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金をつぎ込んで画家の彼氏を売れっ子にしたのに、「お前は金のことしか分からない」と言われました

作者: 熾星
掲載日:2026/09/04



 七年間付き合った恋人へのプロポーズが成功した日、突然、目の前に「この先の物語」のような光景が浮かんだ。


 そこでは、彼がずっと心の奥にしまっていた初恋の相手、白石知花がビルの屋上から身を投げていた。神谷悠真はしばらく黙り込んだあと、怯える私を抱き寄せ、「怖がらなくていい。人にはそれぞれ運命がある。夏希のせいじゃない」と慰めていた。


 その直後、SNSのコメント欄のような文字が次々と視界に流れ込んできた。


【主人公かわいそう。本当に好きな女が死んだのに、まだ悪役ポジの女と一緒にいなきゃいけないなんて】


【高城夏希、少しでも空気が読めるなら今すぐ身を引きなよ。悠真だって本音では早く消えてほしいと思ってるでしょ】


【金もコネも全部つぎ込んで七年も尽くして、それでも本命二人の間に居座るって、どれだけ恋愛脳なの?】


 その場で固まり、意味を理解するまでしばらくかかった。そして次の瞬間、踵を返して逃げ出した。


 こんな泥沼の恋愛なんて、やりたい人が勝手にやればいい。


 せめて自分の人生くらい、自分で選ぶ。



1



 その夜、用意していた白いワンピースに着替え、オーダーしておいたペアリングを取り出していた。悠真にプロポーズしようとした、まさにその時だった。


【主人公がかわいそう。本当に愛してるのはヒロインなのに、今は悪役ポジの夏希のそばにいるしかないんだよね】


【もう少しの辛抱。高城夏希の幸せも、もうすぐ終わるから】


【本命の二人が結ばれるのはいつ?】


 頭に血が上り、思わず声が出た。


「冗談じゃない。どうしてひどい目に遭うのが私なの?」


 悠真が顔を上げた。いつもと変わらない、感情の読みにくい表情だった。


「夏希? どうした?」


 そこでようやく気づいた。あのコメントに出てくる「悪役ポジションの高城夏希」とは、ほかでもない私のことだった。


 神谷悠真と付き合って七年。彼を好きになってからなら、もう十年になる。


 プロポーズをするのは、これが初めてではなかった。大学を卒業した時にも一度結婚の話をしたが、その時の悠真は「まだ仕事も軌道に乗っていない。何もしてあげられないまま結婚したくない」と断った。


 だから卒業後の二年間、ほとんどすべての時間を彼のために使ってきた。


 その悠真が、つい先日、人生初の大規模な個展を成功させたばかりだった。


 専門のキュレーターを雇い、アート専門のPR会社に依頼し、業界メディアやコレクターとも連絡を取った。そこへ悠真自身の強烈な作品が加わり、展覧会が始まって数日もしないうちに、彼の名はアート業界だけでなくSNSでも一気に広まった。


 かつて学生向けの絵画コンクールで注目されながら、その後は忘れられかけていた「天才少年」は、若手作家の中でも特に注目される存在になった。


 悠真に、私以外の好きな人がいるなんて、一度も考えたことがなかった。


 悠真は床に並べた花と、用意していたリングを見下ろした。何をしようとしていたのか、もう分かっていたのだろう。


 彼はリングを一つ手に取り、少し黙ってから口を開いた。


「うん。……でも、こういうのは本当は俺から言いたかったな」


 そのまま指にはめようとした悠真の手から、反射的にリングを取り返した。悠真がわずかに眉を寄せたので、リングをケースに戻し、何でもないように笑った。


「急に気に入らなくなった。別のにしたい」


 悠真は理由を聞かなかった。


 その時、彼のスマートフォンが鳴った。画面を確認した瞬間、ほんのわずかに表情が変わる。


「アトリエでちょっと用事ができた。行ってくる」


 そう言って、悠真はすぐに出ていった。


 彼は昔から感情を表に出さない人だった。特に黒い瞳はいつもどこか遠く、どれだけ近づいても薄い壁一枚を隔てられているように感じる。


 以前は、その目に少しでも私だけに向けた感情が浮かぶことが嬉しくて仕方なかった。けれどその夜、初めて彼から離れたいと思った。



2



 個展の準備で疲れがたまっていたのか、ソファでそのまま眠ってしまった。


 次に目を覚ました時、知らない情報が頭の中へ一気に流れ込んできた。さっき見たコメントと照らし合わせながら整理するのに、三十分近くかかった。


 どうやら私が生きている世界は、一つの現代恋愛小説らしい。


 神谷悠真は、恵まれない環境から才能だけを武器にのし上がっていく主人公。白石知花は、彼がどうしても忘れられない本命のヒロイン。


 そして高城夏希――つまり私は、家柄と金の力で主人公を引き止める、邪魔な悪役だった。


 本来の物語では、悠真は私から金も人脈も受け取りながら、知花の前では「夏希には金しかない。何でも値段でしか見られない女だ」と話していた。


 結婚後には私の信頼を利用して高城ホールディングスの経営に入り込み、少しずつ中枢へ近づき、最後には父が持っていた経営権まで奪ってしまう。さらに一ノ瀬家の一部事業まで手に入れ、完全に別の階層へ上り詰めたところで、ようやく知花のもとへ戻るのだ。


