第百四十七話「慟哭」
ナナホシが倒れてから、三日が経った。
ナナホシの意識は、まだ戻らない。
血を吐いた原因も、まだわからない。
あの後、シルフィが助けを呼ぶと、すぐにアルマンフィが現れ、ナナホシを医務室へと運んでくれた。
俺はその間に、他の面々を集めて、事情を説明した。
ナナホシが体調を崩し、解毒魔術を掛けた所、血を吐いて倒れた事。
現在医務室で治療を受けているという事。
正直、唐突すぎて俺も状況が理解できていない、という事。
他の面々は混乱しつつも、一応は納得してくれた。
現在、ナナホシは『贖罪のユルズ』の手によって治療を施されている。
贖罪のユルズには、治癒の能力がある。
他者の体力を、健康を、別の者へと移し替える能力だ。
解毒魔術とはまったく別理論の能力であるがゆえ、現在の解毒魔術で治らないと言われている病気でも、ある程度は治してしまう……らしい。
ただ、一人では扱えないため、誰かの協力が必要であると言われた。
その申し出に、シルフィが一も二もなく、自分がと申し出た。
シルフィがナナホシの隣に寝かされ、治療が開始された。
だが、ナナホシは意識を失いつつも苦悶の表情を浮かべ、咳も止まらなかった。
「カロワンテ。どうだ?」
ペルギウスはその様子を見て、配下の一人に診察を命じた。
『洞察のカロワンテ』。
彼は他人の能力や隠し事を見破るという能力を持っている。
こうした病気の時にも、その病状を見抜く力を持っているらしい。
レントゲンのような能力だ。
そんな彼は、ナナホシの容態を見て、首を振った。
「ユルズの力では、完治はしません」
「では書庫を調べよ」
「ハッ」
そう言って、ペルギウスとその配下は、治療法と病名を探りはじめた。
ナナホシの症状と、書庫にある文献とを見比べているらしい。
俺も手伝うと申し出たが、書庫に入れるつもりはないと突っぱねられた。
もちろん、その間にもユルズの治療は続けられ、シルフィも医務室から出てこない。
結果として、俺は手持ち無沙汰になってしまった。
もちろん、何もできないまま、無為に三日を過ごしたわけではない。
一度、家に戻してもらい、ロキシーに事情を説明した。
ナナホシが倒れ、シルフィが治療行為を手伝っている。
そのため、帰るのに少し時間が掛かる、と。
ロキシーはそれを聞いて、即座に行動を起こしてくれた。
学校に連絡をいれて休学の届けを出し、家族への説明も済ませてくれた。
そして、家の事は任せてください、と請け負ってくれた。
彼女は俺よりもずっと冷静だったと思う。
こうした事態に慣れているのだろうか。
結局、俺が何もしないまま、やるべきことを済ませてしまった。
俺はノルンとアイシャにもう一度、遅くなると告げて、追加の着替えなんかを持って、空中城塞に戻った。
もっとも、戻ってきても、もはやすることはなかった。
できることと言えば、ただナナホシの無事を祈るだけだった。
「……ナナホシ、治るかな?」
俺と同様に手持ち無沙汰になっている者は、他にもいた。
その筆頭がクリフである。
彼は城内に作られた礼拝堂のような場所で、一心に祈りを捧げていた。
「全てはミリス様の御心のままだ」
クリフは手を組んで眼を瞑ったまま、そう言った。
困ったときの神頼みだ。
俺は元々、神なんか信じていない。
俺がこの世界で信じているのは、俺を助けてくれた人だけだ。
だが、今ロキシーやシルフィに祈っても、気休めにすらならない事は、俺も重々に理解していた。
「……」
ふと、昔見た映画のことを思い出した。
宇宙人が地球を侵略してくる、有名な映画だ。
宇宙人は圧倒的な科学力で地球人を圧倒し、滅ぼそうとする。
しかし、ラストでは唐突に宇宙人の全ての機械が止まってしまう。
宇宙人は、地球の風邪ウィルスへの抵抗力がゼロで、みんな風邪で死んでしまうのだ。
ナナホシは、トリッパーだ。
転生者である俺とは違う。
歳もとらないし、魔力も無いらしく、魔道具の類も使えない。
もしかすると、魔力だけでなく、免疫も無かったのかもしれない。
いや、それだったら、もっと早くにこうなっていてもおかしくない。
あの転移事件から、8年だ。
ナナホシがこの世界に来てから、8年も経っているのだ。
今更すぎる。
「……」
あいつ。
