、ほんの少し前のことかもしれませんが――とにかくむかし、とある小さな島国に、物語を読むことが大好きな女の子が住んでいました。
女の子の本棚には、たくさんの本がありました。とくに、お姫さまの出てくる物語が大好きでした。きらきらと幸せに過ごすお姫さまたちを見ては、女の子はうっとりするのです。
毎日寝る前に、お母さんに物語を一つ読んでもらうのが、おやすみのお約束でした。
……このお話の主人公は、女の子なんでしょう、ですって? いいえ、違いますよ。
女の子も、お父さんもお母さんも、ペットのシロも……みぃんな眠ってしまった後の、ふしぎなふしぎな物語。
今回のお話の主役は、女の子の本棚のなかにいますよ。
絵本が閉じられている間、おとぎの国の人びとがどんなふうに過ごしているか、考えたことはありませんか?
おとぎの国は生きているのですよ。女の子が絵本を読んでいる間だけ、物語を演じているだけなのです。
ほんとうは、陽気に歌を歌い、おいしいものを食べ、ふかふかのベッドで眠り、そして私たちと同じように恋をしているのです。
これは、そんなおとぎの国のお姫さまたちの、ちょっぴり内緒のお話です――。
*****
おとぎの国の人びとは、それぞれ暮らしがありました。
畑を耕す人、牛を育てる人、お城を守る人――。
なかでも、一番特別なのは、やっぱりお姫さまでした。お姫さまがいなければ、物語は成りたたないのですからね。責任重大です。
自由気ままに日々を過ごすことのできないお姫さまたち。
それを哀れに思った神さまは、お姫さまだけにと二つのものを与えられました。
まず一つは名前です。
いばら姫、灰かぶり姫、白雪姫……お姫さまだけが、名前を持つことをゆるされました。
そしてもう一つ。
それは小さな鍵でした。お姫さまたちの部屋のいちばん奥には、鍵を持つ者だけが通ることを許された扉があったのです。
お姫さまたちはそれを『本棚の扉』と呼んでいました。
――チリンチリン
「あ、きたきた。マリン、何やってたのよ~!」
「しゃあないよ。だってさ、今日はマリンがおやすみ当番だったんだろ? な、ユキ」
「シィちゃん、その言葉づかい……直そうよぅ……」
扉の鈴の音を聞きつけ、三人の姫がいっせいにふり向きました。
そこにいたのは青い絹の夜着をまとった一人の姫。日の光を映した水面のような金の髪、穏やかに波打つ海色をした瞳がとても美しい乙女です。
彼女は海の王国の姫君、人魚姫マリンといいました。
「ごめん、遅くなっちゃって。あの子、寝付けなかったみたいで、なかなか本を閉じてくれなくって……」
マリンは胸元に手を当て、いそいそと三人のいるテーブルにやってきました。
ごめんね、と困ったように笑うマリンを見て、三人はいいのいいの、とあっけらかんとした表情で手をふりました。
『本棚の扉』、実はこのサロンにつながっていました。
おとぎ話のお姫さまだけが入ることをゆるされた、会員制のサロン。ここに来れば、別の本のお姫さまたちとお話をすることができました。ただし、本棚にある本限定です。他の本棚の本には繋がっていません。
昔は世界中のすべての本が裏で繋がっていました。
ですが、みな使う言語はばらばらでした。さらには、自分の帰るべき本を見失い、道に迷ってしまったお姫さまもいるそうですよ。
ここだけの話、かぐや姫の物語におやゆび姫が迷い込んだこともあるんですって。竹におさまるサイズだったために、最初は誰もその間違いに気づかなかったんだとか……。
まぁまぁ、その話はいったん置いておいて……。
かれこれそういうわけで、焦った神さまは、大急ぎで規則を作り変えました。サロンは一つの本棚につき一つ、行き来できるのはその本棚のお姫さまだけ、と。
『本棚の扉』ができるまで、彼女たちは孤独でした。永遠に王子としか恋愛できず、子を成すことも許されない。長い年月、老いることもなく、ずっとそのままの姿でお姫さまとして生きていかねばならないのです。そして、物語を変えてはならないという掟を固く守ってきました。
そう――幸福な物語に、彼女たちは閉じ込められていたのです。心を痛めた神さまは、せめて彼女たちに友を、とこのサロンをお作りになったわけなのです。
サロンの中は白とピンク、そして金を基調としたロココ調の調度品で埋め尽くされています。優美で繊細な曲線、愛らしいロカイユ装飾が散りばめられています。その様子はまさにお姫さまの部屋。
ちなみに、開店当初はヴィクトリア調の家具が揃っていたのですが、どうやらお姫さまたちのお気に召さなかったよう。地味だ、質素だと……神さまに文句の嵐だったそうです。
ひどい話だとおっしゃるかもしれませんが、今も昔も、いつの世でもお姫さまはわがままなものなのですよ。
男子禁制のこのサロン、給仕はすべて女性です。
黒いロングドレスに白いキャップといったスタイルのメイドたちが静々と紅茶を運んでいます。彼女たちは茶葉を厳選し、季節に合わせて最高の紅茶を出すのでした。
この日はマリンたち以外にも、数名のお姫さまがいらっしゃっていました。
みな、紅茶を飲んで、焼菓子をつまみながら、ころころと笑っています。
もちろん、お姫さまたちの話題は決まっています。流行のファッションに恋のうわさ……きらきらとした砂糖菓子のような、あまぁい話が大好きなのです。