 すべてを失った私は、悠真の前で膝をついて止めてほしいと頼む。


 けれど彼は、冷たい目で見下ろすだけだった。


「金があったって何になる。最後には俺に頭を下げるしかないんだろ」


 高城家が崩壊したあと、私は高城ホールディングス本社ビルの屋上から飛び降りる。


 そこまで知った瞬間、ソファから飛び起きた。背中には冷たい汗がびっしりとにじんでいた。


 その時になって、個展が終わった日に悠真から言われたことを思い出した。


 彼は、これから本格的に経営を学びたいと言っていた。向上心があるのだと思い、知人を通じて青嶺大学ビジネススクールの社会人向けプログラムまで紹介していた。


 今考えれば、自分の首を絞めるための縄を、わざわざこちらから手渡していたようなものだ。


 すぐ、個人業務を手伝ってくれている佐伯拓海に電話をかけた。


「前に神谷悠真のために手配した経営プログラムは全部キャンセルして。もう費用を払っているなら、規約どおりに処理して」


 佐伯は一瞬黙ったものの、理由は聞かなかった。


 電話を切ろうとしたところで、彼が別件を切り出した。


「高城さん、神谷さんの個展ですが、展示作品はほぼ完売しています。ほかにも購入したいというコレクターから問い合わせが来ていますが、追加で出せる作品はありますか?」


 部屋の中を見回した。壁には悠真の絵があり、書斎には彼のスケッチブックがある。収納には、大学時代に作った小さな彫刻や立体作品まで残っていた。


 これまで彼からもらった物のほとんどは、何かしら創作に関係するものだった。


 佐伯に来てもらい、所有権や販売の可否を確認できる作品だけを整理するよう頼んだ。


 また視界にコメントが流れ始める。


【もう主人公本人も売ればいいのに】


【これだけ金持ちなのに、まだ主人公の作品まで売ろうとするの?】


【そりゃ金のことしか考えてないって言われるよ】


 思わず笑ってしまった。


 すると、一つだけ妙に目につくコメントがあった。


【本当に大事なのは展示された作品じゃないよ。主人公が一番大切にしてるのは、誰にも見せてない『最愛』シリーズだから】


 その文字をしばらく見つめた。


 今回の個展には、準備だけで三か月かけた。悠真の展覧会なのに、ギャラリー、メディア、作品輸送、保険、コレクターとのやり取りまで、実際に動いていたのはほとんど私だった。


 それなのに、「最愛」というシリーズが存在することさえ知らなかった。



3



 窓の外はすっかり暗くなっていた。


 悠真が出ていってから、LINE一つ届いていない。迷った末、自分で車を出して彼のアトリエへ向かった。


 アトリエは青嵐美術大学の近くにある。


 大学二年の頃、家と学校を往復するだけで時間を失っていた悠真が制作に集中できるよう、父から渡されていた起業資金の一部で購入した小さな物件だった。


 一番奥には、ずっと鍵のかかった収納室がある。以前聞いた時、悠真は「高価な絵具や画材、まだ見せられない作品を置いているだけだ」と言っていた。


 それ以上踏み込む気はなかったので、一度も中を見たことがない。


 その夜は、扉の前で長いこと迷った。最終的には物件管理の担当者に来てもらい、立ち会いのもとで扉を開けた。


 油絵具特有の濃い匂いが鼻をつく。確かに中には大量の画材や絵具があったが、その一番奥に置かれたイーゼルには、白い布を半分ほどかけられた一枚の油絵があった。


 布をめくった。


 白いワンピースを着た若い女性が、海辺に立っていた。野の花で作った花冠をかぶり、風に裾を揺らしながら、こちらを振り返って微笑んでいる。


 今までの悠真の作品では見たことがないほど、柔らかく優しい絵だった。


 ジャケットの金具に反射した光が、ちょうどキャンバスの右下に落ちた。


 そこに書かれていた題名が浮かび上がる。


『最愛』


 その場から動けなくなった。


 この十年間、何度も悠真に「私も一度くらい描いて」とねだったことがある。そのたびに彼は、人物画はあまり得意じゃない、いつか描きたいと思った時に描く、と言っていた。


 私は信じていた。


 描けないのだと思っていた。


 違った。


 描けなかったわけではない。


 描きたい相手が、私ではなかっただけだった。


 白い布を元に戻し、収納室を閉めた。


 アトリエを出る時、涙は出なかった。いつの間にか口の中を噛んでいたらしく、舌先にわずかな血の味だけが残っていた。



4



 家に戻ると、悠真はすでに帰っていた。


 しかも一人ではない。玄関に立っていたのは、『最愛』の中に描かれていた女性だった。


 淡い色のコートに、ゆるくまとめた髪。実物の彼女は、絵の中以上に静かで淡い印象をしていた。


 彼女は私を見ると、軽く頭を下げた。


「高城さん、初めまして。白石知花です。悠真とは子どもの頃、近所に住んでいて……幼なじみみたいなものです。父が入院して、しばらく青嶺市に戻ってきました。急にお邪魔してしまって、すみません」


 知花の父親は、市内の総合病院で治療を受けているらしい。彼女の実家は月影町の古い住宅街にあり、病院へ通うには少し不便だった。


 私の家の方が病院に近いため、悠真はしばらくここに泊めてほしいと考えたようだった。


 ほとんど迷わず答えた。


「いいよ」


 視界がコメントで埋まった。


【???】


【『最愛』見たばかりだよね? なんで普通に泊めるの?】


【悪役ポジ、完全にシナリオ無視し始めてない?】


 無視した。


 今までの私は、悠真が頼んだことをほとんど断ったことがない。だから彼も、この返事を不自然には思わないだろう。


 けれど今回だけは、愛しているから許したわけではなかった。


 できるだけ早く、全部終わらせたかっただけだ。


 私たちは七年付き合ってきたのに、仕事と私生活の境界をきちんと整理したことがなかった。どうせいつか結婚すると思い込んでいたから、アトリエもアート事業も、彼の活動に関わることなら、私が先に動いて解決するのが当たり前になっていた。