死ぬんだろうか……。
なんでこんな事になったんだ。
---
ナナホシが倒れて四日目。
俺たちは円卓の間に呼ばれた。
そこには贖罪のユルズを除く全ての使い魔が集合していた。
そして、彼らの前に、ペルギウスがいた。
彼は一人だけ、一際大きくて豪華な椅子に座り、使い魔達は彼の背後に立っている。
「お座りください」
俺達はシルヴァリルに椅子を勧められ、言われるがまま席につく。
現在、シルフィがユルズについて治療に行っているため、それを除く七名だ。
「ナナホシ様の病気が判明いたしました」
俺達が席につくと、シルヴァリルが一歩前に出て、そう告げた。
とうとう分かったらしい。
「ナナホシ様のご病気は、『ドライン病』です」
ドライン病。
聞いたことは無い。
周囲を見ると、やはり知っている者はいなかった。
この中で一番病気に詳しそうなクリフですら、困惑顔で首を振った。
「ご存知ないのも無理はありません。
太古の昔。人の魔力が今よりもずっと少なかった頃の病です。
当時、魔力を持たず生まれてきた子供が何人もいたそうですが、10歳ほどで例外なくこの病気に掛かり、命を落としたとあります」
一応、ナナホシの状況に一致しなくもないな。
ナナホシは十歳ではないが、この世界にきて八年だ。
そして、魔力を持っていない……。
ともあれ、シルフィのせいではないらしい。
よかった。
「文献によると、魔力を持たぬ者は体外から入ってくる魔力を中和する力が弱く、
10年ほど掛けてゆっくりと魔力を溜め込み、病と化す……とあります」
魔力を持たぬ者は魔力を中和する力が弱い。
ちょっと良くわからないが、魔力にも善玉菌と悪玉菌がいるという感じだろうか。
魔力を持っている奴は、体内の善玉菌が悪玉菌を退治してくれるが、無い者は悪玉菌をそのまま体内に溜め込んでしまう。
もっとも文献とやらがどこまで信用できるかは分からないが。
しかし、説得力のある説ではある。
「その文献に、治療法は書かれていないのですか?」
「ありません。7000年ほど前、人の魔力が強くなったことで根絶した病である、と書かれております」
7000年前というと、第一次人魔大戦の頃だろうか。
確か、人魔大戦は1000年近く続いたって話だ。
戦争というのは色んなものを進歩させる。
人族も何らかの方法で、己を強化したのかもしれない。
その副産物として、病が根絶された。
そんな可能性はある。
それにしても、7000年か。
そんな昔の事となると、さすがに残っている文献も少ないだろう。
病名が分かっただけでも奇跡かもしれない。
「それで、どうするんですか?」
「停滞させる」
俺の問いに答えたのは、シルヴァリルではなかった。
どっしりと座った、ペルギウスであった。
「時間のスケアコートの力を使い、ナナホシの時間を停滞させる」
ペルギウスがそう宣言すると、一人の男が前に出た。
口の部分が突出した仮面を付けた男だ。
ひょっとこ、いや、ガスマスクが近いだろうか。
彼が、時間のスケアコートか。
確か、彼は触れた相手の時間を止める能力を持っている。
同時に自分も停止してしまうが、それを使えばナナホシが突然死ぬ事も、病状が悪化する事もない。
どれだけ長い時間止められるかもわからないし、根本的な解決にはなっていないが。
「なるほど、その後は?」
「地上にいる者に連絡をとり、治療法を探させる」
うん。
その方法なら、いいだろう。
ペルギウスの名前で頼めば、ノーという奴はいないはずだ。
「もっとも、ナナホシを助けようとする者がどれほどいるかはわからんがな」
「甲龍王様のご威光で、なんとかしてくださるのでは?」
「我とナナホシは、ただの取引相手だ。我が誰かに借りを作ってまで助けはせぬ」
ちょっと冷たいんじゃないだろうか。
けど、ナナホシとペルギウスの関係がわからないから、口を挟みにくいな。
「勘違いするなよ。我が城にいる以上は客人であるから最低限、助けもしよう。
だが、最大限は助けぬ。
我はラプラスを見つけ、ラプラスを倒すことのみを目的として生きているのだからな」
ラプラスを監視するお仕事があるから、必要以上の労力は割けない、って事か。
誰かに頼めば貸しができる。
貸しができれば返さなければならなくなる。