さて、お話を元に戻しましょう。
いばら姫、灰かぶり姫、白雪姫、人魚姫の四人はたいへん仲が良く、このサロンで色々な話をする間柄でした。あまりにも開けっぴろげに話すものですから、互いのパートナーの夜の事情なども筒抜けです。
誰もかれも姫らしく、慎ましい声で話し込んでいますが、たいていはお上品とは言いがたい話で盛りあがっていました。
殿方はお気をつけくださいね。奥さまにあまり無体なことをなさいますと……どこかで噂されているかもしれません。
四人には与えられた名前がありましたが、呼びにくいから、との理由でそれぞれ愛称で呼び合うことにしていました。いばら姫はローズ、灰かぶり姫はシンディ、白雪姫はユキ、人魚姫はマリン、といった風に。
今日は月に一度の集まり――いわゆる、女子会の日なのでした。
「ほんっとあの男、ダメなわけ。プロポーズの時はクソ真面目にいい顔したくせにさ。も~、マジで信じらんない」
ブロンドヘアをばさりとなびかせ、シンディが散々王子の悪口を並べ立てます。
元々、下町育ちのシンディは少々荒っぽいところがありました。
たまたま舞踏会で王子に見初められたのがきっかけで一国の妃となりました。玉の輿を狙ったシンディがわざと落としたガラスの靴、それにつられてまんまと彼女を探しにやってきた王子はそれはもう熱っぽく結婚を申し込んだそうです。
「でもさ、ぶっちゃけ、私たちだって同じように思われてるんじゃないかしら。なんだかんだ言っても、もう長い付き合いなんだもん。女としても、男としても飽きられたっておかしくないって」
ローズが遠くを見やりながら言いました。きっと昔の王子を思い出しているのでしょう。
いばらをくぐり抜け、自分を助けにきた逞しい王子。物語の間中、眠り続けで欲求不満だったローズは、寝食も惜しみ貪るように王子さまと抱き合ったものです。王子はローズのブラウンの髪を梳きながら、「いばらの城で眠る一輪の薔薇の姫よ……」と何度も囁いてくれました。
……が、それももう遠い思い出です。
マリンだけは産みの作者が違いましたが、四人とも同世代です。
彼女たちが生まれたのは千八百年代。王子とはかれこれ二百年の付き合いになるわけです。
いくら運命の恋をし、惹かれあったとしても、時の流れには逆らえません。絵本が開かれた時だけ、当時の馴れ初めをなぞる関係。
互いは空気のような存在へと変わってしまったのです。
「ああ~、あたしも恋したいっての。どうせなら町人のままの方が楽しかったんじゃね? モブキャラがいくら好き勝手しても、所詮モブキャラ。掟を破ることにはなんないしな」
普段、王女として過ごすに疲れているのか、シンディはここぞとばかりにがさつに振る舞いました。スカートの下の足は全開、大口を開け、がははと笑います。
ガラスのティーポットの中で揺れる茶葉を見つめながら、マリンは物憂げにため息をつきました。
三人にとっては当たり前のことが、マリンにとってはそうではありませんでした。
マリンには王子との幸福な時間などなかったのです。
絵本が開いた時だけが、王子を垣間見ることのできる唯一の瞬間でした。
ですが、何度繰り返しても、マリンの恋は報われることはないのです。痛みと悲しみに打ちひしがれながら、声を上げることすら叶わず、泡となって消えていく定めでした。
泡になり、物語が幕を閉じた後、気づけばいつも、海の王国で目が覚めました。ゆらゆらと揺蕩ったまま、さめざめと泣き崩れるのです。
諦めればいい。物語を演じているだけだと割り切ればいい。そう思う時もありましたが、やはり王子の姿を見ると、遥か遠い陸の国へと思いを馳せてしまうのです。
本来、情熱家で奔放な性格のマリンでしたが、恋をしている彼女はとても臆病でした。
マリンは適当な相槌を打ちながら、三人の話に耳を傾けていました。ひとしきり愚痴が出切ってしまえば、あとはファッションの話になるのが常のこと。恋の話題が早く収束するのを、心の底から願っていました。
ですが、この日はいつもと違ったのです。
シンディの話の途中で、急にユキがクスクスと笑い始めました。
どちらかと言うと、マリンと同じく聞き役のユキです。こんな風に、話の腰を折ることなど今までありませんでした。
「なんだよ、ユキ。何がおかしいんだよ」
シンディが眉根をひそめ、問いかけました。少しばかりムッとしているようです。誰だって、話の途中で笑われたりしたら怒ります。
そんなシンディの胸中を察し、ユキは慌てて訂正します。雪のような純白の肌が薄く色づいています。
「違うの。シィちゃんの話に笑ってるんじゃないよ! ただ……この前のこと、思い出しちゃって」
シンディとマリンは首を傾げました。ローズだけがにやけ顔で頷きます。
「あぁ、この前……シンディとマリンがいなかった日のことね」
ユキは頬をほんのりと染めています。
一体何があったのでしょうか。蚊帳の外の二人には見当もつきませんでした。ですが、いいことがあったのは間違いありません。
「退屈だなぁ、恋したいなぁ、って……まぁいつもの調子で話してたんだけどね。私、すっごくいいこと思いついちゃったのよ!」
