プロローグ
ーーここはどこだろう
ふわふわと浮いているような感覚。
『ユリウス様』
ーークレア?
『まだ寝ておられるのですか。もういい加減起きて下さい』
いつものように私を叱るクレア。専属メイドで、幼い頃から私の面倒を見てくれている、唯一の存在。
ーーまだ起きたくないの
『またそんなことを言って……。旦那様に怒られても知りませんよ』
ーーお父さまなんて……、私にはいないわ
父は、いつも仕事ばかりで私の相手なんて一度もしてくれなかった。
小さい頃の記憶に、お父さまと過ごした日なんてない。
『ユリウス様……』
母を不慮の事故で亡くし、お父さまは他の女性と再結婚をなさった。
だから私の本当の親なんていない。
ーーいないんだ。
一人なんて、そんなものにはもう慣れた。
毎日のようにお勉強や行儀マナー。
城の外へ出たことなんて一度もない……と言いたいところだけれど、数回ある。片手の指で数えられるほど、極わずか。
こんな城から抜け出して、自由になりたいと思ったことは何度もある。ーーけれど現実はそう甘くないんだ。
城から抜け出したところで、友達一人いない私の行く宛なんてどこにもない。どこかで飢え死にしてお終いだ。
まあ、それもいいかもしれないと思うほど、私にとってお城は牢獄に値する。
背中に翼でも生えたら、誰もいない、自由なところへ飛んでいきたいな。
「おい、こいつどうすんだよ」
「どうするって、トーマが助けたんでしょ」
ーー声がする。クレアでもなく、他のメイドでもなく。とにかく、この低い声は女性のものではない。
「何も考えず、海に飛び込んだお前が悪いな」
「だって目の前で海に飛び込むヤツ見たら、ほっとけねーだろ」
また一つ増えた声は、淡々とした雰囲気。これで三人目の声。
「ほっとけばいいだろう。このお人好しが」
「あぁ? お人好しだと? このオレのどこがそうだって言うんだ」
淡々とした喋りをする相手と、威勢のいい誰かが喧嘩を始めた。
「この女を助けた行動全てが」
「ーーだってよ……」
「まさか惚れたか?」
「はあ? 一瞬で女に惚れる男がどこにいる」
「ここに」と、おふざけ半分で答えただろう相手を本気にしたのか、誰かが、「ふざけんなよ!」という怒号を落とす。
「オレがそんな軽い男に見えるか」
「一目惚れという線もある」
「人の話聞けよ!」
ーーうるさい
「……うるさい」
これはたぶん夢だろう。夢の中で男性が会話しているの違いない。本音を口にすると、静まり返った。やはり夢だ。
自分でも分かる寝息をスースーと静かにたて、また眠りにつく。
「……こいつ、今起きたよな?」
「ああ」
「で、また寝たのか?」
「見ればわかるだろ」
兎がふわふわ浮いている。
白い雲と一緒に……。
「おねーさん。起きてくださーい」
高い声。だけど男の子の声だと分かる。小さくて元気な男の子。
ーーお姉さん?
私に弟なんていないはず。
重たい目を開く。
(……誰?)
目を開けてまず目に入ったのは茶髪の男の子。私を覗きこんでいる。
その背景は青い空。
右側に男の子がいたと思ったら左側にもいた。そこには二名。
全員合わせて三人。私を見下ろしている。
「やっと起きたか」
(ーー……誰?)