まして、失われてしまった病の治療法だ。
相手が要求してくるものは大きいだろう。
ペルギウスがナナホシ相手にそこまでする義理は、無いのだろう。
いや、十分すぎるほどの義理は払っているといえる。
ナナホシの生命を繋ぎ止め、維持する。
自分はそれ以上はやらないが、助けたい者がいるなら、助ければいい。
ペルギウスはそう言っているのだ。
間違ってはいない、と思う。
「……ナナホシを見捨てるつもりなのか!」
そう叫んだのは、クリフだった。
クリフは立ち上がり、ペルギウスに対して怒鳴った。
「見捨てるとは言っておらぬ」
「うそだ! あんたは、こんなにすごい城を持ち、こんなに有能な使い魔を引き連れている! なら、治療法を探す事だってできるはずだ!」
クリフの言葉に、ペルギウスはぴくりと眉を動かした。
「出来る者が探さねばならぬ道理は無い」
「ふざけるな! 弱者を助けるのは、力を持つ者の義務だ!」
「ふん、ミリス教の忌々しい教義を押し付けるな」
「なんだと!」
クリフはただ、感情のままに言葉を発しているのがわかった。
彼はミリス教徒だ。
ミリス教はキリスト教とよく似ている。
困っている子羊には手を差し伸べるべし、なんて教義もあるのかもしれない。
だが、それをペルギウスに言うのは間違いだ。
ペルギウスは、ペルギウスの考えで動いている。
400年も、ただ一つの目的のために動いているのだ。
確かにペルギウスは、ナナホシの研究した異世界召喚の知識は欲しいんだろう。
けど、それはラプラスという存在の上位には来ない。
あくまで、暇つぶしか何かの一環なんだろう。
「お前が言ってるのは、ナナホシを見捨てるって事だ! 助けるならちゃんと最後まで」
「クリフ、おやめなさい!」
クリフが椅子を蹴って立ち上がった瞬間、エリナリーゼが叫んだ。
彼女はクリフの肩を強くつかみ、その動きを封じていた。
「クリフ、気持ちはわかりますが、抑えて」
「……」
「こんなことで、あなたを失いたくはありませんの」
見ると、11人の使い魔が、全員身構えていた。
ペルギウスは半腰のクリフを見て、嘲笑するように口元を歪めた。
「文句があるなら、自分で動いたらどうだ? 貴様の神もそう言っていよう。人を助けるに、人を頼る無かれ、だったか?」
「くっ……」
クリフは悔しそうな顔をして、落ちるように椅子に座った。
彼も、別にペルギウスに食って掛かりたいわけじゃないんだろう。
ただちょっと、ペルギウスという強大な人物を前にして、何でもできそうだ、助けてくれそうだと思っただけで。
「ふぅ……」
どうしたものか。
ナナホシは助けてやりたい。
しかし、方法がわからない。
アリエルや他の面々の顔を見ると、やはり同じように思っているらしい。
アイシャあたりもナナホシとは付き合いがあるし、死んだら悲しむだろう。
それにこのまま死んでしまったら、シルフィが責任を感じそうだ。
何か、俺にできることはないんだろうか。
何も出来ないのだろうか。
「失礼します」
と、そこで円卓の間の扉が開いた。
贖罪のユルズだ。
彼女は俺たちに向かい、言った。
「ナナホシ様が意識を取り戻しました」
そういわれ、俺ははじかれたように立ち上がった。
「ど、どうですか?」
「表面的な病状は改善しました」
「表面的な?」
「はい、『ドライン病』にて溜まった魔力は、肉体を変異させ、病気を引き起こすようですので、その病気の方は治癒いたしました」
そう聞くと、エイズみたいな感じだな。
今までの咳も、その徴候だったのだろう。
解毒で表面的な病気は治っていたが、根治には至っていなかったというわけか。
「その、魔力を吸い出したりとかはできないんですか?」
「私には不可能です」
「じゃあ、誰かできる人は?」
ユルズは俺の問いに、ゆっくりと首を振った。
「そうですか……」
なんらかの方法で、体内の魔力を吸い出す方法は無いのだろうか。
例えば、そういう魔道具を使うとか。
7000年前よりも、今のほうがそのへんは発達しているはずだ。
だが、どうすればいい。
吸魔石とか使えば、除去できるのか?
いや、あれだって、体内の魔力を吸い出せるようなものではない。
でも、出来ないことは無い気がする。
作れるか?
だが、製作にどれだけ掛かる?