 今思えば、無防備にもほどがある。


 知花を部屋へ案内したあと、悠真が私の手を取った。


「夏希、知花をN&Y ART SPACEで働かせてもらえないかな。大学ではアートマネジメントを勉強してたし、ちょうど今、仕事も探してる。」


 N&Y ART SPACEは、父からもらった起業資金の残りで私が立ち上げた場所だ。


 NはNatsuki。


 YはYuma。


 最初から、神谷悠真のために作ったような場所だった。


 自然に手を抜いた。


「無理」


 悠真が少し驚いた顔をした。


 けれど、断った理由は知花ではない。


 すでに、N&Y ART SPACEそのものを売却するつもりだった。


 この十年、あまりにも多くの時間を悠真に使ってきた。


 高城ホールディングスの創業家に生まれ、いずれ会社に入ることを周囲から期待されていたのに、グループの中核事業さえまともに理解していない。


 父はずっと「夏希が好きなことをすればいい」と許してくれていた。


 だからこそ、そろそろ自分の人生へ戻るべきだった。


 悠真はまだ諦めていないようだった。


「夏希、知花は俺にとって家族みたいなものなんだ。あいつも今、やり直そうとしてるだけだから」


 急にひどく疲れた。


「……分かった。ひとまず来てもらえば」


 悠真は目に見えて安堵した。


 もう、それ以上何も聞きたくなかった。



5



 悠真に初めて会ったのは、十五歳の時だった。


 当時、青葉美術予備校に通っていた。ある週末、高校生向けの特別講習が開かれ、そこで初めて悠真を見た。


 幼い頃から絵を習っていた私が、そこで初めて目を奪われたのは、まともな専門教育を受けたこともない一人の少年だった。


 先生の話では、地方の学生絵画コンクールで賞を取り、今回の特別講習にも選ばれたらしい。


 悠真は窓際のイーゼルの前で、午後いっぱいほとんど口を開かず描き続けていた。


 当時は、絵だけでなくピアノ、乗馬、ゴルフ、語学まで習っていた。家が用意してくれた環境のおかげで、何をやっても人並み以上にはできた。


 けれど、時間を忘れるほど好きなものは一つもなかった。


 悠真は違った。


 絵を描いている間だけは、世界そのものが目に入っていないようだった。


 その時初めて、人を輝かせるほど何かを好きになるということが、本当にあるのだと知った。


 少しずつ話すようになり、彼の家庭環境も知った。


 悠真は五歳の頃から父親に会っていない。母親からは「父親は私たちを捨てて、新しい家庭を作った」と聞かされて育ったらしい。


 幼い頃から絵の才能だけは際立っていたものの、本格的に習い続けられるような余裕はなかった。


 高校生になると、放課後や休日に複数のアルバイトをしていた。


 援助しようとしても、最初の頃は絶対に受け取ろうとしなかった。それが変わったのは、彼の母親が重い心臓病で長期入院した時だった。


 治療や術後の療養に加え、病院への交通費や、働けない期間の生活費まで重なり、家計は限界に近づいていた。


 自分名義の貯金から三百万円を用意し、父にも事情を話したうえで悠真に渡した。


 少なくとも今の生活だけは心配しなくて済むように、と。


 それでも、彼の母親は手術後の合併症で亡くなった。


 あの日の病院の廊下を、今でも覚えている。悠真は椅子に座ったまま、長い間顔を上げなかった。


 夜が明けるまで隣にいた。


「悠真には私がいるよ」


 かなり時間が経ってから、彼がようやく顔を上げた。


「夏希。俺と付き合ってくれない?」


 その時は嬉しくて、それ以外何も見えていなかった。


 彼の目に、想像していたような喜びがなかったことにも気づかなかった。


 その後、悠真は才能と努力で青嵐美術大学の油画専攻に合格した。


 学費や画材費、生活が特に苦しい時期の費用は、ほとんど私が負担した。大学に入ってからはアトリエを用意し、N&Y ART SPACEを立ち上げ、ギャラリーとのつながりを作り、最終的にはコレクター市場へ入るきっかけになる大規模な個展まで実現した。


 私にとって、それは金ではなかった。


 十年間の気持ちそのものだった。


 悠真は、たぶん一度もそう思っていなかった。



6



 翌朝、悠真は知花と一緒にN&Y ART SPACEへ行くつもりらしかった。


 下へ降りた時、ちょうど彼が知花のために助手席のドアを開け、シートベルトまで締めてやっているところだった。


 あまりにも自然な動きだった。


 何も言わず、別の車で先に出た。


 アートスペースに着くと、悠真には知花を案内してもらい、二人が離れたあとで佐伯を事務室へ呼んだ。


「これまで神谷悠真に関わった契約、分配、作品の販売、代理業務、場所の使用条件まで全部整理して。今まで曖昧にしていたものも、正式に契約が必要なら書類を作って」


 佐伯はすぐに異変を察した。


「高城さん、神谷さんと何かあったんですか?」


「別れるつもり。だから先に全部きれいにする。今後、神谷さんとの仕事上のやり取りは全部N&Y ART SPACEを窓口にして。私個人では対応しないから」


 彼を見た。


「この事業が片づかないと、あなたの仕事も増えたままだから。急いで」


 佐伯は資料を抱えて、慌ただしく部屋を出ていった。


 またコメントが流れ始める。


【悪役が主人公を潰しにかかってる】


【待って、今別れるって言った?】


【シナリオがおかしくなってない?】


 見るのも面倒になり、椅子に深く座って目を閉じた。


 ほどなくして、スマートフォンが震えた。


 佐伯から動画が届いている。


 画面の中で、悠真が知花の手を握っていた。


「知花、もう少しだけ待ってて。本当なら俺のものだったはずのものを取り戻したら、その時はお前のところへ戻る」


 知花は俯いたまま、手を振りほどかなかった。


 次の瞬間、二人はキスをした。


 画面を見たまま、奥歯を強く噛み締めた。


 もし先に「原作」を知らなかったら、きっと今頃は本当に取り乱していただろう。


 コメントが一気に増えた。


【佐伯、なんでこんなの撮ってるの?】


【いや、仕事中に普通にキスしてる二人も相当だけど】


【初めて悪役側がかわいそうに見えてきた】


【このアシスタント、夏希のこと好きなんじゃない?】


 続いて佐伯から音声メッセージが届いたが、再生しなかった。するとすぐ、本人から電話がかかってくる。


「高城さん、さっきの動画を見てください。神谷さんが――」


 思わず聞いた。


「佐伯、もしかして私のこと好きなの?」


 電話の向こうが不自然なほど静かになった。


 そのまま通話を切った。


 今はどうでもいい。


 それより気になったのは、悠真の言葉だった。


 ――本当なら俺のものだったはずのもの。


 何を指しているのか分からない。ただ、胸の奥に嫌な予感だけが膨らんでいった。


 すぐ父へ電話した。


「お父さん、まさか外に子どもがいたりしないよね?」


 父は本気で驚いたらしい。


「急に何を言い出すんだ。お母さんが亡くなってから再婚すら考えてないのに、そんな子がいるわけないだろう。私の子どもは夏希だけだよ」


 最後の方で、父が何度か咳き込んだ。


「風邪?」


「少し体調を崩しただけだ」


 信じられなかった。


 原作で高城家に起きることを思い出し、その日のうちに実家へ向かった。



7



 父はやはり体調を崩していた。


 しかも、心配をかけないよう隠していたらしい。


 本当はN&Y ART SPACEと悠真の件を片づけたあと、イギリスで経営を学び直すつもりだった。けれど痩せた父を目の前にして、初めて高城ホールディングスをいつまでも一人に背負わせてはいけないと思った。


