見てはならない山〜呪いという神の置き土産
新しい家に越してきて、まだ一ヶ月も経っていなかった。
夫は出張で留守だった。
二階の階段を上る途中、踊り場の窓から、外の景色がふと目に入った。
ただの夜の山だった。特に変わったところはない――そう思った。
なのに、目が離せなかった。
山の稜線の向こうから、何かが、こちらを見ている気がした。
いや、見ているのではない。
呼んでいる。
気づいたときには、窓に手をついていた。ガラス越しに、指先が冷たくなっていく。
背後で、何かが床を這う音がした。
振り返る余裕はなかった。
――誰か、来て。
その願いは、誰にも届かなかった。
***
岐阜県各務原市、佐々木探偵事務所。ここは他所が断るような依頼だけを扱う。
「東北の不動産屋から除霊の依頼か……遠すぎるだろ」藤井拓海はパソコンの画面をスクロールしながら顔をしかめた。
「ああ……」佐々木千隼はソファに寝転んだまま答えた。
「場所は?」
「仙台市から車で二時間くらいかな」
少しの沈黙の後。
「仙台まで行くなら、牛タン食いたいな」
拓海の手が止まった。
「今、なんつった」
「別に。独り言」
「ったく」拓海はため息をつきながらもう一度メールを読み返した。
「少し遠いが……まぁ、いいか」
千隼が、決断した。
「はい! 決定!」
拓海は承諾した返信メールを打ち始めた。
翌週、二人は、セントレアから仙台空港の便に乗った。
空港には不動産屋の担当者が一人で待っていた。
「佐々木先生、遠路遥々ありがとうございます」
名刺には「田村」とあった。
年齢は四十くらいだろうか。
車に乗り込んで二時間、着いた先は人口十万ほどの、これといって特徴のない市だった。
その中に、それは立っていた。
「あれです」田村が指さした先には、周囲の家より一回り大きい、二階建ての一軒家があった。庭も広い。だが、その庭の片隅に、明らかに不釣り合いな小さな神棚と鳥居がぽつんと置かれていた。
「あの鳥居は」千隼が近づきながら聞いた。
「前の持ち主が建てたみたいです。十年くらい前だと聞いてます」
「家より新しいのか」
千隼は鳥居の向きを一瞥し、何も言わずに玄関の方へ進んだ。
「この家は、何年前から?」
千隼は田村に質問をした。
「二十年です」
「誰が住んでたんだ?」
「この家を建てた家族、その後に一家族、その方が鳥居を建てました」
「その後は?」
「二年前に、若い夫婦が買ったのですが」
玄関の前に立った。
***
扉を開けた瞬間、拓海の背筋が冷えた。
「……寒いな」
「ああ」
間取りの説明を受ける。玄関入って左手に階段、階段下はトイレと風呂。右手に六畳の部屋が二つ。奥には二十畳ほどもある広いキッチンがあり、中央に大きなテーブルが置かれていた。
「二階もご案内しますね」田村がそう言って振り返った瞬間、全員の視線が玄関に吸い寄せられた。
若い女の輪郭が、すり抜けるように玄関から外へ出ていった。
「……ああ、アレです」田村は特に驚いた様子もなく、慣れた口調で言った。
「よく出るんですよ」
千隼と拓海は顔を見合わせることもせず、ただ黙って階段を見た。
二人の様子を見て田村は感心した。
「あれを見て、驚きませんか?」
「慣れてます。その為に依頼したんですよね」
振り向きもしないで千隼は答えた。
階段を上る途中、踊り場に窓があった。拓海が何気なく手をかけようとした瞬間、千隼の手がその手首を掴んだ。
「見るな」
「は?」
「外を見るな、今は」
拓海は理由を聞こうとしたが、千隼の目が本気だったので、黙って手を引いた。
二階には四つの部屋とトイレがあった。トイレに近づくと、微かに、しかし確かに異臭がした。
「これ……」拓海が鼻を押さえる。
「ああ」
千隼はそれ以上何も言わず、トイレの扉をそっと閉めた。
その夜、二人は再び家を訪れた。田村には「念のため」とだけ伝えてあった。
懐中電灯の明かりだけを頼りに、二人は玄関に立っていた。
「さっきの女、最近の死人だな」千隼が言った。
「ああ、俺もそう思った」拓海が頷く。「彷徨い方に迷いがない。まだ自分では生きている感じだ」
「二階のトイレの臭いは、もっと古い。家が建った頃……二十年前か」
「首吊りか」
「たぶんな」
その時、床が微かに揺れた。
「……地震?」
「いや」千隼の声が低くなった。「下からだ」
拓海がキッチンの床に手をついた瞬間、指先に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
慌てて手を引く。指は無事だった。
「拓海、離れろ」
床板ががたがたと震え、隙間から何かが這い出してきた。一体、二体、三体――内臓の抜け落ちた腹、骨だけの腕、肉の削げた脚。姿形はばらばらなのに、目だけが同じように落ち窪んでいた。
