桜一分咲き
「桜子ちゃんって、結局何がしたいの?」
「えっ……?」
突然の茜の言葉に、のぞみ製薬のMR、春野桜子は戸惑う。
ここは落ち着いた雰囲気のバー。軽く仕切られたテーブル席の向かい側には、茜と一緒という条件でようやく誘いを承諾してくれた真田がいる。事情を理解してついて来て、自分の財布を食い潰している茜の言葉に、桜子は首を傾げざるを得なかった。
「僕も聞きたいです。桜子さん、変ですもん」
「変?」
「本当に真田君が好きで誘いたくて仕方なかったのなら、何でそんなにゆるーく笑ってられるのかってこと」
真田の発言を補足するように茜は続けた。
「緩くって……嬉しいからに決まってるじゃないの。好きな人と一緒にお酒飲めて、嬉しくないって人いる?」
今更隠し立てる間柄でもないので、桜子は本心を舌に乗せる。
しかし、半年前からの同僚達は顔を見合わせて嘆息するばかりで……。
「あのさ、桜子ちゃん。それが二、三回のことならわかるわよ? でも、三人で会うの、もう何回目?」
「十二回目、だけど?」
茜の鋭い視線に垂れた眉をハの字にしながら、桜子は答える。
「だったら私ってお邪魔虫を、何で排除しようとしないかなぁ」
「そんな、茜さんがお邪魔虫だなんてっ……私、そんな風に思ったこと一度もないよ!」
「……だから、駄目なのよ」
茜の言及に大慌てで頭を振る桜子に、二人は大仰に溜め息を吐いた。
「……僕、もう帰りますね」
「ごちそうさま」
「えっ……?」
口々に言って席を立つ二人に、桜子は瞠目する。
「待って! まだ、一時間しか経ってないじゃない! 大体、今日は私のっ……」
「何がマズかったか、一人でよく考えんのね」
「また誘ってくださいね……今度は、友達として」
茜は突き放すように、真田は少し申し訳なさそうな微笑みを浮かべて言い、店を後にした。一人取り残された桜子は、まったく訳がわからない。
二人とは半年前、のぞみ製薬株式会社神奈川営業所に途中入社して以来の仲。今までのやり取りでもわかるように、桜子は二歳年下の同僚、真田千尋に絶賛片思い中だった。事務員の沢口茜に仲立ちを頼み、今日まで地道にアプローチを続け、彼女込みの十二回のデートを重ねてきた。
実に常識的に、傷付けたり嫌な思いをさせないように、それは丁寧に誘って、一緒にいる間も大口を開けて笑ったり、下品な様子は一切見せないように気を付けてきたつもりだ。それの何がいけなかったというのか……茜も一緒にと言ってきたのは大体真田の方で、二人きりでデートをしたい気持ちがないわけではなかったが、とにかく自分の欲求はさて置き、彼の希望を第一に考えてきたのに。今まで付き合った異性は、総じて分別ある控えめな(と信じている)自分を絶賛していたはず。
大体、今日は自分の二十七回目の誕生日、それを祝ってくれるつもりで真田も茜も誘いを受けてくれたはずなのに……こんな結末、あんまりだ。
「馬鹿だな、お前」
記念日に置き去りにされたショックで真っ白になっていた背中に、呆れを含んだ男の声がかけられる。
「あっ……一倉さん!」
振り返ると、後ろのテーブルにはいつからいたのか提携会社のエリアリーダーがいて、さきほどの声音通りの呆れた表情を浮かべている。まずい相手と居合わせた、と歪みそうだった顔をあくまで偶然の遭遇を驚いているように見せながら、桜子は内心激しく冷や汗をかく。