「やだ、ローズちゃん、興奮しすぎだよぅ」
「なによ、二人とも早く言ってよ。気になるじゃない!」
キャッキャッとはしゃぐローズたち。シンディは興味津々に身を乗り出し、話の続きをせがみます。あまりに興奮したせいで、テーブルの足を蹴ってしまい、熱々の紅茶をこぼしてしまうほどです。
女性ばかりが集まると、ついつい男性の視線を気にしたり、遠慮したりといったことはなくなってしまうものです。
ローズはもったいぶってなかなか言おうとしません。焦らすだけ焦らし、全員顔を近づけるよう手で合図をしました。
「あのね……私たち、一日だけ入れ替わったの。お互いの旦那を交換したのよ」
それは衝撃発言でした。
シンディは驚きながらも、どこか目を輝かせています。マリンは信じられない、と手で口を覆いました。
「もちろん、掟に触れないように注意したわよ。衣装も交換して、ウイッグで髪型もごまかしてね」
「私は≪いばら姫≫の、ローズちゃんは≪白雪姫≫の物語を、ね。もう~、ばれないかドキドキしたけど、意外とばれなかったね!」
ローズとユキは互いに顔を見合わせ、悪戯っぽく笑いました。
「そんなことして、大丈夫だったのか?」
「ばれるわけないじゃないの。≪かぐや姫≫の物語におやゆび姫が迷い込んだ話、知らないの? それにね、女は化粧をすれば、いくらでも化けられるんだから。明かりを消して、ベッドに潜ってしまえば分かりっこないわ」
シンディの問いかけに、ローズはケロリと答えました。三人が大盛り上がりの中、マリンはおずおずと口を開きました。
「ねぇ、交換って……?」
質問したいことははっきりと分かっているのですが、それを言葉にするのは憚られます。マリンはまだ男性経験がなかったので、三人ほど開けっぴろげにはなれないのでした。
「もちろん、体の関係も含めてって意味よ。そうじゃなきゃ、交換した意味ないじゃない」
口ごもるマリンに、ローズはピシッと言い切りました。
「体の相性ってあるの。してみなきゃ分からないわよ、こればっかりは」
「やだぁ、ローズちゃんってば」
ローズはじゅるり、とあふれ出る涎をハンカチで拭くと、うっとりとその夜のことを語りました。
「……それにしても、ほんと、すっごくよかったわ~、ユキの旦那。変態だってのは聞いてたけどさ……たまにはああいうのもいいかも」
ユキの王子さまは、「死んでいても構わん!」と無理矢理、死体のユキに口づけるような強者です。いえ、むしろユキが目覚めることをほんの少し残念がってしまうような、そんな人でした。生気のないものを愛でるという、ちょっと特殊な性癖を、ローズは気に入ったのかもしれません。
「ユキの城の地下に秘密の部屋があるだなんて思わなかったわ~。それも王子の趣味全開でさ。ベッドなんかどこにもないのよ~。あるのは石でできた棺と、ロープや鎖、それになんだか分からない道具だらけ。ユキ、あの部屋にあった棒、一体何に使うのかしら」
「ちょ、ちょっとローズちゃんっ!」
こうなるとローズの暴露モードは止まりません。にやけた顔で、ユキの王子とのあれやこれやを語り始めるのでした。
「棺の中で、目をつぶったまま横たわってるだけ。絶対死んだフリをしていてくれっていうから、黙ってそれに従ってたのね」
「もう……知らないっ」
「そしたらさぁ、ねっとりした手つきで私のドレスに手を入れてきて、舐めるように体を撫でてくるのよ……それがホント、いやらしくてさ。声が出そうになるんだけどね、声も出しちゃダメだって。ひらすら声を押し殺すのが大変だったわ。だって、すっごくイイんだもん〜」
ローズは頬を上気させ、やや興奮気味です。それを聞いているシンディやマリンも、なんだか体の奥が疼いてくるほどでした。
「あんなのどこがいいのよ。私、なぁんにもできないんだから。私はローズちゃんが羨ましいなぁ。いばらの城に乗り込んできた王子さまが……目を閉じて眠ったままのあたしに強引にキスするのよ! 自分の物語に帰りたくないって思ったよぅ~」
お返しに、とばかりに今度はユキが打ち明ける番です。両腕で自身の体を強く抱きしめながら、熱っぽく目を潤ませました。
「私を見るなり覆いかぶさってきてね、もう何が何だか分かんなくなっちゃったぁ! いっぱい私にしてくれたの、それもすごく気持ちよかったんだけど……私、初めて男の人にあんなことしちゃったぁ……やだ、もうっ!」
「あんなことって何よ〜」
「言わせないでよぅ、ローズの意地悪っ!」
「私はもうあんなの願い下げだけどね。いつだって、あれしてくれ、これしてくればっかりでさぁ」
初心なマリンには少々刺激の強い話だったようです。茹でダコみたいな真っ赤な顔で俯いて、すっかり黙り込んでしまいました。
羨望の眼差しで聞き入っていたシンディが、鼻息を荒げて立ち上がりました。そして隣に座るマリンの手を取りました。
「おい、マリン。私たちも交換するぞ! な、いいだろ!」
思い立ったが吉日。猪突猛進。そんな言葉がぴったりの勢いです。
急な提案にマリンは返事をすることができませんでした。え、え、と短く言いよどむ間にも、シンディはどんどん話を詰めていきます。
「で、でもシンディ……私は王子さまとは永遠に結ばれないんだよ? 物語を交換したって、その、あの、王子さまと一夜を共にはできないのよ……?」