千隼は拓海の腕を掴んで引いた。
「撤退だ」
「言われなくても!」
二人は玄関から転げるように飛び出した。
***
近くのコンビニでコーヒーを買い、駐車場の縁石に座った。拓海の手はまだ微かに震えていた。
「……アレは何だ」
「餓鬼だ」
「餓鬼? なんであんな、部位が欠けたり骨だったりバラバラなんだよ」
「わからない」
千隼は熱いコーヒーを一口飲んだ。
「あっちい!」
「おい、またかよ!」
千隼は話を戻した。
「普通の餓鬼はあんな姿はしてない」
拓海は手を顎の下に当てて考えてる。
「どうした?」
「何で、あの餓鬼が出てきたんだ?」
千隼は少し動きを止めた。
「わからない」拓海の問いに、千隼はコーヒーの湯気を見つめたまま答えた。「ただの餓鬼にしちゃ数も姿もおかしすぎる。何か、長いこと眠ってたものが目を覚ました……そんな感じはするが、理由まではまだ見えない」
「分からないって、他に言う事ないのかよ」
「分からないものはわからない」
「ったく……」拓海は空を仰いだ。
「明日、どうする」
「この市の民俗資料館に行く」
「わかった…ところで千隼、牛タンはいつにする?」
「仕事が終わった最終日だ」
「あー! 早く終わらせてぇー」
次の日、レンタカーを借り資料館へ向かった。
資料館の学芸員は、「この辺りの飢饉について」と切り出すと表情を曇らせた。
「藩の記録に残っています。天明の頃、ひどい冷夏が続いて……人を食んだという伝聞も」
さらに古い資料には、その土地にかつて神社があったことが記されていた。神社の背後には山があり、その山自体が御神体とされていたという。
「今は、その神社は」
「跡形もないはずです。山自体、地元では今でも近づく者がいません」
資料館を出た足で、二人は山へ向かった。
高い山ではない。麓から少し登ると、朽ちた建物の残骸があった。
「これが拝殿の跡か」拓海が呟いた。「……神聖な感じ、まるでしないな」
「ああ」
言い終わるより早く、地面が揺れた。
山肌のあちこちから、餓鬼が這い出してくる。家で見たより、はるかに多い数だった。
「多すぎる」千隼が舌打ちした。「戦うな、退くぞ」
二人は転がるように山を下り、車に飛び乗った。
拓海はハンドルを握りながら、
「おい! あの山にまで居たぞ! どーなってるんだ?」
「たぶん、術者の俺たちに反応したんだろうな」千隼は窓の外、遠ざかる山を見ながら言った。歯切れの悪い声だった。
「歯切れ悪いな」拓海がすかさず言う。
「ああ……正直、まだよくわからん」
千隼は気になる事があった。
「拓海、田村さんの所へ行ってくれ」
「わかった」
***
不動産屋に向かうと、店主が不在だった。
「朝、出かけられて……佐々木先生とお会いする予定だったんですが」田村が困惑した顔で言った。
千隼がスマホを確認すると、電源が落ちていた。理由もなく切れていたことに、拓海が眉をひそめる。
「充電、あっただろ」
「ああ」
電源を入れると、店主からのメッセージが届いていた。
『知り合いの古民家で、あの土地について書かれた古文書を譲ってもらいました。これを持って、例の家に行ってきます。位置関係を確かめたいので』
「例の家って……」拓海の顔が強張った。
田村と三人で急いで家へ向かうと、玄関先に店主が倒れていた。傍らに、和紙に包まれた古文書が落ちていた。
「店主さん!」
駆け寄ると、右手の指が二本、欠損していた。出血が床に広がっている。
救急車を呼び、警察にも連絡した。事情聴取では、千隼と拓海には資料館の入場整理券という明確なアリバイがあった。
ベテランの警察官が、聴取の合間にぽつりと言った。
「この家、いわくつきなんですよ。二年前、住んでいた女性が何者かに殺された。犯人はまだ捕まってません。その前……二十年前には、家を建てた人の奥さんが二階のトイレで首を吊っている」
拓海と千隼は顔を見合わせた。
「店主さんの証言では、黒い影に襲われたと」警察官は続けた。「まあ、動物でしょうな。熊か何か」
「動物、ですか」千隼が静かに聞き返す。
「そういうことにしておかないと、この辺りも困るんですよ」
千隼はそれ以上何も言わなかった。
車に戻ってから、拓海がぽつりと言った。
「動物なわけないだろ」
「ああ。あの、部位が欠けた餓鬼の仕業だ」
現場に落ちていた古文書は、警察の預かりになる前に、千隼が中身だけ写真に収めていた。震えるような筆致で、飢饉を生き延びた、たった一人の生存者の証言が記されていた。
千隼はそれを一晩かけて読み解いた。
***
――去年に続き、今年も冷夏だった。米は実らなかった。
神に祈った。何度も祈った。それでも米は取れなかった。