 翌日から、父の補佐という形で経営企画室に顔を出すようになった。


 まずはグループ各社の資料に目を通し、これまで避けてきた家業を一から覚えるところから始めた。


 急ぎの案件を処理したあと、N&Y ART SPACEへ戻ると、佐伯はすでに契約書類を全部まとめていた。


「高城さん、必要な書類は一通り揃いました」


 今日はなぜか、こちらと目を合わせようとしない。


 けれど今は、彼が私を好きかどうかなどどうでもよかった。


「今ある案件を全部引き継いで、未回収の代金は早めに精算して。悠真に支払う分は契約どおり処理して、そのあとアートスペースの買い手を探して」


 佐伯が頷いた。


 顔を上げると、知花が事務室の入り口に立っていた。


 今の会話を聞いていたらしい。


「高城さん、アートスペースを売るって……もしかして、悠真とのことが原因なんですか? もし私のせいなら、すぐここを出ます。二人の邪魔をするつもりなんてありません」


 なぜか無性に苛立った。


「今はあなたと話す気分じゃないから、外に出てくれる?」


 その時、悠真の声がした。


「夏希、知花に当たるなよ」


 彼は早足でこちらへ来ると、知花をかばうように前へ立った。


「ここに来てほしいって頼んだのは俺だ。嫌だったなら昨日断ればよかっただろ。いったん受け入れておいて、今さら追い出すのはおかしい」


 悠真を見つめた。


 いつも淡々としているこの人にも、こんなにはっきり感情が出ることがあるのだ。


 ただ、それを向けられる相手が私ではなかっただけ。


 ここ数日でいろいろありすぎて、もう限界だった。


「二人とも、今日は帰って」


 すると悠真が私の手首をつかんだ。


「その前に、知花に謝って」


 張りつめていたものが切れた。


 反対の手で、悠真の頬を叩いた。


「悠真、そういう茶番はもういいから。好きな人がいるなら、その人と一緒にいればいい。N&Y ART SPACEは売る。私たちも別れる。今日からあなたの人生は私と関係ない」


 悠真の顔から血の気が引いた。


「夏希、何を言ってるんだ?」


「別れるって言ってるの」


 彼はようやく、その言葉の意味を理解したようだった。


「俺と別れるの?」


「そう」


 悠真は長いこと私を見つめていた。


「どうして急にそんなことになるんだよ。俺は知花に謝ってほしいって言っただけだろ」


 笑ってしまった。


「別れるのに、あなたが納得できる理由まで必要?」


 彼の自尊心を傷つけるなら、どんな言葉が一番効くのか分かっていた。


 だから、わざとひどい言い方をした。


「今まで、才能があって見た目もいい男に金を使って遊んでたと思えばいいよ。もう飽きたから、終わり。それだけ」


 悠真の唇まで青ざめていく。


 知花も佐伯も言葉を失っていた。


 かなり時間が経ってから、悠真が低い声で言った。


「夏希。今の言葉、忘れるなよ。あとで後悔して戻ってきても、今度は知らないからな」


 そう言って、知花を連れて出ていこうとする。


 入り口のところで呼び止めた。


「待って」


 悠真が足を止めた。


 振り返った目に、一瞬だけ何かを期待する光が戻った。


 手を差し出す。


「車の鍵、返して」


 悠真の手が止まった。


 最後には、私名義の車の鍵を佐伯へ渡した。


 二人がいなくなったあと、佐伯を見る。


「まだいたの?」


 佐伯は真顔だった。


「本当に揉めるかもしれないと思ったので。一応、何かあったら止めようかと」


 二秒ほど見つめた。


「私を好きになっても何もないよ」


 佐伯の顔色が変わった。


「違います! 高城さん、本当に誤解です。尊敬はしていますけど、あくまで仕事上の話です」


「じゃあ電話で黙ったのは何?」


「いきなり聞かれて驚いただけです」


 そう言うと、彼は資料を抱えたまま逃げるように去っていった。


 一週間後、悠真から一度電話があった。


 出なかった。


 LINEも届いたが、開かずに削除した。そのまま、すべての連絡先をブロックした。



8



 N&Y ART SPACEの最終的な引き継ぎの日、悠真が現れた。


 一週間ぶりに会った彼は、目に見えてやつれていた。


 帰ろうとすると、後ろから呼び止められた。


「夏希、ずっと俺のことが好きだったんじゃないのか? どうして急に、そんなに冷たくなれるんだ」


 聞いた瞬間、笑いたくなった。


 私は本当に、十年間この人が好きだった。少し前までは、結婚して家庭を作る未来まで本気で想像していた。


 けれど今になっても、悠真が口にするのは「俺のことが好きだったんじゃないのか」だけだ。


 「俺は夏希が好きだから、行かないでほしい」ではない。


 振り返った。


「じゃあ悠真は? 本当に私のことを好きだったことがある? 好きな人がほかにいたのに、七年間私のそばにいたのは何のため?」


 悠真が俯いた。


「夏希が思ってるような話じゃない」


 思わず乾いた笑いがこぼれた。


「『最愛』は全部見た。作品の所有権や契約条件も確認して、売却できるものはもう手続きを進めてる」


 悠真が勢いよく顔を上げた。


 数秒して、ようやく何かに気づいた。


「だからあの日、急に書類を全部そろえさせたのか」


 答えなかった。


 しばらく黙ったあと、彼が聞いた。


「アトリエだけ、売るのを待ってくれないか?」


「いいよ。六千万円」


 悠真の表情が険しくなる。


「それ、二年前に買った時の値段だろ」


「そう。今は周辺の地価が上がってるから、むしろもっと高い。残したいなら市場価格で買って」


 ついに悠真の感情が爆発した。


「今の俺にそんな金が出せないことくらい分かってるだろ。そこまで言う必要あるのか? 夏希は最初から俺を投資対象として見てたんじゃないのか。金とか値段とか、そんなことしか考えられないのかよ。前は少なくとも、こんなふうに口に出さなかった。今の夏希は本当に、損得しか見てない人間に見える」


 彼を見た。


 かつて十年間も憧れ続けた男が、急にひどく小さく見えた。


「悠真。お母さんが入院してた時に私が渡した三百万円、何のお金だと思ってた? 私は『昔から貯めていたお金』だって言ったよね。実際には、私名義で運用している資産の一か月分の利益にも満たない額だった。アトリエに置いてある、私があげた作品もそう。知り合いから安く譲ってもらったって言ってたけど、ほとんどは私がオークションやギャラリーで買ったもの」