≪人魚姫≫のシナリオでは、刺激を求めるシンディを満たすことはできない。マリンはそう思いました。
けれども、シンディは気にしている様子はありません。それどころか、マリンの背を豪快に叩きながら、いいからいいから、と連呼する始末です。
「分かってるよ、王子さまとは結ばれないってこと。でもよ……イイ男が見たいだけなんだ、私は! 海の王国にもイケメンくらいはいるんだろ!? 見に行くだけでも価値あるってもんだ!」
「ええ……まぁ……」
シンディは拳を振りかざし、熱弁しました。マリンはまるで海流にぐんぐん押し流されているかのよう。
「それにさ、一回くらい、マリンだって……してみたいだろ?」
そんなこと思ってない。マリンはそう言いたかったのですが、ついにその言葉は出てきませんでした。甘い夜を想像したことなんてない、などとどうして言えたでしょうか。否定できない自分に恥ずかしさを覚え、マリンはさらに深く俯いてしまいました。
ローズとユキも加わり、マリンを置いてけぼりにしたまま、話はみるみるうちに進んでいきます。
≪灰かぶり姫≫と≪人魚姫≫のシナリオを確認した後、二人はサロンの隅でこっそりと着ている服を交換することになりました。
「そのガウン、私の鱗でできているの。それを着ていれば、海の中でも大丈夫だから」
そう言って、マリンはシンディに服を差し出しました。それと引き換えに、マリンはシンディの白い絹糸のルームドレスを受けとりました。
完璧に変装した二人は『本棚の扉』の前に並んで立ちました。そして、それぞれ持っている鍵を交換します。マリンのそれは≪人魚姫≫の物語に、シンディのそれは≪灰かぶり姫≫の物語に繋がっていました。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。きっかり一日後、このサロンに戻ってくること。二人とも、守ってね」
ローズの言葉に、二人は強く頷き、扉を押し開きました。
マリンとシンディは、吸い込まれるように扉の向こうへと消えていったのです。
*****
「ったく、ぐずぐずしてんじゃないわよ! こののろま!」
突然の罵声。それから、マリンの頭上から埃っぽい灰が降りかかりました。
「……っ! 何をするのですか!」
あまりの仕打ちにマリンは抗議しました。
海の王国の王女であったマリン、こんな扱いを受けたことがありません。威厳をもって言い返したものの、しかし、それはあっけなくねじ伏せられてしまいます。
「偉そうに口答えするんじゃないよ! いいかい、舞踏会が終わるまでに片付いていなかったら……明日の食事は抜きだからね!」
「ああ、やだ、近寄らないでちょうだい。せっかくのドレスが汚れちゃう。行きましょう、お姉さま、お母さま」
唾を吐き捨てるように言い放つと、二人の義姉と継母は立ち去っていきました。
マリンの周りをごみくずが舞います。その中に小さな紙切れが混じっていました。マリンはそれを手に取り、中身を見てみました。
「いつもごめんね 継母たちより」
これも彼女たちの役目だったのです。
すぐにそれを察したマリンの怒りは静まりました。永遠の憎まれ役というのも気の毒な話です。
おかしいですね。扉をくぐった先はシンディの部屋であるはずですのに……。
なんと運の悪いことに、マリンが≪灰かぶり姫≫の物語にやって来たのと同時に、絵本が開かれてしまったのです。
他の物語世界を見に来ただけのつもりだったマリンですが、灰かぶり姫として物語を演じなければいけなくなりました。
マリンはぐるりと辺りを見回しました。シンディの家は、町人としては裕福な方だったようです。
ホールに取り残されたマリンは、仕方なく屋敷の掃除を始めました。
ばら撒かれた灰を箒で集め、外へと掃き出します。ついでに髪や体についていた灰も、手で払い落としました。ぼろぼろの服の継ぎ目に灰が引っかかります。使用人服だってこんなにもみすぼらしくありません。
シンディはこの家では使用人以下の存在なのだということがよく分かりました。
陸の生活には疎いマリンですが、屋敷は無駄のない構造をしていると感じていました。
ですが、シンプルな調度品に混じって、時折派手で不格好な花瓶や絨毯が目につきます。おそらく、継母が後から持ち込んだものなのでしょう。大柄の花があしらわれた壁紙など、悪趣味にもほどがあります。
いくら継母たちが根っからの悪い人ではない分かっても、こんな家に住むなど想像するだけで怖気がしました。
埃を掃き出してしまえば、もうマリンにすることはありません。屋敷の戸口に立ち、遠くにそびえ立つ白磁の城を見つめました。
あの城にはシンディの王子さまがいます。いえ、今日だけはマリンの王子さまなのです。
じわじわと、自分が≪灰かぶり姫≫の物語にやってきてしまったのだという実感がこみ上げてきます。
別に好きな人がいるというのに、自分は他の男性に抱かれようとしている。
本当にこのままでいいのだろうか、こんな風に流されてしまってもいいのだろうか……迷いがぐるぐると渦巻きます。
それでもシンディから聞いていたストーリーは、恋の成就を知らないマリンにとってとても甘く眩しいものでした。