牛を食った。犬や猫も食った。皆、痩せ細っていった。木の皮を剥いで食った。木の根を掘って食った。土を食う者さえいた。
ある日、猪を捕りに山へ入った男が、怪我をして帰ってきた。その夜のうちに死んだ。
誰かが言った。「こいつは鹿だ」
皆が口を揃えた。「そうだ、鹿だ」
朝には、骨だけになっていた。
それから、元気のない者、病を患った者が、一人また一人と姿を消していった。それでも、食う物は無かった。
村に、愛妻家の男がいた。弓の達者な男で、山で兎や鳥を取っては、妻にだけ食べさせていた。
ある日、その妻が見当たらなくなった。男は村中を探した。
村の外れで、人肉を食う者たちを見つけた。近づいて、男は凍りついた。
喰われていたのは、自分の妻だった。
男が怒りに震えると、喰っていた者の一人が言った。「お前だけが獲物を取って、俺たちに分けなかったからだ」
男は家に戻り、弓を取った。
それから、村人を一人ずつ射殺していった。妻を喰った者たち、そして妻以外の遺体もろとも、村の入り口にあった拝殿へと運び込んだ。
村人たちは御神体の山へ逃げ込んだが、飢えて動けぬ体では遠くへ行けなかった。一人、また一人と、山の斜面で矢に射抜かれた。
儂もその列の最後尾にいた。矢を受けて草むらに倒れ込んだが、急所は外れていた。息を殺し、死んだふりをして動かずにいると、男は儂を一瞥しただけで、骨の数を数えるように背を向けて去っていった。生きているとは、思われなかったのだろう。
御神体の山は、いつしか村人の亡骸で埋め尽くされた。
男は、最後に妻の骨を拾い、拝殿の前に埋めた。
読み終えた千隼は、しばらく文書を見つめたまま動かなかった。
拓海がそれを覗き込み、静かに言った。
「男が妻を埋めた場所って……もしかして」
「ああ」千隼は迷いなく答えた。「あの家の敷地だ」
「祓えるのか」
「無理だ」千隼は首を振った。「御神体そのものが、山を捨てた」
拓海はしばらく黙っていたが、やがて聞いた。
「じゃあ、なんで家から山を見たら駄目なんだよ」
「矢で射殺された村人たちの恨みが、まだあの拝殿の跡――正確には弓を持った男の妻の埋められた場所を見ている」
千隼は、そこで一度言葉を止め、顔を下から上に向けて拓海を見た。
「逆に、妻を含めて喰われて死んだ村人たちの念は、今も山に向いたままだ。矢を受けて山で死んだ者の恨みは家を、喰われて山に葬られた者の念は山を――互いに見つめ合っている。男が妻をこの家の場所に埋めたことで、喰われて殺された者の恨みと、矢で殺された者の恨み、二つがこの土地に向き合う形で残った」
「だから、窓から山を見るってことは」
「その二つの視線がぶつかる場所に、自分から入り込むのと同じだ」
「だから、家を建てた奥さんも、次に住んだ女性も」
「呼ばれた。恨みの通り道に、住み続けた」
「今回の犯人も、分からずじまいなんだろ」
「ああ。分かるわけがない」
千隼は庭先の鳥居を思い出していた。あれは、家より新しい。前の持ち主が、何かに気づいて建てたのだろう。だが十年遅かった。
「この家に住んで、あの窓からは――見てはならない山なんだ」
拓海は何も言わず、ただ小さく頷いた。
***
病室を訪れると、店主は包帯の巻かれた右手を見つめていた。
「先生……私たちでは、どうにもなりませんか」
千隼は静かに頷いた。「私たちでは無理です」
店主の顔が青ざめた。「では、どうしたら」
「更地にしてください。手放して、二度と誰にも買わせないように」
「それだけで、収まりますか」
「保証はできません」千隼は淡々と続けた。「ただ、建物がある限り、また誰かがあの視線の通り道に住むことになります」
店主は目を閉じ、深く頭を下げた。
帰りは電車で仙台に寄った。
「約束、忘れてなかったな」千隼が牛タン定食を前に、珍しく口元を緩めた。
「ったく」拓海は肩をすくめながら箸を取った。「あれだけの目に遭って、よく食欲あるな」
「ああ」
一口食べて、拓海も思わず黙った。炭火の香りが、口いっぱいに広がった。
「……うまいな」
「だろ」
窓の外には、東北の街並みが広がっていた。遠くの山影に、拓海は一瞬だけ目をやり、すぐに視線を戻した。
「千隼、俺、しばらく山って言葉聞きたくない」
「ああ」
千隼はもう一切れ、牛タンを口に運んだ。
[完]
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『見てはならない山』は、怪異探偵・佐々木千隼シリーズの短編です。
佐々木千隼シリーズは、Kindleで本編を公開しています。
本編では、千隼と藤井拓海を中心に、さまざまな事件が描かれています。
もし千隼たちの物語をもっと読んでみたいと思っていただけましたら、Kindle版もぜひご覧ください。
籠目




