◆アガペー―神の愛
六つ目
クレイヴン王国の大聖堂。その高く尖った天井からは、七色のステンドグラスを通り抜けた光が、厳かな静寂を伴って降り注いでいた。
今日は半年に一度の「女神降臨」の日。
この国を興したとされる女神バーニスの幻影が地上に姿を現し、民に慈悲を授ける神聖なる日だ。
私、フランク・パリエロは、大聖堂の最前列で深く膝をついていた。
心臓の鼓動が耳元まで響いている。恐怖ではない。これは、法悦にも似た歓喜だ。
(ああ……ようやく、貴女にお会いできる)
私は伯爵家の三男として生まれたが、幼い頃から俗世の権力や、政略結婚といった取引に興味が持てなかった。
そんな私の魂を救ったのは、かつて絵画で見た女神バーニスの微笑みだった。
彼女は何も求めず、ただ慈悲深く世界を見守っている。その無償の、無条件の愛に、私は自分の生涯をすべて捧げたいと願ったのだ。
「――どうぞお姿を、我らが母、バーニス」
教皇の声が響くと同時に、大聖堂の中央に黄金の光が溢れ出した。
光の粒子が寄り集まり、巨大な――見上げるほどに美しく、神々しい幻影が姿を成す。
透き通るような白銀の髪、すべてを見通す翡翠の瞳。そこに存在するだけで、人の罪を焼き尽くすような圧倒的な神気。
女神バーニス様が、そこにいらした。
「女神様……」
私は恍惚としながら進み出て、その足元にひれ伏した。
「私はここに誓います。生涯、血を分けた家族や友人と同じように、それ以上に、貴女を敬い、貴女を愛し続けます。私に報いなど必要ありません。ただ貴女を想うこと、それこそが私の愛のすべてです」
これは契約ではない。私の一方的な献身だ。
だが、その瞬間。女神が、わずかに微笑んだような気がした。
その神聖な沈黙を――あろうことか、土足で踏みにじる者がいた。
「待ってください!! そんなの、狂っています!!」
背後で、重厚な扉が開け放たれる音が響いた。
振り返る間もなく、群衆を無理やりかき分けて、一人の女子生徒が乱入してきた。
ピアース子爵令嬢、レニー・ピアースだ。
「ピアース嬢!? 何をしている、ここは…!」
「フランク様! 止めてください! 神に愛を捧げるなんて、そんなの、ただの空想への逃避です! 貴方は生きている人間なんです。神様と手をつなげますか? 抱きしめ合えますか? 種族も次元も違う存在に愛を誓うなんて、それは自分を殺しているのと同じです!」
レニーは、女神の巨大な幻影の前に立ちはだかり、こともあろうにその指を神に向けて突きつけた。
周囲の信者たちから、悲鳴に近い驚愕の声が上がる。
「不敬だぞ、控えなさい!」
「いいえ、退きません! フランク様、そんな実体のない幻影に縛られるのはお止めなさい! 人は人と、触れ合える相手と愛し合うべきです! それが世界の『正解』なんです! それなら……そんなに愛が欲しいのなら、私が貴方と結婚してあげます! 私は貴方を、正解の愛へ導いてあげられるわ!」
レニーの声は、もはや使命感を超え、救いを求める悲鳴のようだった。
私は、静かに立ち上がった。
胸の中にあった法悦は、今、冷ややかな怒りへと変わっている。
「ピアース嬢。君は、愛とは常に『対価』や『実体』を伴わなければならないと考えているのか?」
「当たり前です! 報われない愛なんて、ただの自己満足です!」
「……浅ましいな。君の言う愛は、結局のところ『自分の寂しさを埋めてもらうための取引』でしかない」
私は女神を見上げ、再びその神聖な光に浸った。
「私が捧げているのは無償の愛だ。見返りなどいらない。女神様が私を愛してくれなくても、触れてくれなくても構わない。私が彼女を愛しているというその事実だけで、私の魂は完成されているんだ。…君のように、他人に『正解』を押し付けなければ維持できない愛など、愛とは呼ばない」
「嘘よ…そんなの、綺麗事だわ! フランク様を、女神様、彼を解放してください! 彼は人なんです! 人として幸せになる権利があるんです!」
レニーが女神に向かって叫んだ、その時。
大聖堂全体の空気が、一瞬で凍りついた。
幻影であったはずの女神の瞳が、ゆっくりと動き――レニーを捉えた。
『――小さな、迷い子よ』
その声は、耳ではなく魂に直接響いた。
レニーは糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。女神の圧倒的な存在感に、肉体が拒絶反応を起こしているのだ。
『フランクの愛は、確かに受け取った。彼は死後、私の配下として天上の庭園に召し上げ、永遠の安寧を与えると約束しよう。それは彼が自ら選び取った、魂の帰着点だ』
私は涙が溢れるのを止められなかった。女神様が、私の献身に答えてくださった。
女神は次に、震えるレニーを見下ろした。
その翡翠の瞳に宿っているのは、怒りではなく、深い、深い、憐憫だった。
『レニー・ピアース。お前は私に、彼との関係に愛が無いと説くのか?』
「あ…あう……」
『愛が無い関係なんて、誰が決めた?』
神の口から放たれたその言葉は、レニーの精神を完膚なきまでに打ち砕いた。
『私はこの国のすべての民を愛している。フランクが私を愛するのも、また自由。お前が信じる「正解」は、広大な世界のほんの一滴に過ぎない。……本来なら、この不敬は万死に値するが』
女神は、レニーの背後に広がる「運命の影」を見たようだった。
『……お前はすでに、自分自身の傲慢によって、相応しい報いを受ける運命にある。私が手を下すまでもない。この場での不敬は不問とする。……行きなさい。お前の信じた「正義」が、お前をどこへ連れて行くのか、その目で見守るが良い』
光が強まり、女神の幻影はゆっくりと消えていった。
大聖堂には、再びステンドグラスの光だけが残る。
「女神様…!」
私は、約束された未来への歓喜に包まれていた。
一方で、レニーは地面に這いつくばり、嗚咽を漏らしていた。
「どうして……どうして神様までそんなことを…。私は…私はみんなを救いたかっただけなのに……っ!」
誰も彼女を助けようとはしなかった。
大聖堂の衛兵たちが、魂の抜けたような彼女の両脇を抱え、外へと連れ出していく。
彼女の目には、かつての強い光はなく、ただ底知れない恐怖と絶望だけが張り付いていた。
私は再び膝をつき、祈りを捧げた。
女神様に召し上げられるその日まで、この身を清らかに保ち、愛を捧げ続けることを。
そして歯車が、音を立てて回る。
残り二つ~~~
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