少しくらい、夢を見たっていいよね……マリンは自分にそう言い聞かせました。
何はともあれ、絵本は開かれてしまいました。つべこべ言ったところでもう後戻りはできません。マリンは腹をくくりました。
まるでマリンが決心するのを待っていたかのようなタイミングで、杖をついた老婆が屋敷の前に現れました。垢だらけの襤褸を纏った老婆は、マリンに近づくとこう言いました。
「お前さん、舞踏会に行きたいのかい?」
マリンは怪訝そうに老婆を見つめました。
貧相な老婆と舞踏会、接点などあるように思えません。呆けた老人の迷い言だと相手にしませんでした。
しかし、老婆はなおも食い下がります。マリンが返事をするまで、同じ問いを何度も繰り返しました。
早く老婆を追い払いたいマリンは、渋々答えます。
「ええ、そうです。舞踏会に行きたいのです」
その瞬間、老婆の襤褸は星空のローブに、杖は魔法のステッキに早変わりしたのです。
シンディからは魔法使いのことを聞いていましたが、老婆の姿で現れるとは聞いていませんでした。
マリンが返事をしていなければ、物語は変わってしまっていたでしょう。掟を破ってしまうことを想像し、マリンはぶるりと身震いしました。
「私がお前に魔法をかけてやろう。カボチャよ、馬車に! ネズミよ、白馬に! そして娘よ、姫の姿に!」
魔法使いがステッキを振ると、キラキラとした光の粒がマリンたちを包みました。
すると……あら不思議、瞬く間にマリンの服が美しいドレスに変わったではありませんか。
光沢のあるシルクのドレスが、マリンの白い肌を一層際立たせます。埃まみれだった髪はすっかりきれいにまとめられ、乙女の首筋をあらわにします。足には美しくも儚いガラスの靴。
これで舞踏会へ行く準備は万端です。
「いいかい。零時になれば魔法は解けてしまうだろう。それまでに必ず帰ってくるんだよ」
マリンはその言葉を何度も反芻します。魔法使いに約束し、マリンはカボチャの馬車に乗り込みました。
滑るように白馬が駆けます。まるで宙を飛んでいるかのよう。気がつけば、マリンはお城の前にやってきていました。
舞踏会で浮ついているのか、門番は美しいマリンを見ると、すぐに城内へと通します。
招待状も持っていないのに、不用心な……とマリンは思いましたが、それを言い始めてはおしまいです。マリンは淑やかに会釈をし、舞踏会の会場である大広間へと足を踏みいれました。
「わぁ……ここが王子さまのお城……」
天井は三階まで吹き抜けです。豪奢なシャンデリアが蝋燭の灯りを反射し、眩しくきらめいています。角度を変えれば、灯りの色はまた違って見えました。ベルベットの絨毯はとても柔らかく、履きなれないガラスの靴に苦戦する足の負担を和らげてくれました。
七色の光で溢れる中、美しい女性たちが熱帯魚のようにひらひらとドレスを翻し、ワルツを踊ります。すらりとした男性にエスコートされるその姿はまさにお姫さまです。
海の王国でも舞踏会は頻繁に開かれていましたが、これほどではありません。マリンは自分が一番お姫さまらしくないのではないか、と不安になるほどでした。
しかし、やはりこれはシンディ……今はマリンが主役の物語です。
どんなにマリンが田舎っぽくても関係ありません。いかに素晴らしい女性と言えども、主人公には敵わないのです。
マリンが大広間に姿を現すと、いっせいに皆の視線がマリンに釘付けになりました。なんて美しい姫君だ、一体どの家の方なのか、ひそひそ話が聞こえてきます。マリンを中心にざわめきが広がり、フロアはマリンの話でもちきりでした。
自信なく視線を泳がせていたマリンですが、悪い気はしませんでした。
悲劇の主人公であるマリンは、こんな風に羨望の眼差しを向けられたことがなかったのです。
声を失くし、愛を与えられることなく消えていく悲劇の主人公。向けられるのはいつでも憐れみだけ。
物語の中でもそうでしたし、絵本を読んでいる人々からもそう見られていましたから。
これが、本当のお姫さまなのか……としみじみと浸っているマリンの前に一人の男性が近づいてきました。
スマートな顔つき、ヒールを履いているマリンよりもずっと背が高く、なんだかいい香りがします。
赤いマントをはためかせるその姿、マリンはピンときました。
舞踏会で出会う運命の人……そう、この人が王子さまなのだと。
この際、かぼちゃパンツと白タイツいう服のセンスには目をつぶりましょう。
「美しい姫、どうか私と一曲踊っていただけませんか」
そう言ってマリンに手を差し伸べます。
もちろん、誘いを断る理由などどこにもありません。
「は……はいっ、よろこんで!」
まるで場末の酒場でよく聞こえる、安っぽい返事のような勢いです。
マリンは王子さまの手を取り、にっこりとほほ笑みました。
マリンと王子さまは手に手を取り合い、大広間の中央へと進みました。二人が踊る姿を一目見ようと、人びとが囲みます。
楽団はこの出会いに相応しい曲をと、たおやかなメヌエットを奏で始めました。弦楽器の調べが耳を撫でます。
出会ったばかりの男性であるのに、マリンの胸の高鳴りは激しくなるばかり。
マリンは≪人魚姫≫の物語で待つ、真の王子さまのことをしばし忘れ、この逢瀬に胸をときめかせていました。