見覚えのない男の人たち。
なぜか重い体。
起き上がると、目に映る景色は寂しいものだった。
「貴方たち、誰ですか? それにここは……」
端正な顔立ち。
黒髪の男の人を見てそう思った。
そんな彼が、淡々とした低い声で訊く。
「覚えてないのか?」
こくりと頷くと、自分の髪が濡れていることに気づいた。
毛先をいじると水滴が滴る。
髪が濡れている? どうして。
どうやら濡れているのは髪だけではなく、着ているドレスまで完全に濡れていた。
まるで水に浸したような。
「お前、なんでか知らねえけど崖から飛び降りたんだよ」
淡々とものをいう人と真逆で、彼の隣にいる口調の悪い人が言った。
崖から飛び降りた……? 私が? どうして? 思いつかない。
ふと、黒髪の男性が考え込む仕草をする。
腕を組み、繊細な指を顎に当て。
‘そのドレスからするとーー……’
「お前、どこかの令嬢か?」
何か見定めるような、真っ直ぐとした視線を気にせず向けてくる。
「だったらなんですか?」
ーー何か気に食わない。
よく言われていた。お城から抜け出し、外に出ればそこには私を狙う者がいると。
その者たちは『海賊』と言うらしい。金目のものに目がないとか。
だから外に行けば私は捕まり、お父さまたちにお金を追求する。
そんな酷い者たちがいるらしい。
ーーあ、思い出した。私が崖から飛び降りた理由。
「令嬢が自殺を図るとはな」
思いもよらぬ一言。
まだ言い足りないのか、どこの令嬢かは知らないが、と他人事のように吐いた。
自殺なんて、そんなことしようとしていなかった。
でも、私の行為は他人から見たらそうみえたのかもしれない。
強く否定することもできず、俯き、ぎゅっと拳をつくる。
「……飛べると思ったんです」
「飛べる? 背中に羽が生えたとでも言うのか?」
「そういうことじゃありません」
心内で私のことを馬鹿にしているのが丸分かり。今度こそ強く否定した。
「お城は何かと不自由で、自由になりたかったんです」
私はただ、鳥籠の中から脱走しただけ。牢獄の中から脱出しただけ。
「お城の中が不自由?」
嘘でしょ、と言うかのようにはてなを浮かべるような声。たぶん私のことを「おねーさん」と起こしてきた茶髪の男の子だ。
よく考えてみれば、お城の中が不自由なんて誰も思わないか。
こんなこと思うのはーーお城の暮らしに慣れ、自由になりたいと抗えもしないこの人生に抗おうとする私だけ。
「だから……」
「まあいい。早く降りろ」
言葉を遮ぎられた。さっきから私に突っかかるようなことを言う黒髪の男性。
この人、苦手だ。
ーー降りろ?
やっと自分のいる場所を確認し、一瞬、トクっと心臓を鳴らす。
(船の上、だったんだ)
船になんて、初めて乗った。
でも、この船から降りたらーー。
「……嫌です」
「嫌だ?」
私は知らず知らずのうちに断っていた。
「あんな場所に、もう戻るつもりなんてありませんから」
〝城へ戻れ〟
そんなこと、この人たちから一度も言われていないのに、“早く降りろ”という何でもない言葉が“早く戻れ”に聞こえていた。
私、重症だ。
「戻るも何も、そんなの俺たちには関係ない。早くこの船から降りろと言っているんだ」
ーー知っている。
「……わかりました」
そう答えたと同時に、捕らえろー、という数名の大きな声がどこからか聞こえてきた。
確かめてみれば、それは地上から。
「イヴァン、お前何した」
さっきまで黙っていた口調の悪い人が地上を見下ろし、誰か宛に叫んだ。
仲間、だろうか。
「んー、ちょっと宝石をいただいただけ」
「宝石?」
軽快に走りながら軽く返事をした彼は、遠目でも分かるほどきらきらした赤髪。
たくさんの兵に追われている理由は……彼が言ったまま。
「船を出すぞ」
「あ、あの私は……?」
さっき、彼に船から降りろと言われたが、船を動かされてしまえば降りることなんてできない。
彼は私の顔を見てから、たちまちに顔を顰めた。
この人、意外に分かりやすすぎます。
「まだ降りてなかったのか。ささっと降りろ」
まだ降りてなかったのかって、そんな降りる時間なんてなかったし。降りろと言われましてもーー無謀。
私を何だと思っているんだろう。令嬢だと勘付いていても、捕らえようとしないし。それどころか失礼な態度ばかりとる。
「ゼス、さすがにそれはもう無理なんじゃないかな」
またもう一つ、聞き慣れない声。
「仕方ない。ミサト、こいつはお前に任せる」
乱暴に背中を押され、ミサトとという男性の胸板へトンっーーと頭を当ててしまう。
謝ろうと顔をあげてみれば、そこには優しい表情があった。
「ちょっと揺れるかもしれないけど、大丈夫だよ」
さっきの人が異常だっただけかもしれないけど、この時、感動を覚えた。