「今回の個展会場だって、高城グループの文化施設。親戚から借りただけだから無料だって言ったけど、外部に貸すなら一日三十万円以上。一週間なら二百万円を超える。作品輸送、保険、設営、PR、広告にも五百万円以上使った。コレクターを探したのも、取引先に話を通したのも、メディア対応をしたのも私。それでも悠真には、私はただの金のことしか考えていない女に見えてたんだね」


 悠真はすぐ否定した。


「俺はそんなこと言ってない」


 その顔を見つめた。


「私が高城ホールディングスの創業家の娘だって、自分から悠真に話したことは一度もなかった。負い目を感じると思ったから。金で押さえつけられてると思われたくなかったから、何をしてもできるだけ大したことじゃないように話してきた。でも、悠真は最初から知ってたんでしょう?」


 彼が黙る。


 それで十分だった。


「最初から、私が誰なのか知って近づいたんだ」


 悠真の顔が強張った。


「『最愛』は昔描いたものだ。どうすればいいか分からなくて、しまっていただけなんだ。夏希、俺はもう本気で、お前とちゃんとやっていこうと思ってた」


 途中で遮った。


「でも私は、もう悠真とはやっていきたくない」


 昔は、好きな人の自尊心を守るのも愛情だと思っていた。


 だから使った金額も、代わりにやったことも、自分から話さなかった。けれど黙っていれば相手が大切にしてくれるとは限らない。


 ただ「やってもらって当然」だと思われるだけのこともある。


 アートスペースを出たあと、涙は流れた。


 それでも、戻りたいとは思わなかった。


 十五歳から二十五歳まで、青春のほとんどを神谷悠真に捧げた自分を見送っているような気がした。



9



 帰宅途中、神谷悠真に関する投稿がXで一気に拡散し始めた。


 見出しはかなり露骨だった。


――人気若手画家に二股疑惑。資産家の恋人から長年支援を受けながら、初恋相手と勤務先でキス。


 投稿の一番上には、佐伯が撮影したあの動画が載っていた。悠真が知花の手を握り、そのままキスする部分だけが切り取られている。


 さらに『最愛』シリーズの一枚まで添えられていた。


 あっという間に、私の身元まで特定された。


【高城ホールディングス後継者候補】


【高城ジュエリー創業家の一人娘】


【神谷悠真の長年の恋人】


 関連する言葉が次々とトレンドに入った。


 ネット系の芸能メディアや週刊誌系サイトもすぐに記事を出した。


 悠真は「資産家の恋人を利用して売れた画家」と叩かれ、知花は不倫でもないのに「略奪女」のように扱われた。過去の経歴や作品まで掘り返され始める。


 一方、物語の中では悪役だった私は、いつの間にかネット上で完全な被害者扱いになっていた。


 こんなことをする可能性があるのは、佐伯しか思いつかなかった。


 家に戻ってから、何をしたのか聞こうと何度か電話した。


 けれど佐伯は出なかった。


 私のためだったとしても、勝手に動画を外へ流したことまで許せるわけではない。


 翌日、高城ホールディングスの広報が短いコメントを出した。


 確認したのは一つだけ。


 私と神谷悠真は、すでに交際を終了しているということ。


 それ以降、悠真は完全に私の生活から消えた。


 そして不思議なことに、あれほど視界を埋めていた「読者コメント」も二度と現れなくなった。



10



 父の補佐として経営企画室に顔を出すようになって、初めて父がこれまでどれほどのものを一人で背負っていたのか知った。


 朝は海外拠点との電話会議から始まり、午前中はグループ内の会議。午後はジュエリー、商業不動産、文化投資事業の案件を確認し、夜になってから大量の資料に目を通す。


 気づけば深夜で、その日口にしたものがコーヒーだけだったことも珍しくなかった。


 何度も考えた。


 もっと早く会社のことを知ろうとしていれば、父はここまで無理をしなくて済んだのだろうか。


 この十年、自分のことにもっと目を向けていれば、今ほど必死にならずに済んだのだろうか。


 けれど、もう答えは出ない。


 二十五歳の誕生日を迎える頃には、父の体調もかなり安定し、私自身も少しずつ仕事に慣れていた。


 ある日の会議後、秘書が小さな紙袋を持ってきた。


「受付に届いていたそうです。送り主の名前はありませんでした」


 中には、ダイヤモンドのリングが入っていた。


 七年間、悠真からきちんとしたアクセサリーをもらった記憶はほとんどない。


 たまに冗談半分で「これ買って」と小さな物を頼んでも、「夏希は何でも持ってるだろ」「どうしてそこまで物が欲しいんだ」と言われた。


 本来の物語では、彼が知花には頻繁にプレゼントをしていると知った私が取り乱し、それが二人の関係を決定的に悪化させるらしい。


 けれど、物そのものが欲しかったわけではない。


 私のために、自分から何かをしようとしてくれることが欲しかっただけだ。


 誰かに愛されることばかり考えて、自分を大事にすることを忘れていた。


 気づくまでに、十年かかった。


 これからは、誰か一人を中心にして自分の人生を回すつもりはない。



11



 マスコミを避けるため、今年の誕生日は大きなパーティーを開かなかった。


 父と、昔から家族ぐるみで付き合いのある人たちだけで、簡単な夕食をする予定だった。


 夕方、インターホンが鳴った。


 玄関を開けると、最初に目に入ったのは大きな花束だった。


 その後ろから、見覚えのある男が顔を出す。


「誕生日おめでとう」


 数秒見つめてから、ようやく分かった。


「怜? いつ帰ってきたの?」


 一ノ瀬怜は、子どもの頃からの友人だ。


 彼の母親と私の母は若い頃から親友で、昔は二つの家も同じ住宅街にあった。


 私が悠真と付き合い始めたあと、怜はイギリスへ留学し、自然と連絡も減っていった。


 私より数日早く生まれただけなのに、子どもの頃は細くて背も低く、いつも後ろをついてきた。


 それが数年ぶりに会うと、私よりずっと背が高くなっている。


 濃い色のスーツ姿からは、近所の犬に追いかけられて泣きながら私の後ろへ隠れていた男の子の面影など、ほとんど残っていなかった。


 思わず抱きついた。


「一瞬、誰か分からなかった」


 怜の耳が分かりやすく赤くなる。


「夏希は全然変わらないな」


 夕食が終わったあと、二人で庭を歩いた。


 怜が急に不満そうな顔をする。


「夏希、本当に薄情だよな。俺がイギリスにいた何年かで、どれだけ髪が抜けたと思ってる? それに、もう冷たいサンドイッチを見るだけで逃げたくなる」


 思わず笑うと、さらに続けた。


