6. 迷子の仔猫
「なあ、俺らどんくらい歩ってる」
「さあ」
あれから歩き続けて何分が経とうとしているのか。時間さえ分からない。
「地図は?」
私がずっと無言だからか。
眼鏡の淵を直しながらにレイが答える。
「まさか、僕が持っているとでも思ってた?」
そういえば地図、誰も持っていなかったような。トーマが先頭を歩くから無人島には詳しいものだと思っていたのだけれど。
「だ、だってさっきからずっとその本見てるから……」
「ああ、この本。これは薬草について書かれている本だよ」
レイの持っている本は、初めて会った時にレイが読んでいたものと思われる。
焦げ茶色の本。最初からそういう色をしているのは分かるが、なんだか表面だけでは内容が分からない本。
こんな、無人島にいる時にまで読もうとする気があるなんて。それも歩き読み。
前をちゃんと見て歩いたほうが良いと思ったりもしたが、何ら負傷がなさそうだから言わずにいた。
「じゃ、じゃあもう一冊のは……」
トーマの指差す手が震えている。
トーマが指差す物、それはレイが肩から下げているバッグだ。その中から同じような本を取り出し、レイは言う。
「ちなみにもう一冊のはーーキノコが載っている本」
……。
はあーーー!!
と、今日で一番最高な声が出た。
トーマでした。
「じゃあこれからどうすればいいんだよ。このまま先へ進めってか?」
とても、やばい状況らしい。
「そもそも俺らーー」
そこまで言って、トーマは俯く。
「迷子かよ……」
迷子。無人島で迷子。
それは何を示しているのか。
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃねえよ今知ることじゃねえし、どうすんだよ」
珍しくレイが提案を出す。
「とりあえず、港目指して進めばーー」
「港ってどっちだ? 方角は?」
「……」
だが、黙り込んでしまうレイ。
トーマが駄目なら頼りにできるのはレイなのに。そもそも無人島で迷子ってどのくらいやばいものなんだろうか。
「ああー、マジもう無理」
腹減って無理、とトーマは座り込む。
「あの」
ふてくされているトーマに声をかけると、ん?と、とりあえず向けられる目線。
「とりあえず、進みませんか?」
この島がどのくらいの大きさなのかは知らない。その港に行くにもどのくらい時間がかかるのか知らない。
「ここに座っていても仕方がありませんし」
でも、このままここにいても意味のないことは分かる。
私の言っていることは間違っていない。
それなのにトーマは難しい顔をして。
「……勝手に進んでろ。俺はお前の御守り(オモリ)じゃねえんだ」
さも面倒くさそうに、さもうざそうに答える。これ以上言っても逆効果だろうか。ここにいても意味ないと思うと言っても、私なんかの言葉は聞き入れてくれないだろうか。
「分かりました」
お腹が空いているからか相当機嫌が悪い様で。私の知っている彼と少し違う。
もう区切ってしまおう。
誰かと言葉(心)を交わすのは無理だと。
諦めてしまえばこんな事で辛くならずにすむ。こんなふうにたった一つの言動で傷ついたりなんかしない。
言葉のキャッチボールなんてものを聞いたことがあるけど、私にはそんなもの無理だ。私の投げたものは誰も受け取ってくれない。相手から投げられたものだって……無理だ。
だって、普通が分からないから。
「いいの?」
「何が?」
「行かせちゃって」
レイは彼女の去った方向を見ながら、座り込んでいるトーマに言う。
「今更そんなこと言われても……。勝手にあいつが行ったんだろうが」
気まずそうにしているところを見ると、一応後悔はしているようだ。
引き止めなかったことを。
それを知ってか、レイは口を挟むことなく静かに答えた。
「そうだね」
トーマたちと別れてどのくらい歩いただろうか。
目的なんてものはなかった。ただ、反抗したかっただけ。
『……勝手に進んでろ。俺はお前の御守り(オモリ)じゃねえんだ』
私だってあなたに御守りされているつもりはない。
面倒なんてかけていない、はず。
それなのに心底面倒くさそうに言われて、はいそうですかと聞き入れたくなかった。
黙々と歩いていると赤い何かが瞳に映った。近くに行けばそれは……果物?