桜子は一倉が苦手だった。彼は高校時代に所属していたバレー部の先輩であり、七年前のOB会で初めて顔を合わせて以来、何故か妙に気に入られている。親子ほどの年齢差のある二人だったため、学生時代はそこまで会う機会もなかったが、うっかり同じ業界に進んでしまったことが桜子の不幸の始まりだった。
合同プレゼン大会や会合で顔を合わせては絡まれ、酒の席でこき使われ、最終的に前後不覚に潰れるまで飲んだ彼の面倒を押しつけられるのだ。次の日、自分が何を強いたかちゃんと覚えている辺り、確信犯なのはわかっているが、たとえ卒業しても先輩後輩の関係は一生もの……みずからが所属していたのは二十年以上前の話でありながら、いまだ定期的にOB会へ顔を出す一倉は、出身バレー部の伝統が桜子の代にも脈々と受け継がれていることを、しっかり把握していた。
そして半年前、桜子が提携会社に中途入社したことで、理不尽極まりない関係にはさらに拍車がかかっていた。また一つ、彼にいいように使われるネタが増えた、と頭を抱えたくなる。
「お前、本当に恋愛音痴だな」
「……どういう意味です?」
一倉のズケズケした物言いに、桜子はさすがにムッとして訊き返す。
「お前のやり方じゃ、都合のいい女にしてくれって言ってるようなもんだろーが。大体、あのなすび坊ちゃん、遠恋中だが女いるんだぞ」
下世話な揶揄を含む口調で、一倉はニヤリと続けた。
「えっ!」
パワハラ、セクハラと訴える前、鋭く鳩尾に叩きこまれた最後の一言に、桜子は絶句する。
「お前も知ってる奴だ」
「……俺は、これで」
そんな中、すっかり存在を無視されていた一倉の連れの男性がそう言って席を立つ。
「あっ……済みません。私、お邪魔してしまって! もう帰りますからっ……」
「いや、いい。もともと長居する時間がなかったんだ。それに正和は今、俺よりも君と飲みたいようだし、相手をしてやってくれ」
慌てて立ち上がろうとした桜子を制し、長身スマートなシルエットの男性は微笑む。相貌は鋭く整っているものの、仕草は優雅、物腰も上品で、思わず見惚れてしまうような人物だった。何より、自分より長身の男性なんて、久々に見た。百九十センチ近くあるだろうか……今は座っている一倉もがっしりした大柄で彼とそう変わらないだろうが、細身のモデル体型であるためにさらに高く見える。
「じゃあな、仁。また連絡する」
「ああ、今度は俺から誘うよ」
一倉の言葉にそう返して、妙に色気のある微笑を口元に刻むと、彼は流れるような動作で棒立ちになっている桜子の脇をすり抜けて行った。
「……何というか、随分と雰囲気がある上品な方ですね」
「ああ、実の弟だ。あいつは俺と違って、母親似だからな」
完全に店から出て行ってしまうまでその背中を見送っていた桜子が呟いた言葉に、一倉は至極あっさり言う。
「えっ!」
「そんでもって、カミさんの愛人だ」
「えぇえっ……!」
落とされた爆弾に、桜子は素っ頓狂な叫び声を上げてしまう。もはや、ずっとアピールを続けていた真田に彼女がいた事実など吹っ飛んでいた。
「……っ、済みません! ……愛人っ、弟って、何でそんなことに?」
店内の注目を集めてしまったことに、周囲にぺこぺこと頭を下げると、桜子は声を潜めて再度尋ねる。