そもそも、できるという確証もない。
くそっ。
「とにかく、ちょっとナナホシの様子を見てきます」
俺がそう言って立ち上がると、追従するように他の皆も立ち上がった。
---
医務室は、寒々としていた。
家具類は客室とそう変わらない。
ただ、石材がむき出しで、壁には窓が無かった。
部屋の中央付近には手術台のようなものがおいてあり、戸棚の中にはナイフや包帯などが備えられていた。
「……」
ナナホシは部屋の隅にいた。
彼女が吐いた血は綺麗に拭われて、いつのまにか入院服のようなものに着替えさせられていて、清潔な感じだ。
だが、生気は無かった。
「ナナホシ、大丈夫か?」
そう聞くと、彼女はこちらをチラリと見て、言った。
「大丈夫に見える?」
「……」
見えない。
彼女の顔は真っ青で、眼の下にはどす黒いクマができていた。
誰がどう見ても、不健康体だ。
『贖罪』の能力は、患者のほうも消耗させるのだろうか。
もう片方のベッドは空だ。
シルフィは、俺たちと入れ替わりになるように、客室に運ばれた。
運ばれる時に様子を見たが、シルフィの方もやつれていた。
ここ4日、ずっとシルフィは治療に参加していた。
飲まず食わずだったわけではないようだが、やはり体力の消耗は著しいだろう。
「病気、治せないって言われたわ」
「ああ、うん」
俺は、ベッドの脇にある椅子に座った。
ユルズ女史は、病気の状態を隠すとかはしなかったようだ。
「まあ、すぐ良くなるさ」
「なるわけないじゃない」
そう言うと、ナナホシはそっぽを向いた。
壁の方を向いて、押し黙ってしまった。
今のはちょっと無責任な言葉だったかもしれない。
ちょっと、どういう言葉を掛けていいのか、分からない。
「……」
俺が黙った後、アリエルたちが口々に声を掛けた。
慰める者、気をしっかりもてという者、必ず治ると言う者。
言葉は様々だったが、元気づける言葉ばかりだった。
しかし、こういう時、こういう言葉は逆効果になるかもしれない。
本当に辛い奴にとって、上っ面だけの言葉ほど、聞きたくないものはない。
「……」
やがて、言葉が切れた。
反応のないナナホシに、誰も何も言えなくなってしまった。
重苦しい沈黙が場を支配して、居づらい空気が流れた。
「ではナナホシ。私は先に部屋へと戻らせていただきます。またお見舞いに来ます」
アリエルを皮切りに、一人、また一人と部屋から出て行った。
最後にクリフが残っていたが、エリナリーゼに促され、出て行った。
彼らが出て行く時、エリナリーゼが「……掛ける言葉が、ありませんわ」と言ったのが聞こえた。
まさにその通りだ。
そして、俺が残った。
なぜ残ったのか、俺自身もわからない。
だが、もう少し、側にいてやる必要があると思った。
一人にするのは危ないと、なんとなくだが、思ったのだ。
「……」
だが、掛ける言葉は無い。
病気の相手。
治らないかもしれない相手。
何を言っても、上っ面だけの言葉になりそうだ。
ナナホシは、不安だろう。
召喚魔術の方は順調だった。
第一段階で少し詰まったが、第二段階、第三段階はうまくいった。
第四段階もペルギウスに聞く限り、すでに方法は確立されている感じだった。
第五段階はまだ分からないが、延長線上の話だ。
あと1年か2年もすれば帰れる。
そう思っていた矢先、いきなり癌を宣告されれば、不安になる。
癌は不治の病ではなくなったとはいえ、しかし致死率の高い病気であることには変わりはない。
いつかみたいに、暴れだしてもおかしくはない。
けど、本当に治らない病気ってんなら。
もう未来は無いというのなら、暴れるのもいいかもしれない。
俺も付き合ってやろう。
なんかこう、スカっとする何か……。
「私、もともと、あんまり体強い方じゃなかったのよね」
俺が黙っていると、ナナホシは溜息を付くように言葉を発した。
その声音は、俺が思っているよりも元気そうに聞こえた。
だが、それが空元気であることは、明らかだった。
「病気がち……って程でもなかったけど、年に1回は風邪とか引いてたし」
ポツポツと語りだした。
俺はそれを、黙って聞く事にした。
「成績は良かったけど、別に運動とか出来る方でもなかったし。どっちかというと、インドア派だったし」
「こっちの世界って、あまり医学って発達してないじゃない?」
