ハレー彗星騒動──帝国陸軍の場合
※武 頼庵(藤谷 K介)様 主催「すれ違い企画」参加作品です。
明治43年(1910年)夏。
帝国陸軍主計課の宮田中尉は、部下の大川が持ってきた書類を見て、思わず眉をひそめた。
「おい、大川、これはどういうことだ? 何でこんなものが──」
「は! それは、先ほど廊下で少将閣下直々に手渡されたものであります! 極秘命令なので、至急中尉殿に手渡せと」
「極秘命令? それにしても──」
いくら極秘とはいえ、ふつう命令書は何人もの手を経由してから届くものだ。将官から現場に直接の命が下るなど、聞いたこともない。
おまけにその内容が、どうにも珍妙なものなのだ。
「大川。貴様、この書類の内容は見たのか?」
「いえ! 断じて見てはおりません!」
「そうか。──いや、ちょっと一緒に見てくれ。正直、俺には判断がつきかねるので貴様の意見も聞いてみたい」
「は! ご命令とあらば!」
宮田は、机の前で直立不動の大川から見やすいように、命令書の向きを変えた。
その命令書には、『㊙』の朱印の下に太字で『陸軍自転車部隊新設準備ノ件』と題されている。
それを見て、大川もまた怪訝そうな表情を浮かべた。
「『自転車部隊』でありますか?」
「まあ、軍馬の運用には経費がかさむからな。伝令等の任務に関しては、騎兵より自転車兵に切り替えていく、というのはわからんでもない。
だが、その下を見てくれ。この調達内容、おかしくないか?」
──宮田たち主計課の仕事は、武器弾薬や資材、軍馬や食糧などの必要量を見積もって調達することだ。なので、部隊新設のための物資を調達するのは特におかしな話ではない。
だが、問題なのはその内容なのだ。
「──え? この『自転車20台』の納品先、どうして『陸軍省経理部本局』なんでしょうか?」
「ふつうならどこかの駐屯地に納品するよな? それと、ここだ」
宮田が指差した箇所を見て、大川がさらに目を丸くする。
「何ですかこれ!? 『自転車タイヤ用空気チューブ 予備モ含メテ300本 大至急』って────あっ!」
「どうした、大川。何か気づいたことがあるのか?」
「あ、いや、それはその──特に根拠のない、ただの思い付きのようなものでして……」
「いいから言ってみろ!」
宮田の剣幕に呑まれたように、大川はおずおずと答えた。
「その、これってもしかすると、ハレー彗星絡みの案件ではないかと思うのですが……」
「何だと?」
ハレー彗星──。
およそ75年周期で太陽に近づく彗星で、古くは紀元前からその目撃談がいくつも残されている。
そのハレー彗星が今年の7月下旬に地球と至近距離ですれ違うということで、最近は新聞などでもたびたび取り上げられていることは宮田も知っている。
「で、そのハレー彗星と自転車のチューブと、どういった関係があるんだ?」
「中尉殿、ご存じないのですか!? その彗星の尾に毒ガスが含まれていて、地球上の全ての生物が窒息死するのではないかと言われているんですよ!」
宮田もその記事は読んでいる。外国の学者がハレー彗星の発する光を分析したところ、シアン(青酸)化合物が含有されていることがわかったそうだ。
そのため、地球とハレー彗星の尾がすれ違った時に、すべての生物が青酸ガスで死ぬとか、青酸ガスが空気と反応して空気がなくなるという説もあるという。
「いや、それはあくまでも『そういう説もある』という程度の話だろう?