「ちゃんと埋め合わせしてもらうからな。じゃないと今すぐ中に戻って、夏希のお父さんに昔のこと全部話す。誰が泣きながら『早くイギリスへ行って』って頼んできたのか」


 慌てて彼の口を塞いだ。


 ガラス越しに、家の中の大人たちが笑いながらこちらを見ている。


 特に父は、病み上がりとは思えないほど楽しそうだった。


 怜を睨む。


「今は私を脅すようになったんだ? 昔、近所の犬に追いかけられて、鼻水まで垂らしながら私の後ろで泣いてたのは誰だったっけ?」


 怜の顔が引きつった。


「何年前の話だよ。どうしてまだ覚えてるんだ」


 顔を見合わせ、同時に笑った。


 昔と何も変わらない笑い方だった。



12



 夕食が終わると、父がどうしても怜に私を送らせると言い出した。


 車なら数分しかかからない距離なのに、何を送る必要があるのか分からない。断ろうとしたが、怜が「ちょうど話したいこともある」と言ったので、そのまま車に乗った。


 助手席に座ると、怜が突然こちらへ身を寄せた。


 淡いウッディ系の香りがする。昔、「怜にはこういう香りが似合いそう」と言ったのと同じ系統だった。


 次の瞬間、カチッという音がした。


 ただシートベルトを締めてくれただけだった。


 車の中で、怜は結局何も話さなかった。


 自宅の前まで来た時、見覚えのある人影が立っているのが見えた。


 悠真だった。


 以前よりさらに痩せた悠真の横には、大きなキャンバスが立てかけられていた。


 描かれていたのは、ウェディングドレスを着た私だった。


 悠真は覆いを外し、わずかに震える手で絵を見せた。


「夏希。この絵は三か月前から描こうとしてた。個展があって、なかなか手をつけられなかったけど」


 小さなリングケースを取り出す。


「指輪も用意した。俺が気づくのが遅すぎたのは分かってる。でも全部話す。隠してたことも全部。俺と結婚してほしい」


 その時、午後にもらったリングを思い出した。


 あれは悠真からではなかったのだ。


 バッグからリングを出して指にはめ直し、後ろにいた怜の手を取った。


「遅いよ、悠真。リングもある。これからそばにいたいと思う人もいる。何があっても悠真を愛してた私は、もういない」


 彼を見た。


「帰って」


 悠真の顔から血の気が消えた。


 視線が怜へ移る。


「こいつなのか?」


 答えなかった。


 すると悠真が、低く笑った。


「夏希。一ノ瀬怜が誰なのか、本当に知ってるのか?」


 眉を寄せる。


「どういう意味?」


 悠真は一言ずつ押し出すように言った。


「俺はずっと、こいつが母親の違う弟だと思ってた」


 頭が追いつかなかった。


 悠真は続ける。


「こいつは俺のことをかなり前から知ってた。ネットに出たあの記事だって、こいつが裏で動かした。俺のところに人をよこして警告までしてきた。夏希、本人に聞いてみろよ。本当にお前が好きで戻ってきたのか、それとも俺に勝つために近づいてるだけなのか」


 怜を見る。


 怜は慌てなかった。


 しばらく黙ってから車へ戻り、一つの封筒を持ってきた。


「まずこれを見ろよ」


 悠真が受け取らないので、怜は車のボンネットに置いた。


「この前、父と一緒に美紀さんの親族を訪ねた。遺品の中から、お前を幼い頃に引き取った時の書類と、美紀さん本人が残した手紙が見つかった」


 悠真の表情が固まる。


「美紀さんはお前の実母じゃない。手紙には、父親の話も全部自分が作ったものだったって書いてある。昔、俺の父親と揉めたことがあって、その恨みをお前にまで背負わせたらしい」


 悠真の手がゆっくり下がった。


 これが、怜が今夜話したいと言っていたことだったのだろう。


 悠真はその封筒を見つめたまま動かない。


 怜が私の前に立った。


「それから、さっきの質問にも答える。俺が夏希を好きになった時、神谷悠真なんて人間がいることすら知らなかった」


 悠真の口元には、さっき揉めた時についた小さな傷があった。


 怜は冷たい目で彼を見る。


「だから、もう夏希に近づくな」


 悠真はしばらく黙ったあと、もう一度こちらを見る。


「夏希。最初に近づいた時、目的がなかったとは言わない。でも途中から違った。今は本当に、お前とやり直したい」


 手をつかもうとする。


 すぐ怜が間に入った。


 二人が押し合った次の瞬間、怜の拳が悠真の顔に当たった。


「怜!」


 止める暇もなかった。


 怜は険しい顔をしている。


「触るな」


 悠真の口元に血がにじんでいた。


 それを見ても、もう愛情も憎しみも湧いてこない。


 ただ、疲れていた。


「悠真、怜が手を出したのは悪い。そこは必要ならきちんと責任を取らせる。病院に行くならタクシーを呼ぶよ」


 悠真は首を振った。


「いい」


 掠れた声で、もう一度聞く。


「夏希。本当に、もう一度だけでも駄目なのか?」


 どう断れば余計に傷つけずに済むのか考えていると、横で怜が小さく息を吸った。


「夏希、手が痛い」


 反射的に彼の手を取る。


 拳のところが少し赤くなっているだけだった。


 すぐに意図が分かり、睨みつける。


 怜は何も知らない顔をしていた。


 細い雨が降り始めた。


 悠真は長いこと私たちを見つめたあと、ようやく背を向けた。


 その姿が街角へ消えていくのを見送りながら、十五歳から二十五歳までの自分まで、彼と一緒に遠ざかっていくような気がした。



13



 雨脚はすぐに強くなった。


 私と怜は慌てて家の中へ戻り、濡れた彼には客室のシャワーを使ってもらった。寝室で着替え、リビングに戻った時にも、窓の外ではまだ激しい雨が降っていた。


 少しして、怜が来客用のバスローブ姿で現れた。


 顔を上げると、彼は私の手を見ていた。


「気に入った?」


 心臓が一瞬跳ねる。


「何が?」


 怜がリングを指す。


「指輪」


 そこでやっと分かった。


「これ、怜だったの?」


「ほかに誰だと思ったんだよ」


 指輪を見下ろす。


「誕生日にダイヤのリングなんて、普通贈る?」


「普通の物を贈る気はなかったから」


 外そうとしたところで、怜が急に名前を呼んだ。


「夏希」


 珍しく真剣な顔だった。


「さっき外で言ったこと、悠真への当てつけじゃない」


 手を止める。


 怜がまっすぐこちらを見た。


「ずっと好きだった。子どもの頃から」


 何を言えばいいのか分からなかった。


 怜は一度息を整えた。


「昔、夏希のおじいさんが元気だった頃、うちの家族とよく冗談を言ってただろ。『こんなに仲がいいなら、この二人が大きくなって結婚すればいい』って。俺、子どものくせに本気にしてた。指輪までこっそり買ったことがある」