「知ってる? こっちの世界の人って、魔術があるせいか知らないけど、傷口を洗う事すらしないのよ? それで手遅れになって死んだり、手足を切り落としたりする人が大勢いる。馬鹿よね。ちょっと飲水で傷口を洗うだけで予防できるのに」
「私、自分が魔術を使えないってわかってから、結構色々予防してたのよ。病気をうつされないために、人のいる所に行かないとか。よくわからない食べ物は食べないとか」
「確かに、あなたから見ると不健康に見えたかもしれないけど、一応、部屋の中で運動もしてたし、自分なりに気をつけてたつもりだったのよ」
「だって、病気とかしたら、治らないかもしれないし」
「ていうか、病気になったら、多分、治らないだろうなって思ってたし」
「だって、掛かるとしたら、私の知らない病気だし……」
「……大体さ、この世界って、おかしいじゃない?」
「なんか、自重で潰れちゃいそうなぐらい大きな獣は出るし、魔術か何かしらないけど、物理法則は無視するし」
「そりゃ、私だって、来たばっかりの頃は、ちょっとは面白いなって思ったよ?」
「私だって、結構ゲームとかやるし、剣と魔法とか、嫌いじゃないし。ワクワクしなかったって言ったら、嘘になる」
「あなたみたいに、この世界で生きていけるのは、ちょっとうらやましいなって思ったことも……」
そこで、ナナホシはふと、言葉を切った。
肩が震えた。
ゆっくりとこちらを向く。
その顔は、クシャクシャに歪んでいた。
真っ赤な目には、大粒の涙が溜まっていた。
「死にたくないよ」
ぼとりと涙が落ちた。
決壊した。
「こんな所で、死にたくない!
こんなおかしな世界で死にたくない!
なんで! なんでよ!
おかしいよ!
ねえ知ってる!?
あたし、8年前から何も変わってない!
背も伸びてない、髪もそのまんま!
お腹は減るし、ご飯も食べてうんちもするのに、爪も伸びなきゃ、生理もこない!」
ナナホシはすぐ側にあった水差しを掴んで、投げた。
水差しは壁にぶち当たり、大きな音を立てて割れ、床を水浸しにした。
「私はこの世界の人間じゃない!
この世界では生きてない!
死体みたいになってる!
なのに、なんで!
なんで病気にだけ掛かるの!
おかしいじゃない!
なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないの!
死にたくない!
こんな、こんな変な世界で死にたくない!」
ナナホシはボロボロと涙をこぼしながら、喚いた。
「だって、私まだ、キスすらしたこともないのよ!
好きな人もいるのに、好きだって言えてもない!
羨ましいわよ! あなたが!
毎日楽しそうで、充実してて!
なんなのよ!
お父さんが死んだって!?
お母さんが病気で大変だって!?
だから何よ! いいじゃない!
私はこのままじゃ、お父さんの死に目にすらあえない!
私が死んでも、お母さんはそれを知ることすらできない!
会いたいよ! お父さんに! お母さんに!
覚えてる! あの日の朝の事。
お父さん、今日は早く帰ってくるって言ってた。
お母さん、今晩は秋刀魚を焼くって言ってた。
私はお父さんに、友達が来るから遅くなってもいいとか言って、
お母さんに、もう秋刀魚は飽きたって文句言って、
なんで、あんな事。
きっと、お父さんも、お母さんも、心配してる。
会いたい、帰りたい。
死にたくない。
こんな所で死にたくない……うっ……ひっく……」
ナナホシは膝を抱えて、顔を埋めた。
もう言葉は無かった。
聞こえてくるのは嗚咽だけだ。
ひっくひっくという嗚咽と、悲痛な泣き声だけだ。
「……」
胸に刺さった。
俺は、ナナホシの辛さが分かってしまった。
この世界に来た当初だったら、きっと響かなかっただろう。
会いたい、帰りたい。
家族に会いたい。
そんな事を言われても、俺はきっと分からなかっただろう。
そんなものは忘れて、この世界を愉しめばいいとか、そう思ったかもしれない。
けど、今は違う。
帰りたいという気持ちも、会いたいという気持ちもわかる。
何気ない日常ってのは、大切なものだ。
なくなってからでは、取り返しが付かないのだ。
……いなくなってからでは、取り返しが付かないのだ。
パウロは死んだ。
ゼニスも記憶は戻らないかもしれない。
ブエナ村での、あの暖かい家族は、戻ってこない。
俺はこれから、自分の家族と、生活を守っていかなきゃいけない。
シルフィ、ロキシー、ルーシー。