そんな話に惑わされる者など、それほど多くはいないんじゃないか?」
「それがそうでもないようなんです。自分は東北の寒村の出身でして、親が手紙で教えてくれたんですが、うちの郷里の辺りでは──」
大川の話によると、東北や北陸などの地方では、『7月27日の正午から5分間空気が無くなる』という噂がまことしやかに語られているのだそうだ。
現に尋常小学校では児童たちに息を長く止める特訓をやらせたり、巷では5分間をしのぐ分の酸素ボンベ替わりに自転車チューブを買い占める者も現れて、チューブの値が10倍以上にも高騰したりしているという。
「中尉殿。その、こんなことは言いたくないのですが、お偉い方々が自分たちだけ助かるために、大量のチューブを確保しようとしているなんてことは──?」
「馬鹿な! そんな眉唾な話を真に受けて利己的な行動に走るなど、仮にも帝国軍人たるものが、そんな恥知らずな──」
宮田はそう反論しかけたが、ふいにあることを思い出して言葉を詰まらせた。
「──中尉殿?」
「なあ、大川。この春の第六潜水艇の事故の話は知っているな?」
「は。実に痛ましい事故だったそうですね」
──今年の春、日本初の国産潜水艇『第六潜水艇』が、試験航行中に沈没事故を起こしてしまった。イタリア海軍で似たような事故が起こった時には、乗員たちが我先に逃げ出そうとして乱闘した形跡があったのだが、第六潜水艇の乗員たちは全員が整然と所定の配置についたまま亡くなっていたのだ。
引き上げられた船体の事故調査に当たった者たちも、その様子を見て『これこそ潜水艇乗りの鑑だ!』と号泣し、『帝国軍人かくあるべし』という訓話として陸軍にも広められている。
「これは、俺も小耳にはさんだだけの話なんだがな、大川。
7月の下旬に海軍のお偉いさん方が、そろって第六潜水艇2番艦の試験航海に同乗するらしい。『まだ実用水準にない危険な艦艇に何故?』と思ってたんだが──それもハレー彗星のガスから逃れるためだと考えれば、説明はつくな」
「そ、そんな!? 陸軍でも海軍でも、お偉いさん方は自分たちだけが助かることを考えてるってことですか!
中尉殿、これは断固抗議すべきではないですか!」
「──まあ、落ち着け、大川」
激高する大川を見ているうちに、逆に宮田は冷静さを取り戻していた。
「俺たちごときが何かを言ったところで、どうせどこかで握りつぶされるだけだ。
かまわんから、自転車とチューブの調達を進めておいてくれ。
──まあ、心配しなくとも、あの連中が思っているようなことなんて起こりゃしないよ」
あっけらかんと言う宮田に、大川はいささか拍子抜けしたようだった。
「え? 中尉殿、何でそんなに落ち着いていられるんです? 怖くはないんですか?」
「俺はしょせん『数学屋』だからな。あくまでも数字を基準に判断しているだけだ」
「──どういうことです?」
「ハレー彗星はたしか75年周期だったよな? 生物が海から地上に進出したのがおおよそ4億年前として、ええと、4億÷75で──ざっと53万回以上は地球に近づいているわけだ。
本当にハレー彗星がそれほど危険で、それほどの頻度でやってくるなら、とっくの昔に地球の生物は死滅しているはずじゃないか?」
「あっ、言われてみれば確かに」
ようやく大川も納得したようなので、宮田は中断していた書類仕事に取りかかることにした。
「そういうことだ。どうせ何も起きやしないさ。
この命令もたぶんなかったことにされて、チューブの大量発注も何かの間違いだったってことに収まるだろう。こんな無様な命令を出したなんて、恥ずかしくて誰も言いだせんだろうからな。
もし、俺の予想が外れてしまったとしても──まあ、その時はみんな揃ってお陀仏するだけのことだ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
1910年、ハレー彗星が地球とすれ違う少し前には様々な憶測やデマが広がり、世界各地で様々な騒動を引き起こした。
だが、結局は何事も起こらなかった。彗星の尾のガスはあまりに稀薄で、地球の大気には何ら影響を及ぼさなかったのだ。
ちなみに、この時に帝国陸軍や海軍が何らかの備えをしたという公的記録は一切残っていない。