「雰囲気あるってお前も言ったろ? そーゆー奴なんだ、もうクセみたいなもんだ。どうせ俺とカミさんとは、政略結婚みたいなもんだしな。俺も俺で好き勝手やってるし、お互い間違っても三面記事コースにゃならない大人の恋愛してんだ、誰にも迷惑かけてないぞ」
まったく悪びれもせず言った一倉の言葉に、桜子は開いた口が塞がらなかった。
「事情はわかりましたけど、私なんかにそんなプライベートな話して、大丈夫なんですか?」
「お前は、言い触らしたりする人間じゃないからな」
「一倉さん……」
「そんな根性ないだろ」
最初の言葉にちょっとだけ感動していた桜子だったが、さらに続けられた言葉にベタにずっこけそうになる。
「根性以前の、常識的な問題でしょう」
みずから弱味を漏らしたにもかかわらず、相変わらずの尊大な態度に、桜子は溜め息を吐く。
「さっ、そんなことより飲み直すぞ!」
そんな桜子も意に介さず、一倉は彼女の頭をペットにでもするようにガシガシとかき回して宣言した。
「いたたたっ、セットが……って、嫌ですよ! 帰りますっ、明日も仕事なんですから!」
「いいから付き合え。このまま帰っても、今年の誕生日は野郎に振られた最悪な日ってことにしかなんねぇだろ」
「えっ……」
桜子は一倉が次に発した言葉に、文字通り凍りつく。
「ありがたく思えよ、同門のよしみだ。今日はこの俺が、みっちり恋愛指導してやるよ」
俺は「根性」あるぞ、と暗に告げるような薄ら寒い笑みを口元に刻んだ一倉に、桜子は頷く他なかった。みずからの弱味を握った人間には逆に弱味を握り返し、どこまでも利用して骨の髄まで貪り尽くすのが、グレーシア薬品工業株式会社神奈川支部エリアリーダー、一倉正和という男だった。
* * *
次の日の朝、桜子は酷い頭痛と息苦しさに目を覚ます。
「……うぅっ……気持ち悪ぅ……」
頭に響かないように小さく呟きながら、彼女は昨夜の出来事をうっすらと思い出し始めた。昨夜は自分の誕生日、それを理由に誘った真田と茜と三人で飲んでいたはずだが、どうも記憶があやふやだった。どうやって社宅の自分の部屋まで戻ってきたのか、一切思い出せない。翌日が仕事とわかっていながら潰れるまで飲むほど、自分は馬鹿ではない。大体、今まで相手を潰したことあっても、自分が潰れることなど一度もなかった。
一体、何でこんなことになったのか。記憶を整理しようと、天井をぼんやりと眺めていたが……。
「……あれ? ……ない」
先週、仕事帰りに行ったギフトショップで一目惚れして買って帰り、寝室の天井に苦労して吊り下げた西洋風鈴がどこにも見当たらなかった。それと同時に、自身の記憶とわずかに異なるベッドのスプリング具合にも気付く。
「きゃあぁーーーーーーっ……痛ぁ!」
思わず叫んで飛び起きてしまい、頭を覚えて蹲ってしまった。
「いたたたたたぁ……っ、ここ、どこぉ……?」
自分の手に触れた長いストレートの髪の感触にも違和感を覚えるものの、今現在の自分の所在が不明であることに混乱していて、それどころではない。
「目が覚めたようだな……おい、大丈夫か?」
扉の開く音がして、そんな声がかけられた。
『……春野桜子君か、ネタの掴みみたいな名だな』
聞き慣れた声に、その声の主との初対面のやり取りが即座に脳裏に浮かび……。
「リっ、リーダー! どうし……痛っ!」
慌てて桜子は顔を上げるも、ふたたび走った鋭い痛みに頭を押さえる。
「大丈夫か? 春野君」
よりによって、何故この人が!