そして潮の香りも。
「お二人共!」
遠くから駆け寄ってくるユリウスが、トーマの瞳に映る。
「お前、先に行ったんじゃ……」
「潮の香りがした!」
「は?」
「海の臭いがしたの!」
初めて見せる、嬉しそうにはしゃぐ姿。
トーマはその勢力に押されつつ、ユリウスの持っているフルーツに目がいった。
「それ」
「あ、はい、これトーマさんに。お腹空いていて機嫌が悪いみたいだから」
レイさんの分もあります、と渡すユリウスを見ていたトーマは微かに罪悪感を感じる。
さっき酷い事を言ったかもしれないと。それなのにこうやって人のことを考えて何事もなかったかのように明るく接してくる。
「お前の分は?」
「私は食べてきました」
答えたと共にぎゅーっとお腹の鳴る音。ユリウス自身は今の音何?と小首を傾げている。本当に気づいていないようだ。
トーマは苦笑いしつつ、赤いフルーツの皮を剥きユリウスに渡す。
「ほら」
「え……。いえ、いりません」
「いーから」
半端無理やり口に入れられ。
(美味しい……のかな)
ユリウスの頭にクエスチョンマークが飛ぶ。
ユリウスの小首を傾げる姿を見て、トーマは微かに笑む。
「ま、味はともかく腹の足しにはなるだろ」
こういうフルーツをトーマは食べ慣れていた。よく、森の中へ入っていたから。
「そうですね」
ユリウスとの会話は終わり、フルーツを食べ進める。
食べ終えると、トーマは立ち上がった。
「じゃ、行くか」
いつもの元気さが戻ったトーマを見て、頬を緩ませながら頷くユリウス。
木に寄りかかり座っているレイは丁度フルーツを食べ終えるところだった。
彼女が来るまで一人読書を満喫していた者でもあるレイは、ユリウスの異変に気づく。
ユリウスが、微笑みの内に秘めるもの。
ーー…こんな感じだ。こんな感じでいい。
自分の思いを直前までに押しとどめて、恨みとかそんなものは二の次。自分のことより相手のことを考えて行動すれば、何もかもうまくいく。辛い思いなんてせずにすむんだ。
それから何分か歩き進め、休憩を入れる。
トーマの近くにハブがいるのに本人はそれに気づいていない。
木の枝にいる蛇は巧みに隠れていて見つかりずらいのだろう。
今にも飛びかかってくるような態勢をしている蛇に気づいたユリウスは驚いた。さっきは棒を蛇に突きつけ遊んでいたが、あの事を聞いてはそんな事なんてできない。
『ハブだよ! 毒を持っている蛇。分かるか!?』
あんな形相で言われては、ユリウスだって信じられずにはいられない。
そんなことより今はトーマを。
勝手に動いた体。
トーマにハブのことを言っても気づいてくれないから近くに行って説明しようとすると、ハブはユリウスに飛びかかった。
けれど命中は外れ、蛇はユリウスのドレスの袖辺りに噛み付く。
その噛み付いている蛇をトーマは尻尾から掴み、草原へ投げ飛ばした。
「大丈夫か」
「はい」
真剣そうに問うトーマ。
そこまでなら良かったのに。
「お前そういうことやめろよ」
「……?」
「危ねえだろ」
危なかったのはトーマのはず。
どうしてトーマは私に忠告をする?
「だってさっき、トーマさんも私のことを助けてくれたから」
そう答えても険しい顔を直そうとしない。
私はそんなにいけない事をしてしまったのだろうか。
「さっきのはさっきだ。お前は女だろ」
心配して言ってくれているのかと思ってた。だけど違ってたんだ。
今の言葉は何よりも心に突き刺さる。
「女、だから何ですか?」
ぴくっと眉が動く。
私の質問に不思議な顔をしつつも、トーマはさも当然かように答える。
「女は普通、守られる存在なんだよ。知らないのか?」
同等として見てくれていない。
「そういう、ものなんですか?」
私は女だからという理由で心配されたり、助けられたりしてきたのだろうか。
「あ?」
何を言っているんだという声。
私の事を何も知らないんだということを痛感させられる。
「だからトーマさんは、私を毛嫌いしているんですか?」
トーマは正統派な方なのだろう。女は守らなければいけないものだと思っていて、それで私も女だから助けなければならなくて。
でも、本当は私を助けたことを後悔しているんだと思う。
私が船に居座ることに対して一番否定するような態度を取ったのは彼だ。私の存在を煩わしいと思っているのに違いない。
煩わしいと思っているけど、面倒くさいけど、私が女だから助けなくてはいけないという役目に追われている。きっとそうだ。
「は?」
私の言った言葉に、彼は何言ってんだと純粋に驚いているような表情をしている。
それが演技だったら最悪だ。
私を思っての演技じゃなくて、女を思っての演技。本当に最悪だ。