ですが、楽しい時間は光の速さで過ぎていきます。
カーン……カーン……
マリンの耳に、高い音が聞こえてきます。それは零時を告げる城の鐘。
マリンはハッと魔法使いの言葉を思い出しました。鐘が十二回、刻を打つ前に屋敷へ帰らねばならないのです。
「帰らなきゃ……! 王子さま、そろそろ失礼いたします!」
マリンはドレスの裾を摘み、王子さまに一礼すると、くるりと踵を返し走り出しました。
二本足に慣れていないマリン、縺れさせながらも必死で走ります。
ここが勝負どころです。絶対に王子さまに追いつかれてはならないのですが、かと言って王子さまを引き離し過ぎてもいけません。
付かず離れずの距離を保ちながら逃げること、これが男性を捕まえておく秘訣だとシンディから教わっていました。
それと、何と言っても忘れてはならないのがガラスの靴を置いていくことです。
けれども、心配には及びません。ヒールの高い靴をもどかしく思い、マリンは途中で靴を脱ぎ捨ててしまいました。片方は城から門につながる階段に、もう片方はドレスの裾にひっかかったままです。
「姫、待ってください! せめてお名前だけでも……!」
なんとかうまいことやってのけたマリン。そのまま王子さまの声に振り返ることなく、華やかな城から姿を消したのです。
馬車の中で、マリンはこれからのことを思いました。
≪人魚姫≫の物語では、王子さまは自分を追いかけてくれることはありません。
海で遭難しかけていた王子さまを助けたのはマリンであるのに、あろうことか別の姫に結婚を申し込むのです。王子さまは、その姫が自分を救ったのだと勘違いしていました。幾度となく、マリンは辛い思いをしてきました。
けれども、今回は違います。
この物語の王子さまは、地の果てまででも自分を追って、探しにやって来るのです。
マリンが残したガラスの靴だけを頼りに、国中を回り、そして運命の出会いを果たすのです。王妃として迎えられ、王子さまと蕩けるような一夜を過ごす……。
マリンはうっとりしながら、夜空を仰ぎました。真の王子さまのことなど、どうでもよくなってしまいそうです。
たった一夜でも構わない、すぐに終わりのやってくる恋でも構わない。愛されたことのなかった自分が、やっと愛されるのだから――。
魔法が解け始め、ドレスは継だらけの使用人服に戻っていきます。ふかふかの馬車の座席がごつごつとしたカボチャの実に変わっていきました。白馬も色がくすみ、鼠色になっています。屋敷が近づいているのでしょう。
その時のマリンは、間違いなく、王子さまに恋をしていました。
そして、ついに運命の日がやってきました。
継母たちの意地悪に耐えながら、マリンはこの時を夢見ていました。継母たちはマリンの仕事を増やそうと、屋敷中にごみをばらまいたり、片付いた部屋を散らかしたり、マリンの食事をわざとこぼしたりと大忙しでした。
それでもまったく意に介することなく……むしろ嬉々として返事をするマリンを少々気味悪く思っていたくらいです。なので、内心、この日がやって来たことに安堵していました。
屋敷に王子さまがいらっしゃる。
その知らせを聞きつけ、マリンの心はうきうきそわそわと飛び跳ねていました。
噂によると、王子さまは随分と国中を回ったそうです。たったひとりの愛しい姫を探すため、昼夜を問わず駆けずり回ったと。マリンは言い知れぬほどの陶酔感に浸っていました。
早く自分を見つけ出して。抱きしめて、愛していると言って……。
その瞬間を思うだけで、体が火照ってきます。でも、それを表に出してはいけません。
マリンはにやけそうになる顔を引き締め、何事もないかのように振る舞いました。
「母さん、馬車の音が近づいてきたべ! 王子さまがいらっしゃったんだ!」
下町なまり全開で、一番上の義姉が言いました。普段はなまりを隠しているのですが、どうも興奮すると口から飛び出してしまうようです。
マリンは耳ざとくそれを聞きつけ、こっそりと陰から玄関を覗き見ました。
「こちらは第一王子であらせられるぞ! 頭が高ぁい!!」
ちんちくりんの従者が偉そうにふんぞり返っています。
一方の王子さまは高圧的な態度をとることなく、ギャラリーに向かって謙虚に手を振っていました。王子さまというのはサービス精神が旺盛でなければ務まらないのかもしれません。
「私は運命の姫を探しています。彼女はこのガラスの靴を落として、去っていきました」
王子さまはその手にガラスの靴を乗せていました。そうです、マリンが履いていたものです。
「この屋敷には三人のお嬢さまがいらっしゃると聞いています。この靴をぴったり履くことのできた方を、私の妃として迎えたい……そう思っているのです!」
王子さまの前に三人の娘が一列に並べられました。順番に靴を履いていきます。
義姉たちは悪あがきをし、顔を真っ赤にしながら無理矢理靴を履こうとします。もちろん、二人の義姉に合うはずがありません。靴の持ち主はたった一人なのですから。
そして、ようやくマリンの番です。埃だらけのみすぼらしい娘が、この靴の持ち主であるはずがない……誰もがそう思っていることでしょう。
ですが、恐る恐る差し出された足に、ガラスの靴はぴったり合ったではありませんか!