増田伊織、のぞみ製薬神奈川営業所川崎エリアリーダーで、直属の上司だ……あくまで心配するように声をかけて来た彼に、桜子は自己嫌悪に陥った。彼がいるということは、ここは社宅の自分の部屋から一階下の階、彼の部屋ということになる。自分は、彼の寝室のベッドを陣取っているのだ。
「あのっ……これは、違うんです! 不法侵入とか、あのっ、痛っ……」
「二日酔いなんだろう、無理しなくていい」
優しく背中を撫でてくれる彼に、桜子は何とも言えない違和感を覚えていた。
元エリアリーダーの退職で彼、増田がエリアリーダーに昇格し、その彼の後任として半年前、自分はのぞみ製薬にやって来た。冷たく整った切れ者系の面立ちをしていることもあり、アイスマンの異名を持つ直属上司の引継ぎは、かつて経験したことがないほどに厳しかった。
厳しかったということは確かで、仕事手順は身体に叩き込まれていたが、正直なところ、桜子にはあの悪夢のような二週間の記憶がほとんどない。人間、本当に辛い記憶は意識的に封印するという話を、身をもって実感した。そんなこともあって、桜子にとっての増田はわかり易い畏怖の対象だった。唯一感謝しているのは、彼のお陰で真田と親しくなれたということだ。
先天的に気配り上手で、誰とでも打ち解ける真田は、本能的に萎縮して会話もままならなかった桜子と増田の間に入り、フォローしてくれた。陰で「へなちょこ」とか「なすび坊ちゃん」とか呼ばれる彼だが、決して男気がないわけではない。優しさに裏打ちされた、彼なりの強さを持っているのだ。アイスマン増田とはまさに真逆……きっと彼には「楽しい」とか「嬉しい」とか、そんな温か味のある感情はないのだろう。人が行き倒れていても、きっと踏み越えてプレゼンに向かう……桜子はこの半年間、ずっとそんな風に思っていた。
ただ、現実の増田は今、二日酔いに苦しむ自分を親身に介抱してくれている。大体、引継ぎ期間の記憶はないのに勝手に増田を誤解し、苦手意識を持っていたことを、どっぷり後悔する桜子だった。
「……ところで、一体なんでそんな格好をしているんだ?」
「はっ?」
次にかけられた言葉に、真田は意味がわからずに彼を見上げる。
「だから、何故そんなふざけた格好をしているんだと聞いている。さすがに部屋の前に倒れている部下を放り出しておくわけにもいかなかったから、仕方なく中に入れたんだがな。まさか、私に対する嫌がらせか?」
「嫌がらせって……、うわぁああぁぁーーーっ、いったぁーーーい!」
彼の少し苛々したような言葉に自身の身体を見下ろし、桜子はかなり悲痛な叫び声を上げてしまう……自分の叫び声の高さにふたたび頭を押さえると、その手に絡みつくのは長いストレートの黒髪。自分はショートカットのはずなのに。
「記憶が、ないのか?」
本気で自分の格好に驚いている彼女に、増田は眉を顰める。
「……ぅうっ……何ですか、これっ……どして!」
ストレートの長い黒髪のかつらを被せられたその顔は、ハの字眉毛はアーチ型に細く整えられ、小豆のような一重の目はアイプチでくっきり二重にされて、長い付け睫毛が効いたぱっちりオメメに生まれ変わっていた。唇には、自分では絶対に選ばないラメが濡れ光る、ピンク色のグロスが塗られている。北国出身者らしく生まれつきしみ、そばかす、ほくろの類が全くない肌にはファンデーション、頬にはチークを、とキャバ嬢ばりの派手な化粧を施されていた……今の彼女に確認はできないけれど。
その上、格好は素材から宴会芸用だと一目瞭然の婦人警官のコスチューム。ご丁寧なことに、肌蹴られたシーツの端から覗く両足の爪には、唇と同じ色のシャイニーなペディキュアまで塗られていた。つまり、桜子はミニスカポリスな格好をしていたのだ。