「だって言ってたじゃないですか。“なんでこの女がここに居座ることになってんだよ、海賊船に女が乗ってるなんておかしいだろ”って」
考えれば考えるほど虚しくなってくる。イラついてくる。何なのこれ。
「それは……」
「面倒なんですよね、守らなくてはならない煩わしい存在がいて。別に私、あなたに守られたいなんて思ってませんよ?」
崖の上から飛び降りた私を助けてくれたのは彼だ。イヴァンからお母さまの首飾りを本気で取り返そうとしてくれていたのも彼。
でもそれは私が女だから。
女だから仕方なく……。
「あ、」
レイは空を見上げる。
「雲行き怪しくなってきた」
ポタッ、ポタッと降ってくる雨。
それはだんだんと強くなっていく。
「早く移動するぞ」
移動するってどこへ? ここは無人島なのに。逃げる場所、雨宿りできる場所なんてないだろう。
なのにどこへ移動するというのだろうか。
「おい」
雨に濡れたって同じじゃない。
もう濡れているんだから。
「なんですか?」
ぎりぎりか細い声で応答する。
本当は返そうとなんてしてなかった。
「移動するっつってんの」
「どこへ?」
「それは……走っている最中に何か見つかるだろ」
曖昧な計画。
「勝手にーー」
「ん?」
「勝手に、行って下さい」
さっき彼に言われた言葉と似てる。
言ってから気づいた。
やっと私の異変に気づいたトーマは問う。
「お前、どうした?」
私にも分からない。
これを情緒不安定というのだろうか。
彼の言動に落ち込んだり喜んだりする自分に疲れる。だから真の感情は無くそうとしているのに。もう、ワケわからない……。
普通って、なに?
「……もう自分でもワケ分かりません。もうどうだっていいって思ってるのにそう思い切れない自分がいて。誰かさんの態度や心情によって変わってしまうんですよ。だから疲れるんです」
「……」
ここまで言ってもトーマはわからないようだ。もう鈍感すぎて嫌だ。
それとも天然なのだろうか。
「あなたのコロコロ変わる態度のせいです」
「は? 俺?」
本当に本当にこの顔は何も分かっていない顔だ。……天然馬鹿。
「私が棒に振った命をすくってくれたのはトーマさんだから。だから、たぶんあなたの私への扱いがぞんざいで戸惑っているんです」
正確には命を棒に振ろうと崖から飛び降りたわけじゃない。そもそも崖から飛び降りたいと思って足を踏み外した訳でもない。
飛べると思ったから。
雲一つない青い空へ。
そんなこと言っても客観的に見たら私は命を棒に振ろうとした者だから。
「は?」
「私の存在価値はあなたが握っているのと同じで、でもトーマさんは私がいないほうが良いと思っているからどうすればいいか分からないんです」
「お前、何言ってんの?」
「私にだって分かりませんよ。思ってもないことがべらべらと口から出るんです」
本当に何言っているのか分からない。
さっき自分で言った事だけど、別に毛嫌いされてるとか思ったことはない。たぶん。
彼に毛嫌いされていても仕方のないことだ。別にそんなことはどうだっていい。
仲良くなりたいとか、大切にされたいとか、そんなことは思っていないのだから。
「思ってもなきゃ口からは出ないだろ」
「知りませんよ……っ」
トーマは本当に空気の読めない人だ。
「何で逆ギレ?」
「知りません」
「知りませんの一点張り?」
「……知りません」
「馬鹿?」
「知りま……。しつこいです」
まとめて言ってしまおう。
私がなぜこんな情緒不安定になっているのか自分自身にも分からないけど。
「……トーマさんが分かりません。他の人たちもそうですけど、今一番分からないのはトーマさんです」
胸元に手を当て、ぎゅっと拳を握る。
「優しく接してくれたと思ったら辛く当たってきて。機嫌が悪い時は本当に口も何もかも悪いです」
……言い切った。
でもまだモヤモヤしてる。
「何もかもって、例えば?」
そう言うので、仕方なくトーマの顔の中心に指を指す。
「その、眉間に寄ったしわとかです」
ふと気づいた後、彼は難しい顔をしてから眉間のしわを無くした。
「ほら、直した。他は?」
「他……他は……」
必死に考えていると。
「そんなこといいから、とりあえずあいつの後追うぞ」
(ーーえ)
手を引っ張られる。
雨が降っていること、忘れていた。
それほど話に集中していたというわけ。
レイの姿はもう見えなくなるほど遠くにある。もしかして本が濡れてしまうから急いでいるのかな。でも、急いでも、雨宿りする所なんてあるのだろうか。
トーマが手を離してくれないから走り続けるしかないんだけど。トーマの手、冷たい。
私の体も雨に濡れきって冷たいけれど。
ザアーッと降る雨は、すぐに止みそうもない。