リーリャ、アイシャ、ノルン、ゼニス。
彼女らと離れ離れになったら、きっと胸が裂けるほど辛いだろう。
彼女らの誰かがいなくなったら、きっと死に物狂いで探すだろう。
もし、俺が今のまま、元の世界に戻ってしまったら。
例えそこで、今のような魔術を使えて、どれだけちやほやされても。
俺はこの世界に戻る事だけを考えるだろう。
「ヒッ……ヒック……」
ナナホシは膝を抱え、震わせている。
彼女はクリフともザノバとも、シルフィとも、必要以上に仲良くはしなかった。
けれど、俺の言葉は拾ってくれた。
俺の頼みも聞いてくれたし、俺の開催する催し物にも参加してくれた。
記憶をたどってみても、彼女に邪険にされた事は、あまりない。
ナナホシは、俺と日本語で話すとき、うれしそうにしていた。
彼女にとって日本語を喋れる俺は、唯一の癒しだったのかもしれない。
「誰か、助けてよ……」
ナナホシの小さな声に。
俺は立ち上がった。
---
円卓の間に戻ると、ペルギウスはまだそこにいた。
他の部下はいなかった。
ただペルギウスだけが、俺を待っていたかのように、そこにいた。
「どうした?」
「……俺も動きます。ペルギウス様の業務に支障が無いレベルでサポートをいただければありがたく思います」
そう言うと、ペルギウスは大仰に頷いた。
「ほう、動くか。貴様が。よかろう。我としても、ナナホシが死ぬのは、忍びないからな」
「ありがとうございます」
しかし、どうするべきか。
大昔、7000年も前に根絶した病気、その治療法。
皆目、見当もつかない。
解毒や治療魔術で治らないのは間違いない。
それで治るなら、ペルギウスだってそうしているはずだ。
魔道具。
これもできるかどうかはわからない。
体の中への作用というのなら、クリフの魔道具が近いかもしれない。
だが、今のところ、クリフの魔道具はエリナリーゼ専用だ。
エリナリーゼの容態を見つつ、少しずつ調整している。
効果は出ているが、完成はしていない。
あるいは、ナナホシ相手でも、少しずつ調整すれば、病気を抑えることはできるかもしれない。
だが、体を調べ、体調の変化を確認しつつ調整していく時間は、おそらくナナホシには無い。
今回は血を吐いた。
表面的な症状は治ったが、きっとすぐに再発する。
そして、次は即死するかもしれない。
また、時間を停止している状態では、実験もできまい。
魔道具はダメだ。
いずれ作るのはいいかもしれないが、今はもっと即効性のある治療法が必要だ。
治療法。
誰か知らないのか。
例えば、人神とか、オルステッド。
あのあたりなら知らないだろうか。
人神とは連絡が取れない。
今晩寝れば、あるいは助言の一つもくれるかもしれないが。
しかし俺の側からコンタクトを取ることはできない。
「ペルギウス様。龍神オルステッドに連絡は取れないでしょうか」
「不可能だ。奴がどこにいるかなど、把握しておらん」
オルステッドとも、連絡は取れない、か。
「だが、おそらく、奴も知らんだろう。奴が現れたのは約100年前、賢い男であるが7000年前の病気の事など、知るまい」
オルステッド、100歳ぐらいなのか。
もっと長生きしていると思ったが、ペルギウスに比べると、まだまだ若いのか。
いや、俺よりは十分年寄りだが。
「そうですか、しかし7000年前の事を知っている人物となると……」
いや、まてよ。
7000年前。
一人いたな。
そのぐらいの長さを生きているであろう人物が。
病気のことについて詳しい印象は無かったが……。
しかし、話を聞くだけなら、タダだ。
「一人、心当たりがあります……」
「ほう」
そもそも、見つけられるかどうかもわからない。
前に会ったのは偶然だった。
偶然会ってそのまま別れた。
繋がりは無い。
しかし、何かしなければいけない。
何もしなければ、何も起こらない。
「俺を魔大陸に送ってもらう事は、可能ですか?」
「魔大陸? どうするつもりだ?」
俺が会ったのは、過去に一度だけ。
ロキシーも会ったらしいが、今はどこに居るのかわからない。
だが、彼女の名前は昔から知っていた。
まだフィットア領があった頃、歴史の勉強をして、覚えていた。
一度会った後も、忘れたことはない。
「魔界大帝キシリカ・キシリスを訪ねてみようと思います」
7000年前。
人魔大戦を勃発させた人物の名前を。