「真田君と茜さんとバーで飲んでて……そうだ、一倉さんに会っちゃって……えっと、無理矢理飲まされて、あの人ザルだから全然潰れなくって……それから、それからっ……」
すっぽりと抜け落ちた記憶を必死に構築して行けば行くほど、桜子の顔色は悪くなっていった。
「……最、悪っ!」
「春野君?」
「済みません、増田リーダーっ……私、失礼します!」
「春野君っ……?」
お礼は改めて、と言い捨てると、桜子は逃兎の如くベッドから飛び降り、己の姿も省みずに部屋を飛び出していった。
「……一倉さん、とか言ってたな」
長年の使いっ走り人生で培った桜子の逃げ足に、呼び止める言葉も満足にかけられなかった増田は、彼女が動揺しながら吐いた言葉に、少し考え込むように眉根を寄せていた。
* * *
その数時間後、のぞみ製薬神奈川営業所のデスクには、酷く疲れた様相を浮かべた桜子が座っていた。
普段、川崎第二エリアを担当する自分は、社宅と特約店や医療機関との往復で、神奈川営業所には滅多に出社しない。今日は社内勉強会だったために、久々の出社だった。初めての連絡なしの大遅刻に、周囲は叱咤ではなく心配の声をかけてきて、桜子はただただ曖昧に言葉を濁して謝ることしかできなかった。仮病の説明も、実際に二日酔いの酷い顔色を見れば呆気なく信用され、昨夜の件が理由だと思った真田と茜も、深く追及はしてこなかった。
身一つで衝動的に増田から逃げて来てしまった桜子だったが、郵便受けの中に合い鍵を入れていたので、幸い同じ社宅の誰にもミニスカポリス姿を見咎められずに済んでいた。また、増田が先月発売したばかりの緊急避妊薬の説明会で今日の勉強会には欠席しているのが、せめてもの救いだった。
「はぁ……」
溜め息を禁じ得なかった。増田もそうだが、一倉の存在が恐ろしくて堪らない。彼の性質を考えれば、自分のミニスカポリス姿はきっちり画像データとして手元に残しているはずだ。これからの生活……とてつもなく不安だった。
あれから思い出したことだが、昨夜は恋愛講義と称して某有名クラブに連れていかれ、店を貸し切ってホステスのお姉様方から客を口説くテクニックを無理矢理ご教授賜った。さらに、いい女が口説かれたときの対応を勉強しろと言って、一倉も日々の営業で鳴らした舌技を披露する。本当に口が巧くて臨機応変で、百戦錬磨の玄人である夜の女性さえ半ば本気でうっとりとさせて、実際、アフターの約束も取り交わしたりしていて……既婚者だとか、その他諸々の社会常識はさておき、その話術には本気で感心させられた。
なのに、いつの間にか話は怪しい方向に進んでいて、神奈川ナンバーワンのクラブに何でそんなものが、と思った時点にはもう遅く、たおやかなホステス達に押さえ込まれ、スーツから始まり、靴下に至るまですっかりはぎとられ、ミニスカポリスな姿に着せ替えさせられて、メイクはもちろん、文字通り頭の先から爪先まで完璧に着せ替え人形化されてしまった。
その上、ザルの一倉にはガンガン飲まされて前後不覚に陥り、記憶を飛ばされ……おぼろげに覚えているのは一倉の膝の上に座らされ、尻を撫で回された感触。思い出して、桜子は大きく身震いをする。その後、彼は店のナンバーワンと消えたので、食われていないことは確かだ。それさえわかっていれば、別にいい。この業界、セクハラ、パワハラなど五万とあって、その程度ならもう慣れっこなのだ。
目下の問題は、社宅での部屋が一階違いで同じ号室だったため、うっかりやらかしてしまった失態だ。それはあまりにも痛過ぎた。その性質は逆だが、ある意味では一倉以上に厄介な直属上司、アイスマン増田は自他ともに厳しく、馴れ合いを一切拒絶する人柄。今回のことは、性質の悪い嫌がらせだと思っているに違いない。介抱されたのに、礼も言わずに逃げてしまった自分……背筋が冷たくなる。桜子は、ふたたび身震いをした。