 そこで苦笑する。


「なのに少しして、夏希から電話がかかってきた」


 昔の記憶が一気に戻ってくる。


「怜……」


「最後まで言わせて」


 ソファへ深く座り直し、少しだけ困ったように笑った。


「何年もまともに連絡してなかったのに、急に夏希から電話が来たんだ。嬉しくて、その日は本当に眠れなかった。でも最初に言われたのが、『お願いだから早くイギリスへ行って』だった」


「家族がまた二人をくっつけようとするから困るって。神谷悠真と離れたくないって」


 何も言えなくなった。


 当時の私は、本当にとんでもないことをしていた。


「怜、前にイギリスへ留学したいって言ってたから……私も、嫌じゃないんだと思って」


 怜が呆れたように見る。


「馬鹿。あの頃、イギリスへ行きたいって言ってたのは、夏希も行くと思ってたからだよ」


 余計に申し訳なくなった。


「ごめん」


 父も両家の大人たちも昔から怜を気に入っていて、「二人が本当に結婚したら安心だ」と冗談半分によく話していた。


 当時の私は悠真しか見えておらず、怜がもともとイギリス留学を考えていると知って、予定を早めてほしいと頼んだ。


 ほどなくして彼は本当にイギリスへ渡り、それ以降、家族も私たちを無理に結びつけようとはしなくなった。


 怜が何気なく言った。


「夏希が悠真と別れたって聞いて、すぐイギリスから帰る便を取った」


 反射的に聞く。


「誰から聞いたの?」


 怜の表情が固まった。


 すぐに気づく。


「まだ何か隠してる?」


 怜が姿勢を正した。


「夏希、ごめん」


「言って」


「佐伯とは大学の頃からの知り合いなんだ。日本に戻って仕事を探してた時、N&Y ART SPACEを紹介したのも俺。でも夏希のことを報告させてたわけじゃない」


 黙って見た。


 怜が続ける。


「今回、悠真とのことで揉めてるのを見て、佐伯の方から俺に連絡してきた。あの動画も、たまたま見かけて自分で撮ったらしい」


「ネットの記事については、俺が出させたんじゃない。佐伯が夏希の扱われ方に腹を立てて、勢いでいくつかのアカウントへ情報を送った。あとから本人も、やりすぎたと思ったみたいで、しばらく俺にも夏希にも連絡を返してなかった」