「あなたが……舞踏会の姫……!」
王子さまがマリンの足元に跪き、ガラスの靴先に恭しく口づけました。
「姫、あなたの名は?」
「マリ……じゃなかった、シンデレラと申します」
王子さまは柔らかな鳶色の瞳で、マリンを見つめました。少し薄めの唇から紡がれるのは、マリンが今まで誰よりも望んでいた言葉でした。
「シンデレラ、私の妃になっていただけませんか?」
二人はお城で盛大な結婚式を挙げ、末永く幸せに過ごしましたとさ。めでたし、めでたし……。
絵本の物語はここでおしまいです。
さて、この後、マリンはどうしたのでしょうか。
絵本が閉じられた瞬間、マリンは見たことのない部屋に立っていました。シンディの部屋にある『本棚の扉』の前に戻ってきていたのです。
窓の外から静かに月明かりが差し込んでいます。サロンで交換した白いドレスがぼんやりと浮かび上がっています。
夢のような出会い、素敵なプロポーズ、そして眩しいほどの幸せに包まれた結婚式――。長いような刹那の出来事。
実際に過ぎた時間は、絵本が開かれていたほんの数十分のことでした。ですが、もう何日も恋をしている気分でした。
自分が辿ってきた物語を思い、マリンは熱くため息を漏らしました。心はすっかり王子さまの虜です。
忘れかけていたお姫さまとしての栄光、女性としての自信……かつてマリンが持っていたはずのものを思い起こさせてくれたのですから。
マリンは扉から離れ、天蓋付のベッドに横たわりました。透き通る薄桃色のカーテン越しに見える景色は、夜にも関わらず色に満ちていました。世界のあまりの美しさに感動すら覚えていました。恋の魔力の偉大さを全身で感じています。
夜は惹かれ合った二人が愛をささやく時間です。もちろん、ただ話をして終わりなどとは思っていません。男性に愛されたことのないマリンにだって、このベッドで何をするのかくらい知っています。
この物語の王子さまとも別れる時がくることは分かっています。ですが、美しい思い出に彩られた初夜を過ごすことに、何のためらいもありませんでした。
むしろ、この穢れない体を自ら進んで差し出したい、女性としての悦びを教えて欲しいと思っていました。
今はただ、愛しい王子さまに抱かれたくて仕方がなかったのです。
体を強張らせながら、高鳴る胸の鼓動を数え……とうとう部屋の扉をノックする音が聞こえました。王子さまが来たのです。マリンは慌てて飛び起きました。
「ど、どうぞ! お入りください!」
マリンの声は上ずって、ひっくり返ってしまいました。変だと思われたりしないだろうかと不安になります。
ひょいと扉から顔を覗かせた王子さま、全く気にしていないようです。物語を演じている時よりは随分とフランクな様子で、マリンの側にやってきました。
どうやらマリンをシンディだと思い込んでいるみたいです。女は化粧でいくらでも化けることができるのよ、と言っていたローズの言葉は本当でした。
ベッドサイドに座るマリンの隣に、王子さまも腰を下ろします。そして、マリンの腰をぐっと片手で引き寄せました。
少し強引な、力強い手つきに、マリンはくらくらとめまいがしました。きっと自分の足では立っていられないでしょう。
王子さまがマリンの耳元にふっと息を吹きかけます。
「……んっ……」
王子さまがマリンの背筋をつ……と指でなぞりました。服ごしですのに、マリンはビクンと体を反らせます。
のけぞった喉元に、王子さまはすぐさま吸い付きました。あまりの唇の熱さに、マリンの口から吐息が漏れます。唇が触れたところから、どんどん熱が体に広がっていく感覚に溺れてしまいそうになりました。
ゾワリとマリンの全身に鳥肌が立ちました。王子さまがマリンの内腿に手を這わせているではありませんか。
足は単なる歩行のための道具に過ぎないと思っていたマリンですが、これほどまでに敏感な部分だとは知りませんでした。最初は膝のあたりにあった手は、次第に上へ上へとやってきます。マリンの体にうっすらと汗が滲みました。
もう何も考えられませんでした。この快楽に身を委ね、すべてこの人に捧げてしまおう……。
この一夜はどんな宝石も敵わないほどの思い出になり、永遠に心の中で輝き続けるでしょう。マリンはそう信じてやみませんでした。
けれども、終わりは唐突にやって来たのです。
「あ~、やっぱりやめだ、やめ! 今日も疲れたし。王子を演じるのだって楽じゃないっての」
「え……?」
なんということでしょう! あれほど熱くマリンをかき抱いていたにも関わらず、王子さまはその体をあっけなく手放したのです。ぽいっ、と放り投げる音が聞こえんばかりの勢いでした。
「二百年も同じシナリオ、同じ役……。いくら王子さまって恵まれた立場でも飽きてくるよ」
目の前にいるのはシンディだと疑いもしない王子さま、一人でべらべらとしゃべり続けます。マリンには口を挟む隙を与えません。
「それにずっと君の相手をしてるのも正直疲れるっていうかさ……。君だってそう言ってたじゃないか。たまには違う男を味見してみたら?」
「なにを……」
マリンの唇はわなわなと震えだします。さきほどまで愛で火照っていた体が、今は怒りで熱くなっています。ですが、何から反論してよいのかさっぱり思い浮かびません。
シンディならこんな時、売り言葉に買い言葉と王子さまを口撃するのでしょうが……。なにしろマリンはろくに恋人と喧嘩をしたこともありません。裏切りにはいつも沈黙で耐えていたのですから。
「っていうかさ、ぶっちゃけそんな気分じゃなくなった。俺はその辺のメイドでも誘ってくるからさ、お前もそうすれば? 別に一夜限りの相手ならどこでもいるっしょ。物語さえ変えなければいいんだから」