今までそこそこ順調にキャリアを積んできたが、一倉と増田二人に目を付けられた現状に、半ば本気で辞表提出を考える桜子だった。
「サークーラちゃんっ、昨日どうだった?」
そんな彼女の落胆に、さらに追い討ちをかけるように川崎第一エリア担当の先輩MR、山田が声をかけてくる。女医さん達に人気のベビーフェイスに張り付いたような営業スマイルからは、桜子の失敗を確信しているのはバレバレだ。昨日、桜子がどうしても誕生日を真田と過ごそうと周囲から地固めしたために、無理矢理説明会後の慰労会の司会を代わらされたことを根に持っているのだ……山田も昨夜は、何か予定があったらしい。
山田まで敵に回してしまった。これはいよいよ辞表の文章を考えなければなぁ、と桜子は自虐的思考に取り憑かれる。
「ん……サクラ? 眉毛どうしたの? いつもより気合入ってんね」
ハの字になっても綺麗なアーチ型を崩さない眉毛に気付いた山田は、怪訝そうに言った。
「山田先輩、長い間いろいろとお世話になりました。慰労会での裸踊りやスッチーとの合コンセッティングも、今となってはいい経験です……多分、どこ行ってもここ以上ドキドキすることってないんだろうなぁ」
「はっ……? サクラ、お前いきなりナニ言ってんの?」
心ここにあらずといった虚ろな言葉に、ただ真田に振られただとか、ついて来た茜にたかられたとかそんな次元でない問題が発生していっぱいいっぱいになっているのが伝わったらしく、山田は当初の恨み言など忘れたように尋ねてくる。
「はぁ……、何でこんなことなっちゃったんだろ」
桜子は魂の抜けそうな大きな溜め息を吐くばかりだった。
「春野君!」
そんなところに、営業所長の小宮山がやって来る。
「体調が良くないとこ悪いけど、ちょっとひとっ走りすずらんレディースまで行ってくれる? 増田リーダーが、プレゼン用のプロジェクター持ってくの忘れてね」
「まっ……増田リーダーですかっ?」
丁度考えている最中の相手の名が出たことに、桜子はやたら大きく叫んでしまった。
「そう、ビックリだよね。うっかりミスなんて彼らしくないよねぇ……なに、防災訓練かい?」
衝撃で椅子からずり落ち、机の下にへたり込んでしまった桜子に、小宮山は怪訝そうな顔をする。
「いっ、いえ……山田先輩じゃなく、私でいいのかなって思って」
「サクラ、それは俺に対する嫌がらせ?」
取り繕うように言った言葉に、増田とはとことん反りが合わない山田の眉が跳ね上がる。
「えっ……? そんなつもりは全然!」
「何でもいいから早く行ってよ、春野君。説明会、開始が遅れて先生方のご機嫌損ねちゃ、まずいでしょ! 今が売り込み時なんだよ」
「は、はい……!」
行けば地獄、逃げても地獄という現状に、桜子は仕方なく前者の地獄を選んだのだった……。
* * *
ビクビクしながらすずらんレディースクリニックの病院駐車場にタクシーから降り立った桜子は、プロジェクターが入った専用ショルダーバッグを肩に、増田の姿を探す。彼は関係者専用口近くで、桜子に背を向けて立っていた。背筋がピンと伸びた後ろ姿に、一瞬胃がキュッと締めつけられる気がしたが、今はそんな個人的感情に構ってはいられない。
「リっ、リーダー……!」
少々裏返った声で呼びかけながら、桜子は彼に駆け寄る。振り返った彼は、ひどく不機嫌な顔で自分を見上げた。
「すっ、済みません」
「何故、謝るんだ?」
咄嗟に口を突いて出た謝罪に、不機嫌な表情そのままの声音で突っ込まれる。
「あっ、いえ……つい」
「……っ、そんな適当に流されて生きているから、一倉さんにもつけ込まれるんだ」
「えっ……」
そして、次に続けられた増田の嘆息混じりの言葉に、桜子は心底驚いた。
「今朝、一倉さんと飲んでたとか言ってただろ。それで確信した、クラブ・ミモザに連れ込まれて好き勝手されたことにな」