 返事はしなかった。


 怜の顔が少しずつ不安そうになる。


「夏希が幸せなら、俺は一生戻ってこなくてもいいと思ってた」


 しばらく黙ってから、わざと険しい顔を作る。


「ほかには? 今まとめて全部言って」


 怜は真剣に考え込んだ。


「今のところはない。あとで思い出したら、すぐ申告する」


 我慢できず笑ってしまった。


 外では堂々としている一ノ瀬家の後継者が、今は子どもの頃に悪さをして私の機嫌をうかがっていた時と同じ顔をしている。


 笑ったのを見て、怜もようやく肩の力を抜いた。


 ずっと私の知らないところで気にかけてくれていた人がいた。


 過去の私には、それを見る余裕がなかっただけだ。


 神谷悠真しか見えていなかった。


 私はずっと、自分を誰かの恋愛物語に出てくる悪役だと思っていた。


 でも、これは私の人生だ。


 誰が主人公かくらい、自分で決めていい。


 指輪をもう一度きちんとはめ直した。


 そして、怜にキスをした。


 彼は目を見開いたが、数秒後には腕を回して抱き寄せてきた。


 窓の外では雨が降り続いている。


 部屋には、互いの呼吸だけが残った。


 その夜、私たちは初めて、何年も言えなかった気持ちをきちんと話した。


 その先のことも、後悔していない。


 翌朝、目を覚ますと、なぜか怜の方が緊張していた。


「怜、イギリスにいた何年か、本当に何してたの?」


 怜は露骨に目を逸らした。


「勉強」


 しばらく顔を見ているうちに、何となく分かった。


「もしかして……今まで一度も誰かと付き合ったことないの?」


 怜は答えなかった。


 かなり時間が経ってから、不満そうに呟いた。


「夏希、責任取れよ」


 とうとう声を出して笑った。



14



 あとになって何度か考えた。


 もし怜がいなかったら、かなり長い間、もう誰とも付き合わなかったかもしれない。


 一人で生きていく人生も、それはそれで悪くないと思う。


 ただ一つだけ、もう迷わない。


 私は二度と、誰かの物語の脇役にはならない。


 あの奇妙な「読者コメント」は、それ以来一度も現れなかった。


 選択を変えたことで、この物語も終わったのだと思っていた。


 けれど、私と怜が家族にどう説明しようか考え始めた頃、一本の電話がかかってきた。


 神谷悠真が、高城ホールディングス本社ビルの屋上へ上がっていた。


 安全柵の外へ出ているところを警備員が発見し、すぐに110番通報したという。


 私と怜が駆けつけた時、警察はまだ到着しておらず、屋上手前では警備員が悠真を刺激しないよう距離を取っていた。


 悠真は安全柵の向こう側に立ち、何を言われても反応しなかった。


 名前を呼ぶと、一度だけこちらを見た。


 その直後、さらに外へ身体を向けた。


 怜が走った。


 後ろから悠真の身体を抱き止め、二人はそのまま屋上の床へ激しく倒れ込んだ。


 悠真は落ちなかった。


 その代わり、怜は衝撃で右腕を骨折した。


 まもなく警察と救急隊が到着した。


 悠真はその後、精神科の医療機関で治療を受けることになった。


 病院で、固定された怜の腕を見ながら泣いていた。


 もし手が離れていたら。


 もし二人とも、本当にあそこから落ちていたら。


 想像することすらできなかった。


 ベッドに横になっている怜の方が、泣いている私を見て困っていた。


 無事な左手で、不器用に涙を拭ってくれる。


「もう泣くなよ。腕より、夏希が泣いてる方がつらい」


 睨んだ。


「私より数日早く生まれただけで、お兄ちゃんぶらないでよ」


 怜がすぐ言い返した。


「数日でも俺の方が年上だろ」


 鼻をすすった。


「近所の犬に追いかけられて、私の後ろで泣いてたくせに」


 怜の顔が一気に曇った。


「なんでまたその話するんだよ。もう子どもの頃の黒歴史は忘れてくれない? 今のかっこいいところだけ覚えててよ」


 ようやく笑えた。


 怜が左手で髪に触れる。


「そうやって笑ってればいい」


 声が少しだけ低くなった。


「子どもの頃は夏希が俺を守ってくれた。だから、これからは俺が守る。悠真を助けたのも同じ。あいつのためじゃない。もし目の前で死なれたら、夏希はきっと一生、自分のせいじゃないかって引きずると思ったから」


 また涙が出そうになり、怜を抱きしめた。


「怜」


「ん?」


 胸元に顔を寄せたまま言った。


「私の物語なら、怜が一番いい主人公だよ」


 もう私は、どこかに存在する「原作」に、誰が主人公なのか決めてもらう必要はなかった。


神谷悠真 番外編


 高城夏希と別れてから、神谷悠真は一か月近く、まともに外へ出なかった。


 夏希と暮らしていた都心の広い家を離れ、月影町にある古い木造住宅へ戻った。


 幼い頃に暮らしていた家だった。


 五歳の頃、神谷美紀は一枚の男性の写真を見せたことがある。


 この人がお前の父親だ、と彼女は言った。


 そして、その男は自分たち親子を捨て、一ノ瀬家の女性と結婚して別の世界へ行ったのだと教え込んだ。


 経済誌やニュースでは、時折一ノ瀬家の名前を見かけた。


 悠真が一ノ瀬怜という存在を知ったのも、その頃だった。


 やがて悠真は、密かに怜のことを調べ始める。


 その過程で、怜のそばによくいる一人の少女を見つけた。


 それが高城夏希だった。


 白石知花とは、幼い頃からの知り合いだった。


 家が苦しかった時期、知花の両親には何度も助けてもらった。


 美紀も亡くなる前、「余裕ができたら知花のことを気にかけてあげて」と悠真に頼んでいた。


 だから長い間、知花は悠真にとって最も信用できる存在だった。


 けれど、夏希との出会いは偶然ではない。


 十五歳の悠真は、青葉美術予備校が高校生向けの特別講習を開き、そこへ夏希が参加すると知った。


 本来なら参加枠に入れるほどの実績はなかったが、地方の絵画コンクールでの受賞歴を一部誇張して応募し、講習へ潜り込んだ。


 絵の才能があったことだけは本当だった。


 けれど当時の彼に、周囲が思っていたほど多くの実績はなかった。


 夏希へ近づいた一番最初の理由は、ひどく幼稚だった。


 一ノ瀬怜が裕福な家庭も、教育も、将来も与えられているのなら、自分だって能力さえあれば全部手に入れられる。


 それを証明したかった。


 けれど実際に夏希と知り合うと、計画どおりには進まなくなった。


 自分の絵を心から褒め、才能を信じてくれる夏希の存在は、悠真の自尊心を満たした。


 彼女は何時間でも絵の話を聞き、一緒に安い画材店へ行き、周囲が悠真を評価していなかった時代から変わらず信じ続けた。


 美紀が亡くなったあと、一ノ瀬家への憎しみはますます強くなった。


 もっと高い場所へ上がりさえすれば、自分が本来受け取るはずだったものを全部取り返せる。


 悠真はそう信じるようになった。


 夏希の資金を使った。


 人脈を使った。


 アトリエ、学費、アートスペース、コレクター、個展。


 彼女に頼りながら、そのこと自体を何より嫌悪していた。


 やがてその劣等感は、別の形の傲慢さへ変わった。


 夏希が自分を助けるのは、彼女が何でも金で解決する人間だからだ。


 二人の間にあるのは愛情ではなく、互いに利用し合う関係なのだ。


 そう思えば、少しだけ楽だった。


 知花が再び現れた時、悠真は「本当に自分が大切にしていたもの」を取り戻したような気になった。


 けれど、あとになって分かった。


 取り戻したかったのは知花ではない。


 野心や劣等感に飲み込まれる前の、自分自身だった。


 スキャンダルが広まったあと、悠真の仕事は急激に減った。


 進んでいたギャラリーとの企画は中止になり、コレクター側も距離を置いた。


 生活のためにあちこちへ作品を持ち込んだが、断られ続けた。


 中には、有名作家の絵を真似すれば買うと言う者もいた。


 古い作品に見せかけた贋作制作をほのめかす者まで現れた。


 そこで初めて、悠真は理解した。


 夏希は、これまでどれほど多くのものから自分を守っていたのか。


 彼女は悠真を資本の道具にしたのではない。


 むしろ彼が好きな絵だけを描いていられるよう、その周りの金や契約や人間関係を全部引き受けていた。


 かつて悠真が最も嫌っていたのは、夏希が口にする金額、市場、契約という言葉だった。


 けれど失って初めて分かった。


 彼が「金の匂いしかしない」と見下していたものこそ、自分の理想を守るための土台だった。


 知花と距離を置いたあと、悠真はもう一度絵筆を握った。


 長い時間をかけ、ようやくウェディングドレス姿の夏希を描き上げた。


 二十五歳の誕生日には、まだ間に合うと思った。


 今度こそ全部話そう。


 初めて自分から頭を下げ、結婚してほしいと言おう。


 それでも心のどこかには、まだ馬鹿げた自信が残っていた。


 夏希は十年間、自分を愛していたのだから、きちんと謝れば最後には許してくれるはずだ、と。


 その考えが完全に間違っていたと知ったのは、彼女の誕生日だった。


 夏希の指には、別の男が贈ったリングがあった。


 そして彼女は、一ノ瀬怜の手を取った。


 そこで初めて、すべてが手遅れになったことを思い知った。


 憎む相手を間違えた。


 利用してはいけない人を利用した。


 そして、本当に自分を愛してくれた人を、自分の手で失った。


(完)



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