そう言うと、王子さまはカーテンを払いのけ、マリンにひらひらと手を振りました。
怒りのあまり声もでないマリンは、その薄情な男の後ろ姿を見送ることしかできませんでした。パタン……と乾いた扉の音が部屋に響き渡りました。
部屋に一人になった後も、マリンの目には涙の一滴も浮かびません。一瞬でもあんな男に心を許してしまった自分自身にもふつふつと怒りがこみ上げてきます。
しまいには、あんな薄情者にこの先も寄り添わなければならないシンディを憐れに思いました。シンディがサロンで愚痴っていた理由が分かった気がします。
「そっか……そういうことなんだ……」
マリンははだけた胸元を整え、静かに立ち上がりました。もう幻に恋をしていたマリンはどこにもいません。
もしも自分はシンディではないと告白していれば、王子さまはマリンを抱いたかもしれません。違う女性を抱きたいと言っていた王子さまの願いを叶えることができたはずです。
序の口程度の愛撫でマリンをとろとろに溶かしてしまうほどですから、きっと最後まで受け入れていれば……最高の一夜を過ごせていたことでしょう。
ですが、それではいけないのです。マリンはお姫さまの夢を見たかったのです。運命の人に愛されるという夢を……。
それが覚めてしまった後では、どんな甘い言葉も、どんな口づけも無意味でした。
命に限りがあれば、お姫さまも王子さまも変わらぬ愛を誓えたでしょう。
成熟した愛は本当の意味での幸福なのでしょう。命が潰えたその時、肉体とともに愛も大地に還り、新たに芽吹く日を待つのです。
ですが、物語の登場人物たちは永遠に愛を語り続けなければなりません。熟れ爛れてもなお、愛の実を抱き続け、果てには心までも腐敗によって蝕まれてしまうまで……。
今まで自分が一番不幸だと思っていたマリンははっきりと悟りました。
真に不幸なのは他の三人の姫たちなのではないだろうか。
思いが実を結ぶことはないけれど、今なお恋の花を咲かせていられる自分が一番幸せなのかもしれない……と。
マリンは王子さまに選ばれなかったために、その負の面を知らずに生きてきました。いつでもマリンの目に映る王子さまは気高く、凛々しい男性でした。
マリンを選ばなかったのも、不運と誤解が重なってしまったためで、彼女自身が嫌われているわけではないのです。
「戻ろう、私の物語へ……」
マリンはポケットから『本棚の扉』の鍵を取り出しました。
そして、とても満ち足りた顔で扉を開きました。
「おかえり~、マリンちゃん。どうだった?」
サロンに戻るやいなや、ユキが目を輝かせてマリンに食いついてきました。マリンは首を傾げながら、小さな笑みを浮かべます。
「う~ん、私はやっぱり、自分の王子さまが一番かな」
「え~、マリンちゃん、真面目~!」
ユキは目を丸くして、マリンの手を引っ張ります。
その先のテーブルには、すでにシンディとローズが揃っています。どうやら、マリンよりも先に還ってきていたようです。マリンはお決まりの指定席に座り、シンディの様子を繁々と見つめました。
シンディはうっとりと頬杖をつきながら、ローズに≪人魚姫≫の物語について語っています。よほど海の王国が気に入ったのか、マリンがやってきたことに気づくと「また交換しようねっ!」と指切りを迫りました。
話を聞いてみると、王国にはイケメン従者が大勢いたと興奮冷めやらぬ様子。二百年も王国で暮らしていたマリンにとってはさして目新しいものではなくても、シンディにとっては刺激的だったようです。
マリンはいつものように、みんなの聞き役に徹しました。それでもちっとも嫌な気分ではありませんでした。
「私、疲れちゃった。……そろそろ戻るね」
会話の隙を見計らって、マリンが言いました。三人はまだもう少し残っていくとのことでした。
またね、と手を振り、マリンは自分が主人公の世界へ……≪人魚姫≫の世界へと帰っていきました。
*****
王子さまはとなりの国のお姫さまの手をとりました。そして、たくさんの人をまえに、おおきなこえで言いました。
「この姫が、私の命をすくってくれました! 私は姫とけっこんし、えいえんの愛をちかいます!」
なんということでしょう! 王子さまを助けたのはにんぎょ姫のはずです。王子さまはすっかりかんちがいしていたのです。
ものかげでそれを聞いていたにんぎょ姫は、ぽろぽろとおおつぶの涙を流しました。私が王子さまを助けました、そう言おうとしても、声をなくしたにんぎょ姫はさけぶことさえできません。
にんぎょ姫は姉妹からもらったナイフをぎゅっとにぎりました。これで王子さまの命をうばってしまえば、にんぎょ姫はふたたび海の王国にもどることができます。王子さまがにんぎょ姫をえらばなかったときは、ためらわずに刺すように言われていました。
ですが……王子さまを心から愛していたにんぎょ姫には、そんなことはできませんでした。
ゆびさきから、つまさきから、にんぎょ姫の体が泡となっていきます。その美しい体は空にとけ、ぶくぶくと消えていきましたとさ。
Fin
「これでいいの……」
意識が朦朧とする中、マリンは呟きました。
「これで、私は永遠にきれいなあなたに恋していられる」
マリンの顔はほとんど消えかかっています。ぱちんぱちんと泡が弾ける度に、顔の輪郭がぼやけていきました。
「あんな女、愛の牢獄の中で永遠に苦しめばいいんだわ……」
マリンの口元がぐにゃりと歪みます。
その表情は、どこか満ち足りたものでした。