さらに続けられた言葉には、開いた口が塞がらなくなる。
「なっ、何で場所まで……!」
「あそこはあの人の根城だ……被害者は君だけじゃない」
増田は最後の言葉の後、かなり渋い表情で溜め息を吐き出す。そこに至って、気付いてはいけないことに気付く。よくよく観察してみれば増田は、高校時代、バレーボール部だった長身の自分より、身長も小さければ、よほど華奢な体躯をしている。
「まさか、ミニスっ……」
「命が惜しければ、訊くな」
「すっ、済みません」
思わず呟いた言葉に鬼の一瞥を送られ、桜子は再度謝罪する。
「あと、今夜にでも私の部屋へ寄れ」
「えっ……?」
「今朝、裸足で逃げただろう。真っ赤なピンヒール、忘れて行ってる」
「私、そんなものまで履いてたんですかっ?」
とにかく恥ずかしくて、その場から逃げ出すことに必死だったために、そこまで確認していなかった彼女は目を剥く。
「一倉さんを甘く見るな、くだらないことにはとことん用意周到だ」
「……あの、私はこれからどうなるんでしょうか?」
真剣な表情の増田に、桜子は思わず尋ねる。今までの会話から想定するに、彼も一倉の被害を受けているのは確実だ。それでも、物騒なことは口にしつつも、彼がそんな目に遭っても一倉との親交を絶たず、随分と平然としていることが、いまいち納得がいかない。
「特に問題はない、あの人はそこまでのプロセスを楽しんでるだけだからな。それをネタに脅してきたりするわけじゃない。大体、そんなものばら撒いてみろ、こっちだってやられっ放しじゃ済まさない。社は違っても同期なんだ、弱味の一つや二つは握ってる。大々的に暴いてグレーシアにいられなくしてやるさ。それに、あの店はオーナーもホステスも口が堅い……たまに一倉さんと一緒になって暴走して、泣かされるがな」
「……たまに泣かされるって、増田リーダー、そんなに何度も行かれてるんですか?」
「一倉さんと飲んだときの締めは、大体あそこだ。医療関係者の客が多くて有名な場所だ。他所では聞けない話も聞ける……初めの洗礼は強烈だが、授業料として今では割り切った」
「へぇ……」
想像と違った……随分とさばけた言葉に、勝手に築いていた増田に対する印象が、桜子の中でガラリと変わった。
「とにかく、今日の業務が終わり次第、迅速かつ確実に取りに来い」
「はい、必ず……あっ、駄目です。私、勉強会後の飲み会幹事でした!」
頷きかけたところで、桜子はその事実を思い出す。
「……っ、使えない奴だな」
「……済みません」
舌打ちをした増田に、彼女は何度目とも知れない謝罪の言葉を口にする。ただ、それまでの萎縮した様子は、もうどこにもなかった。一倉から共通の被害を受けていたことが、桜子の心に増田に対する妙な親近感を生んでいたのだ。
「明日じゃ駄目でしょうか? 明日ならなんとか定時で上がれます」
「仕方ないな」
顎に手を当てて暫く思案していた増田だったが、彼女の手からプロジェクターを取り上げて首肯する。
「はい、必ず伺います」
さっさと踵を返した増田の背に、桜子も頷くが……。
「……そうだ、春野君」
扉のノブに手をかけたところで、増田が振り返る。
「君のミニスカポリス姿、なかなか似合っていた。明日、良かったらもう一度見せてくれ」
「……っ!」
到底彼が口にすると思えない軽口とともに、世にも珍しい笑顔を向けられた桜子は、関係者専用口から増田が院内に消え、扉が完全に閉まった後も、暫し固まったままだった。ストン、と倒れ込むような衝撃とともに走り出した鼓動……桜子は投げかけられた揶揄にも満足に反応できない。
リーダー、あんなに綺麗な笑顔ができる人だったんだ。
優しく細められた鋭い双眸の残像に思考力を支配されていた桜子は、たった今、自分が新しい恋に落ちた事実に、これっぽっちも気付いていなかった。